小さな依頼人
店のシャッターを開けた瞬間。
東雲桃馬は目の前にちょこんと座る小人と目が合って、一瞬思考が停止した。
無論、小人と言っても童話に出て来るあの小人、ではなく。
「おはようございます」
見た感じ年長くらいの女の子供、である。
少女は桃馬に向かって、きちんと立ち上がってぺこりと頭を下げながら元気な挨拶をする。
シャッターを開けるべく上げたままだった両手を慌てて下げて、桃馬も半ばつられて「おはようございます」とお辞儀した。
「えーっと……お嬢ちゃん、迷子?」
じっと見上げて来る少女に、取り敢えず愛想笑いを浮かべつつ問えば、少女は首を横に振った。
「あのね、おじさん」
「おじ……っ!?」
真剣な眼差しで言われた一言に、桃馬は思わず絶句した。
東雲桃馬。アラサーの独身男性。三十まであと少し。
だが。
「おじさん?」
顔面を蒼白にして口をあんぐりさせている桃馬に、少女はきょとんとした顔で第二撃目を放つ。
無垢にして曇りなき攻撃を急所にもろに喰らった桃馬は、顔を思い切り引き攣らせながら、少女の両肩に手を置き。
「お嬢ちゃん。俺はおじさんじゃなくて、お兄さん。いいかい?」
「……そうなの?」
……東雲桃馬、アラサーの独身男性。もうすぐ三十。
しかしまだ。まだ。二十代である。
たとえこれくらいの子供にとっては十分“おじさん”でも。
「そうなの。よく御覧? 俺のどの辺がおっさんに見える?」
失礼を承知で、たまたますぐ側を通り掛った見知らぬ四、五十代くらいの中年男性をあからさまに見遣りながら言えば、少女もその男性と桃馬を見比べて、顎に指を当てて考え込む。
というかそこは考え込まないで欲しい。
どう見てもあっちより俺の方が若いだろう。
などと内心ツッコミながら少女を見下ろしていたら。
「じゃあ、お兄さん」
“じゃあ”!? “じゃあ”って言った……!?
正直な少女の止めの一撃を喰らって絶句する桃馬だったが、少女はちゃんと言い直したからかもはやその事にはもう気にせず、肩から下げていた小さなバッグから、便箋を取り出した。
「あのね、お兄さんにお願いしたら、届けてくれるって聞いたの」
まだショックから立ち上がれない桃馬だったが、差し出された手紙に、スイッチが入ったように気持ちが切り替わる。
「……誰に届けたいんだい?」
何かのキャラクターのイラストが描かれた便箋を、丁寧に両手で受け取って。
桃馬は努めて柔らかく、優しく、真剣に問う。
少女は、何処か躊躇うように一瞬俯いて。
「お兄ちゃん」
そう、答えた。
「智菜ちゃん!!」
少女を送り届けた先は、施設だった。
エプロンを着た優し気な四十代くらいの女性が、少々蒼白な顔をして桃馬と少女の元に駆け寄って来る。
智菜、というのは少女の名前だった。
入枝智菜、歳は六歳だと道すがら教えてくれた。
「何処に行ってたの!? 朝御飯食べた後から急に居なくなって! 皆凄く心配してたのよ!?」
智菜の両肩を掴み、施設の先生がそう智菜を叱る。
その表情には恐怖と安堵が入り混じっていて、どれだけ心配させたか智菜にも十分理解出来る程だった。
智菜はしょんぼりした顔で小さく「ごめんなさい……」と詫びる。
「どうかあまりきつく叱らないであげて下さい。智菜ちゃん、とても大事な用があったんです」
桃馬がそこで助け舟を出すと、先生は弾かれたように彼に視線を向けた。
智菜を心配する余り、彼女を送り届けた桃馬の存在は眼中に入っていなかったらしい。
今漸くその存在を認識し、先生は警戒と不審を如実にその顔に滲ませた。
「あの、失礼ですが貴方は?」
「申し遅れました。俺は東雲桃馬と言います。その先の通りで、こういう店を構えております」
言いながら桃馬は、上着の内ポケットから名刺を取り出して先生に差し出した。
「……想い届け屋、新月堂……?」
「疎遠になって何処に居るのか分からなくなってしまった相手に、手紙を届ける仕事です」
「……その新月堂さんが、何故この子を?」
「智菜ちゃんからご依頼を頂きました。――三年前、新しい御両親に引き取られて施設を出て行かれたお兄さんに、手紙を届けて欲しい、と」
困惑と警戒を崩さぬ施設の先生に、先程智菜から受け取った手紙を見せれば、先生は僅かに目を瞠って、悲しそうな、労わるような目で智菜を見下ろした。
智菜に部屋に戻るように指示した後、先生は桃馬を応接室へと案内した。
片桐敏子だと名乗った彼女は、智菜の手紙を見た瞬間から、酷く動揺した様子だった。
「……智菜ちゃんは、東雲さんのお店に伺っていたんですね。朝早くから一人で……」
「施設の先生に言ったら絶対に反対されるから、としょげた様子で言っていました」
「反対なんて……。ただ……そうですね、手紙は送れない、と一度教えた事があるのは事実です」
テーブルに茶を置きながら、片桐は疲れたような様子で語る。
「智菜ちゃんのお兄さん、智哉君が引き取られた時、智菜ちゃんはまだ四歳で、智哉君は十三歳でした」
「結構歳が離れた兄妹なんですね」
「はい。智菜ちゃんはお兄ちゃんの後ろをずっと付いて歩くような子で、ちょっとの間でも智哉君の姿が見えないと泣いてしまうくらい、智哉君が居ないと駄目だったんです。そんな中、智哉君だけ新しい御両親に引き取られる事になって……」
当時、智菜はその事実を頑なに受け入れようとはしなかった、と、片桐は言う。
毎日毎日智哉にしがみ付いて号泣し、嫌だ嫌だと頻りに喚いていた、と。
「智哉君も必死に智菜ちゃんに“仕方ないんだよ”と言い聞かせていましたが、私達も見ていてとても辛くて」
智哉が施設を発つ日も、智菜は彼を行かせまいと、最後まで兄にしがみ付いて離れようとしなかった。
半ば強引に片桐が智菜を引き離し、智哉も酷く辛そうな顔で振り切るように智菜に背を向け、引き取り手である里親の車に乗り込み、去って行った。
「その日は智菜ちゃん、一日中泣き止まなくて。私達職員で何とか宥めて眠らせたんですけど、翌日……あの子、とんでもない事を仕出かしまして」
「とんでもない事?」
「……“お兄ちゃんのとこに行く”と書き置きを残して、姿を消したんです」
余程兄と別れるのが辛く、耐え難く、恐ろしかったのだろう。
智菜は片桐達の目が離れた隙に、兄を追い掛けて施設を飛び出した。
施設内は騒然となり、職員全員で智菜を捜索した。
警察にも連絡を入れて、漸く見付かったのは、その日の日暮れだった。
「そんな事もあって、私達は智菜ちゃんに智哉君の引き取り先を教える事はなかったんです。教えたら、また無茶な事を仕出かすかもしれない恐れがありましたし……。その甲斐あって、あの子も日を追うごとに、智哉君と離れ離れになった現実を少しずつ自分なりに受け入れられるようになっていきました」
そこまで話すと、片桐は桃馬に「ちょっと待っていて貰えますか」と言って応接室から一旦席を外した。
ものの五分程で片桐は戻って来たが、その手には一枚の葉書が握られていた。
「一昨年、智哉君の新しい御両親が送って下さった年賀状です」
家族三人の写真付きの年賀状だった。
新年の挨拶と、親子三人仲良く暮らしています、という簡単なコメントが書き込まれている。
智哉の笑顔には少々のぎこちなさが僅かに残ってはいるものの、親子として平穏に暮らしているよ、というメッセージは十分伝わる葉書だった。
「これを智菜ちゃんには?」
「見せていません。見せても漢字の読めない彼女には、住所なんて分かりはしないでしょうけど、先程話した一件もありましたし、念の為……」
「そうですか。一昨年の年賀状という事ですが、去年と今年は?」
「送られて来てません。実は去年は私共の方は送ったんですが……お引越しでもなさったのか、住所が違う、と戻って来てしまって……」
それが、智菜に兄に手紙は送れない、と言った理由なんだろう。
智哉は、新しい両親と共にまた違う土地へと行ってしまった。
何処に行ったのか、何故行ったのかを、施設にわざわざ報告する必要もなし、今や完全に智哉も智哉の両親とも全く居所が分からなくなってしまっているのだった。
「今度の春、智菜ちゃんも新しい両親の元へ引き取られる事が決まったんです」
「……今度の春ということは、智菜ちゃんは小学生に進学する時期ですね?」
「はい。一年生になるし、新しいお父さんとお母さんが出来たから、智菜の事はもう心配いらないよって、お兄ちゃんに伝えたいんだと、以前智菜ちゃんが言っていました。手紙の内容も多分……」
桃馬は葉書をひっくり返して、表面に書かれている字面を眺めた。
書かれている智哉の住所を読んで、頭の中で地図を思い浮かべる。
ここから車で三時間程北上した、県境の辺りに位置する町だ。
最近住み易い街としてネットニュースで取り上げられて、それなりに話題になった街でもある。
「この年賀状、お借りしてもいいでしょうか?」
「え……ええ、構いませんけど……でも、智哉君はもう、その住所には……」
「けど、何らかの手掛かりにはなると思うので」
不安そうに言う片桐に、桃馬はにっこり笑う。
曲がりなりにも元探偵だ。手掛かりが少ない事など、依頼を断る理由にはならない。
そんな桃馬に半ば唖然とする片桐は、更に不安な色を濃く滲ませた声で、
「ほ、本当に見付けられるんですか?」
と言った。
只でさえ少々胡散臭い稼業である。
信じて良いものか、ここへ来て判断に困り始めた片桐に、しかし桃馬は更に不敵な笑みを浮かべて。
「ええ。それが俺の仕事ですから」
そう、断言した。