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9. 六月一七日
二件の自殺(殺人?)を調べていると、興味深い出来事に突き当たった。
一件目の、雑居ビルからの飛び降り。
死亡したのは、若い会社員。ここではあえて、その会社員を『被害者』とする。現場は台東区の入谷だったが、被害者の住所は足立区の梅島だ。東武伊勢崎線に梅島駅はあるが、被害者が使っていた最寄り駅は、一つとなりの西新井だった。
転落死の前日である六月二日、西新井駅で自殺騒ぎがおこっていた。所轄署によると、被害者──伊藤康文が、ホームに入ってきた電車に飛び込もうとしたらしい。それを一人の男性が、いっしょに飛び込んで助けたという。
興味深いというのは、その助けた男性の行動にある。伊藤康文が飛び込もうとするまえに、その男性がさきに自殺をはかろうとしたという目撃情報があるのだ。女子高生に腕をつかまれて思いとどまったようだが、自殺未遂は、その男性と伊藤康文──二件たてつづけにおこっていたことになる。しかもその男性は、伊藤康文を助けたあと、逃げるように現場を去っていったそうだ。
謎の男性……。
二〇代。身なりはキチッとしていたが、ノーネクタイだったので会社員には見えなかったという。
片瀬には、その存在がとても気にかかった。もしかしたら、もう一件の被害者──山本武司とも、どこかに接点があるのではないか……。
そういう思いで、片瀬は、亀戸の事件現場付近に足をはこんでいた。
アパート自体は見えないが、アパートへ向かう路地の入り口を見通すことができる喫茶店に入っていた。これから、この近辺で聞き込みをするつもりだった。手始めに、この喫茶店のウェイターに声をかけてみたが、空振りだった。
席について、まだ一〇分ほどだった。
店内は、意外なほど客が入っていた。
時刻は一一時を少し過ぎたところだ。お昼休みには、まだ早い。火曜のこの時間、けっして広いとはいえないが、それでも大半の席が埋まっているのは、たいしたものだ。
通りの向こうにあるパチンコ店のおかげかもしれない。そういえば、みなジャージのような部屋着に近い装いをしている。素行の荒らそうな男性客の姿もあった。いかにもパチンコ好きの集まり、といった様相だ。
片瀬の席は、窓際だった。
砂糖をたっぷりと入れた紅茶が、テーブルには置かれている。コーヒーは飲めない。苦いからだ。よく笑われるが、飲めないものはしょうがない。
まだ紅茶には、口をつけていなかった。
口をつけようとしたときに、パリンッ、という甲高い破裂音が店内に響いた。
「おい、てめえ! どうしてくれんだ!」
「す、すみません!」
どうやら、女性店員が水の入ったコップを落としてしまったらしい。その水が、客の一人にかかってしまったようだ。
「ふざけんなよ、てめえ!」
客は、「素行の荒らそうな」と表現をした男だった。見た目で判断してはいけないが、近所のトラブルメーカーになっていそうなチンピラ風だ。
「も、もうしわけありません」
ウェイトレスをかばうように、男性店員が頭をさげた。
さきほど話を聞いたウェイターだった。
「そんなんで許せるかよ! おう! このおとしまえ、どうすんだ!?」
男の凄味に、店員だけでなく、そのほかの客もおびえていた。
片瀬は立ち上がりかけた。
しかしそのまえに、女性客の一人が声を放った。
「いいかげんにして、あなた」
店内のだれも、最初それがなにを意味するものなのか、理解できていなかった。
「あなたが、わざと足を掛けたんでしょ?」
女性は、席に座ったまま、読んでいたであろう文庫本を閉じた。
年齢は、二〇代半ばほどだろうか。いや、もっと若いかもしれない。いままで片瀬は、その女性の存在に気づいていなかった。
スーツ姿で、この女性だけは、とてもパチンコをするようには見えない。
「大負けして、八つ当たりするつもりだったんでしょうけど」
「なんだと!? このアマ、ヘンな言いがかりつけやがって!」
ガラの悪い客は、勇気ある女性に詰め寄っていった。
「言いがかりをつけているのは、あなたでしょ?」
それでも冷静さをたもちつつ、女性は折れようとしない。
「俺は、足なんて掛けちゃいねえ!」
「本当?」
「本当だ!」
「神に誓って、そう言える?」
「ああ、言えるよ!」
その答えを聞いて、女性が立ち上がった。
「わたしにじゃない。神に答えるのよ」
「な、なんだぁ……」
チンピラは、鼻白んだ。
なに言ってんだ!? という感情が眼に出ていた。
「わたしに誓ったって、しょうがないでしょ? あなたの信じる神は?」
「え、ええーと……」
「なんでもいいわ」
「ほ、仏様だ!」
「じゃ、仏様に誓ってよ」
「わ、わかった!」
チンピラは困惑しながらも、女性に従っていた。驚くことだが、チンピラのほうが完全に呑まれている。
「仏様に誓って、俺は足を掛けちゃいねえ」
そう口にすると、チンピラは女性の顔を勝ち誇ったように見た。
「どうだ、俺は嘘を言っちゃいねえだろ!?」
「嘘かどうかを判断するのは、わたしでも、あなたでもない。あなたの心のなかにいる神様よ」
女性は、真っ直ぐにチンピラと視線を合わせた。
「神様は、なんて言ってる?」
「う……」
「もう一度、同じ質問をするわ」
フ、と一瞬だけ、女性が笑ったような気がした。
「神に誓って、そう言えますか?」
しばらく二人は、瞳を対峙させたまま。
十数秒。
「ちっ!」
チンピラのほうから、眼をそらした。
「もういい! 俺は帰るぜ!」
ドカドカとした足取りで、レジに向かう。
料金を支払うと、チンピラは捨てぜりふのように、再び舌打ちしてから店を出ていった。いや、扉を開けかけたが、レジに戻って、そこで売っていた百円ライターを一つ手に取った。
バンッ! 手のひらで叩くように、レジ台に硬貨を置いた。
女性のほうを睨んだ。
片瀬には、次のチンピラの行動が、容易に想像できた。
慌てて、女性の席まで走りだす。
刹那──、チンピラが、手にしたライターを女性めがけて投げつけたではないか。
ライターの軌道。
片瀬には、見えた。
女性の額に激突する寸前、片瀬の伸ばした手のなかに、それはおさまった。
チンピラは失敗を見届けると、悔しさに顔面を歪めながら、今度は本当に店を出ていった。
「大丈夫ですか!?」
片瀬は、すぐに声をかけた。
「ありがとうございました」
女性は、ニッコリと微笑んだ。
「あ、いえ……」
眼がくらみそうだった。
自らの頬が紅潮しているのがわかる。
それから、二言、三言、女性と会話を交わしたのだが、よく覚えていない。
気がついたときには、自分の席で冷めた紅茶をすすっていた。すでに、女性は店にいなかった。
一目惚れ、というヤツだろうか。
連絡先、とまではいかなくても、名前ぐらい聞いておけばよかった、と後悔した。
(なにをやってるんだろ……そうだ、いまは捜査のために、ここにいるんだ)
片瀬は心に言い聞かせると、気分を落ち着かせた。
ここに来た目的を、再度、頭にたたき込んだ。
もう一杯、冷めた紅茶に口をつけようとしたときに、店の外をだれかが通っていったのが見えた。
「……ん?」
予感のようなものがあった。
その男は二〇代半ば。ジャケットを着用しているが、ネクタイは締めていなかった。謎の男の特徴と合致していた。男は、アパートへ続く路地に向かっていく。
片瀬は、衝動のままに席を立っていた。
* * *
二階建てのアパートの前で、南波は立ち止まった。
ここに、ある人物が住んでいたことは、調査でわかっている。
南波も知っている男性。
一度だけ会っている……。
これで、二人連続──。
〈つけられてる〉
「!?」
《ヤツ》の声で、追跡者の存在に気づいた。
(どんな人間だ?)
〈振り返れば確認できる、おまえでもな〉
無駄なやり取りになりそうだった。
こういうときは、ほっておくにかぎる。
突然、襲ってくるような相手なら、もっとたしかな警告を放ってくるはずだ。
南波は、アパートの二階を見上げた。
ここのどこかで、自殺が──
「自殺があったんですよね」
* * *
片瀬は、勇気をもって声をかけてみた。
「ここで、自殺があったんですよね」
男の反応をさぐるために、もう一度、同じことを繰り返した。
振り返った男の顔つきからは、危険人物の匂いはしない。それどころか、優しげな目許が好印象をあたえている。素直に、女性から慕われるだろうな、と思った。
一般の会社員には見えない。組織に浸りきった統制のようなしがらみを感じないのだ。とはいえ、やくざな商売をしているようにも見受けられない。
男は突然の声に少し驚いているようだが、それでも余裕ある大人の態度は崩していなかった。
唇に、社交的な笑みが浮かんだ。
「そうなんですか?」
男は、軽やかにそう答えた。
とぼけているのか、本当に知らなかったのかは、判断できない。
「亡くなったのは、山本武司さんというんですが……」
まわりくどいやり取りは、彼相手には、そぐわないような気がした。
ストレートに核心をついた。
「山本武司?」
様子は変わらない。ならば、さらなる揺さぶりをかけるまでだ。
片瀬は携帯を取り出すと、自然な流れで男の顔を撮影した。
一枚。
それでも男の顔つきに変化はない。
おかしい。
理由もなしに写真を撮られて、不快感すら抱かないのは、むしろリアリティの欠けた反応だった。
自分がやられたら、確実に怒っているだろう。
「ご存じないですか?」
撮影はなかったことのように、片瀬は会話を続けた。
* * *
「さあ、聞いたことのない名前です」
南波は、平静をよそおいながら応じていた。
さきほどから、《ヤツ》をおさえこむのに必死だった。
〈危険だ、殺せ〉
《ヤツ》は、同じフレーズを連続するだけだった。語りかけても、返答はない。警告というよりも、命令に近かった。
声をかけてきた男の年齢は、自分と同じぐらい。わずか年上になるだろうか。
一見すると、役所勤めの公務員といったところだ。注意をはらわなくてはならないようには、容姿からは感じない。
気弱そうな瞳。
細い輪郭からは、神経質な雰囲気があらわれている。
唇は薄く、優柔不断を形にしたようだ。
整ってはいるが、たよりさなは否めない。
〈危険だ、殺せ〉
(落ち着け。この男の正体は──)
なぜだかわかった。この男は、なんの取り柄もなさそうな容貌とは裏腹に、獲物を狩ることを熟知している。
「そうですか……突然しゃべりかけてしまって、失礼しました」
声をかけてきた男はそう非礼を詫びると、もうこちらには関心がなくなったのか、あっさりと去っていった。
〈なぜ殺さなかった?〉
男が路地を曲がり、表通りに消えてから、《ヤツ》が問いかけてきた。
やっと、会話が成立しそうだ。
(できるわけないだろう)
だいたい、気配を感じた段階では、ヤツもそれほどの危険人物とは判断していなかったのに……。
それが、声をかけてきたと同時に『危険だ、殺せ』と警告してくるなんて。
「あの男の正体は……」
まわりにはだれもいない。言葉に出してもいいだろう。
〈わかっている。俺様たちの天敵だ。凡人をよそおっているが、恐ろしくキレる〉
「刑事は、敵ではない」
〈そう思いたければ思え。だが、まちがいなくあの男は、再び俺様たちの前にあらわれるぞ〉
「べつに、やましいことはしていない」
〈神に誓って、そう言えるか?〉
「神は……信じていない」