IV
呼び出されたのは、古ぼけた内装の喫茶店。レトロといえば聞こえはいいが、狭くて薄暗く、埃っぽい。しかし、長年憩いの場として天保大学の学生を支えてきたらしく、その存在自体がブランドと化している店のようだった。
カラカラとベルの鳴るドアを開き、待ち合わせだと伝えると、黒いエプロンのおばさんが奥を示してくれた。
壁一面に貼られた色紙やサークルの勧誘ポスターなどに目を奪われつつ、テーブルとテーブルの狭い隙間を縫うように進むと、ぼくを呼び出した張本人がスマートフォンの液晶を覗きこんでいた。
「先輩、来ましたよ」
声をかけられてようやく、彼女は顔を上げた。まるで誰とも待ち合わせていなかったふうではないか。
「ああ、弥くん。よく来てくれたね。才華ちゃんは?」
「いませんよ。行ってみたい体験講義がもうひとつあったみたいで」
ふうん、と唸って唇を真っ直ぐに結ぶ。才華が意図的に足立先輩を避けたことは、本人もわかっているだろう。
この場所に来たのは、先刻『無事に保護できたよ』のメールに返信したことがきっかけだ。彼女とぼくはメールアドレスを交換したことはないので、何事かと思って返信をしただけだった。すると、この店に来て少し話そうと提案された。
水が運ばれてきたので、ついでにアイスコーヒーをお願いした。先輩はすでにホットを注文していて、炎天下を駆けつけたぼくにあてつけるかのように、優雅に身体を温める。
「まあ、才華ちゃんがいないほうが話の腰を折られなくていいか」
小さく呟いてから、
「先に、聞かせてくれる? 銀太がどうして四号館の二階、窓の外にいるとわかったのか。才華ちゃんの考えを教えて」
と切り出した。
別に本題があるのか、と思いつつ、「ぼくには詳しくわからない部分もありますが」と前置きして説明する。
「心理学には、条件反射という考え方があるそうですね。犬がエサをもらうとき、同時にベルの音を聞かせたとする。これを繰り返すと、犬はベルの音を聞いただけで涎を垂らすようになる」
「パブロフの犬――有名だね。いろいろな作品で引き合いに出されるから」
「銀太にも条件付けされる状況がありました」
「白川教授が餌付けしていたことと関係がある――そういうこと?」
首肯する。
「白川教授は、病気の影響で歩くのに不自由していたそうですね。ただし、常に杖を突くほど足が悪いということもなかった。この目に見えにくいハンディキャップを、杖を持ち歩くことと、リュクサックにキーホルダーを付けることで周囲に知らせようとしていた。透明なアクリル製のキーホルダー……外見ではわかりにくい障害を伝えるためのサインとして、普及しているそうですね。銀太は、これを記憶していた」
ここまで説明すれば、足立先輩は納得してくれる。
「餌付けをした場所の近くにリュックがあって、銀太は自分のご飯とキーホルダーを結びつけて理解した。結果、キーホルダーを目にしたらエサがあると理解し、近づいていくようになった。だから、四号館の二階に上ってしまった――窓際に、キーホルダーの付いたリュックサックが置かれていたから」
四号館は六号館より古い。大学の古い建物には、窓枠の外に銀太が上れるようなスペースがある。六号館にあったのなら、それより古い四号館にもあった。
「心理学では『理解』したとは解釈しないそうですが、どうやらそのようです。銀太は食べ物を欲しがって登ってみたけれど、下りられなくなった――足が悪かったので」
銀太にとっては不幸だった。猫の気持ちはわからないけれど、ふと見つけた輝きに、食べ物が得られると思って釣られただけだったのだ。足が悪くても、近くに見つけた木を伝うなどして、二階の窓際まで登ってしまった。ちょっと向こう見ずなきらいはあったのかもしれない。
白川教授も、心理学の教授とはいえ、何が銀太の行動に影響を与えてしまうかは予想がつかなかった。心理学としても、たとえばベルの音を聞いて涎を垂らす犬だって、実は犬がベル以外の別の要素をエサと結びつけている可能性を否定できないという。ベルを持つ人とか、その背後の蛍光灯のちらつきとかに反応していたとも考えられる。だから、本当に教授のキーホルダーが引き金だったのかは結局わからない。ともかく、足の悪い銀太に共感し、純粋な好意から餌付けをしていたのだから、銀太が無事と知れば教授もほっとすることだろう。
「才華が調べたところによれば、猫の目は色覚がさほどしっかりしていない代わりに、光沢を放つものはよくわかるそうです」
先輩はゆっくりと頷いて、ここにいない少女の姿を思い浮かべているようだった。彼女の独特にして聡明な頭脳は、本人が不在だろうとはっきりとした存在感がある。彼女の推理を目の当たりにした人ならば、一生忘れることはないだろう。
それにしても、と思う。
目の前で砂糖とミルク多めのコーヒーを嗜む彼女が、どうして猫を追いかける面倒な役目を引き受けたのか。いや、面倒だったから偶然見つけたぼくと才華に解決を求めたのかもしれない。でも、偶然が起こらなかったら自ら猫の捜索に乗り出さなければならなかったはずで、「天保高校の大女優」とは思えない行動だ。
そういえば「付き合いも大事」と言っていたような。
彼女はInter-Actと密に連携を取って活動している。大学にもしょっちゅう足を運んでいるようだし、高校三年生の今年など、ほとんど大学に所属しているのと変わらないつもりだったかもしれない。だとすれば、外部の大学を受験するつもりもないだろう。
もちろん、それすらも演技と見ることもできる。天保高校の大女優は、自分に都合の悪いことは何でも演技で乗り切ってしまう。相手を騙し、自分を隠す。目の前の足立愛莉という人と、その本性とは全然違うかもしれない。その意味では信用ならざる人なのだけれど、演技までふくめて彼女の為人と思えば、その実とても正直な人のようにも思えてしまう。
真意はどちらにせよ、奔放に振る舞う以外の方法を選択しているのは確かだ。彼女ほど注目されやすい人が外部進学を希望すれば噂が立つだろうから、順当に内部進学すると思われる。だとすれば、いまからできる「投資」なのかもしれない。
同じ天保高校三年生でも、将棋部の部長とは対照的な悩みだ。
「お待ちどう」と絶妙なタイミングでアイスコーヒーが届けられた。
はっとして顔を上げると、先輩がにっと口角を上げた。その表情はまるで、ぼくが先輩のことを勘ぐっていたことに気がついているかのようだった。
「さて、そろそろ本題かな」
「…………」
「そう警戒することはないよ。私から弥くんにたったひとつ質問するだけ」
徹頭徹尾、足立先輩は澄ました表情を崩そうとしない。「常に演技して生活している」と豪語する彼女は、言葉ではボロを出すことがあっても、表情では本心を推察する隙を与えない。才華ですら、真実を演技に塗り替えてしまう彼女を持て余してしまう。
本人の言う通り、質問はごく短いものだった。
「マリーとは仲良くしているかな?」




