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日常と、少しの歪。  作者: 高橋徹
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第1話 ノック

 特に何も、変わったことは無かった。

 休み明けの気だるげな身体を無理やり動かして会社へ行き。

 隣の課の、1つ年上の素敵な人にどうやってアプローチしようかと考えていたらデータの入力をミスして。

 上司にたっぷり怒られても、その後に意中の女性とちょっぴり話すことが出来て、嬉しくて。

 1時間だけ残業して、帰ってきた。


 家は2階建てのアパートで、階段は外に付けられている。6つしかない部屋の内の、自室である202号室に辿り着いたのは、20時半くらい。遠くても家賃が安い所を選んだ。交通費が全額支給なのは助かっている。


 取り敢えず着替えて一息ついたら、コンビニに行こう。駅とアパートの間にコンビニもスーパーも無いのは地味に痛いな……と思いながら、徐に鍵を開けて玄関に足を踏み入れ、ドアを閉める。



――その瞬間。



――こん、こん、と。



 家のドアを、ノックする音がした。


「……え?」


 事態を呑み込めていないながらも、いつもの癖で手を伸ばして電気を点ける。

――このアパートには、外に取り付けられた階段しかない。1階は3部屋とも埋まっているが、2階の両隣は空いている。

 何より、今自分は……ドアを閉めるまで、誰も見ていないじゃないか。

 眠気で朦朧としていた頭が強制的に冴え渡り、目の前のドアを凝視する。普段そんなに観察することの無いドアには、小さな傷が沢山あった。


――こん、こん。


 また、音がする。

 一度目と全く同じ、聞き慣れたノックよりも随分と間延びした、まるで関節が錆びついているかのような、鈍いノック。


 誰かいるんですか。


 扉の向こうに呼びかけようとして、やめた。

 だって、その言葉を発した時点で、自分は扉の向こうに誰も居ないと思っているのだと言っているようなものではないか。

 だから、何も言わない。


 ……こん、こん。

 ……こん、こん。

 ……こん、こん。


 間延びしたリズムのまま、今度は絶え間なくノックが聞こえる。

 開けたら、多分、駄目だ。

 自分の命か、人生か、生活か、何かは分からないけれど。

 多分、何かが終わる。


 そう、結論を下して、ドアに背を向けて狭い6畳のワンルームの我が家に足を踏み入れる。トイレのドアを開けたまま用を足すと、その間もノックの音が聞こえた。もう寝るまでトイレにも行かない、コンビニなんて論外だ。脱ぎ捨てたワイシャツや靴下を洗濯機に突っ込み、雑な目分量で洗剤を入れ、洗濯機を回す。いつもなら朝に回り始めるようタイマーをセットして、洗濯機の音と共に起きるのだけど。今はずっと聞こえてくるノックの音を紛らわせたかった。

 洗濯機が回っている間に布団をかぶる。玄関から伸びた廊下と居間を隔てるのは、曇りガラスの入ったドア1枚だけ。それでも防音には十分なようで、もうノックの音は聞こえなかった。


 夢だ、そう、夢だったんだ。

 そう思い込んで、パソコンを起動して安らぐ音楽を流しながら、眠りに就いた。




――こん、こん。


 普段、目覚ましがいくら目の前で鳴っていても中々起きない自分が。

 たった1つの小さなノックの音で、跳ねるように跳び起きた。

 時間はいつもの起床時刻より少し早い。昨日は何だかんだ早く寝たから、すっきりしているな……と思っていると、一気に顔から温度が失せた。


 あの音が、何でまだ聞こえる?

 洗濯機を回す間も、朝ごはんを食べている間も、トイレで用を済ませている間も。


 こん、こん。

 こん、こん。

 こん、こん。


 ずっと、ずっと、ずっと聞こえている。

 気が狂いそうだったが、それでも会社に行かなければと思い――支度をして、ドアの前に立つ。

 何となく、ノックの途中に開けるのはまずいと思った。幸いノックは一定のリズムと速さで行われている。ノックが止んだ瞬間に、女の子に告白する時以上の勇気を振り絞ってドアを開けた。


 誰も居なかった。

 誰も居なかった。

 誰も――居なかった。


「……何なんだよ、マジで……」


 春の陽光が全く意味を成さない程の不快感を表情に出して、それでもどこか安心して、目を閉じて上を向く。


――こん、こん。


「……え?」


 再び聞こえた音に、跳ねるように振り向く。

 ノックの音が聞こえた。

 また、扉の向こうから。

 即ち――自分の部屋の中から。


「……入られた……」


 身体の内側を、不快で恐ろしい何かがぞぞぞと通り抜けていく。

 もう帰れないな……と思いながら、会社へ向かった。




 その日は友人の家に泊まり、そのまま1週間程お邪魔した。普段の自分ならそんなことはしないということで、友人はとても心配そうに事情を尋ねてきた。説明するだけしてみると、とても驚くと同時に恐怖で戦いていた。


 会社に1日休みを貰い、引越し先を即座に決めた。荷物は沢山あったがどうしても取りに行きたくなくて、迷った挙句大家の老人に相談をした所、全部持ち出すとあっさり言われた。こちらのわがままを快く引き受けてくれたのはありがたいが、何も事情を話してくれないのが妙に気にかかった。


 あれから2ヶ月。

 引越し先で何かが起きる訳でもなく、平穏に過ごしている。意中の女性とは最近少しだけ話す時間が増えた。今度食事に誘おうとしている。


 あの部屋はどうなったのだろうか。新しい人は入ったのだろうか。


 あのノックの主はどこから現れ、今、どこにいるのだろうか。


 今でも、少しだけノックの音が怖い。


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