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10. 六月二〇日
謎の男らしき人物との遭遇から、三日が経った。
撮影した画像を西新井の駅員に見てもらったが、「たぶんそうだと思うんですが……どうだったかなぁ」という、どちらともとれる曖昧な証言しか得られなかった。
せっかくの写真だが、この線からはたどりつけそうもない。乗降客にも多数の目撃者がいるはずなので、そこからの証言も期待できるが、目撃者さがしには労力が大きくかかる。いまは、そこまでする必要はないだろう。
ならば、もう一つの線からたぐり寄せるしかない。
山本武司の周辺を聞き込んだ結果、山本が頻繁に使用する駅が絞り込まれた。住居の最寄り駅である亀戸。派遣事務所のある浦安。そして、派遣先であった南砂町だ。
かつては、亀戸にある同系列の派遣事務所に所属していたそうだが、トラブルがあったために、わざわざ遠い浦安の事務所に移ったといういきさつがある。
亀戸と浦安については、わざわざ調べるまでもなく、初動捜査の段階でわかっていたことだ。だが南砂町駅のことは、あらためて調査をしなければ浮上してこなかった。南砂町にある派遣先の倉庫は昨年の暮れに契約を打ち切られていたから、上辺だけの調査では、その名は出てこない。
亀戸、南砂町、それぞれ管轄の警察署に問い合わせてみたが、山本武司が死亡する以前の数日間に、駅、もしくはその周辺で、自殺未遂はおこっていなかった。
浦安については、正式な捜査でない以上、警視庁管内を出るわけにはいかず、ひとまず置いておくことにした。
とはいえ、駅で自殺未遂をおこしているとはかぎらない。それはよくわかっている。ほかの場所かもしれないし、そもそも自殺未遂自体なかったのかもしれない。
しかし、なんの手掛かりもないのだから、伊藤康文との関連性をさぐるしか、片瀬にできることはなかった。
『GOD BLESS YOU』
残された文字が共通している以上、ほかにも一致する部分が必ずあるはずだ。いまは、自分の勘を信じるしかなかった。
『二番線に中野行きが──』
片瀬は、東西線南砂町駅にいた。時間は午後一時を少し過ぎている。
地下鉄の駅のなかは、外よりはましとはいえ、やはり暑い。自分でも無意識に、ネクタイをはずしていた。いつのタイミングで解いたのかは、覚えていなかった。
(ダメか……)
もしかしたら、自殺未遂はあったが、警察沙汰になっていないだけかもしれない──そういう思いで、駅員に話を直接聞きにきた。
さきにまわった亀戸駅では、総武線、東武亀戸線ともに有力な証言はなかった。
もし山本武司が自殺願望をもつとすれば、仕事を無くした喪失感以外は考えにくい。そういう意味では、一番可能性があるのは、この駅だった。
だが残念ながら、ここでも収穫はなかった。すくなくとも、本日出勤いている駅員で心当たりのある人物はいなかった。
ならば、このまま浦安に行ってしまおうと決心を固めた。二つだけさきの駅だが、千葉県に入ってしまう。警察署に問い合わせるなどの行為は面倒なことになるが、聞き込みをするだけなら問題ないだろう。
浦安方面の電車が到着するよりもまえに、中野方面の電車がやって来た。案内板を見ても、次の一番線は『通過』となっている。まだしばらく待ちそうだ。
時間が時間だけに、中野行きから降りる乗客はわずかしかいなかった。
一人の老婆が、片瀬のわきを通過していった。
「おかげんはどうですか?」
すれちがいざまに、そう声をかけられた。
なんのことだろう?
片瀬は老婆に振り向くと、愛想笑いを浮かべた。
「はあ……大丈夫ですが……」
ぼけているのかと思った。
「……あらやだ、わたしったら。このあいだの方だと勘違いしちゃった」
品のよさそうな老婆は、人懐っこい笑顔で軽く頭を下げた。
「ちょうど、同じ時間だったし、似たような格好をしていたもんだから……ごめんなさいね」
そうあやまると、歩き去っていく。
片瀬は、あらためて自分の服装を確認してみた。なんの変哲もないスーツ姿だ。暑さのためにネクタイはつけていないが……。
特徴のある装いとは、ほど遠い。
(ネクタイ……?)
片瀬は、思わず胸の昂りを声に込めてしまった。
「すみません!」
呼び止められた老婆は、なにごとかと、口をポカンとあけて立ち止まった。
「あの、だれと間違われたんでしょうか!? これを見てもらえませんか?」
矢継ぎ早に言うと、プリントした写真を老婆に渡した。
三日前に撮影した謎の男の写真だった。
この男も、ネクタイを締めていない。
「ああ、この方です、この方です」
歳相応に視力が悪いのか、写真を眼のなかに入るほど近づけると、老婆はそう認めた。
「お話を聞かせてもらってもよろしいですか!?」
同時に、身分証を提示した。
「警察の方……?」
老婆の話では、山本武司が死亡した前日──先週の火曜日、午後一時一〇分過ぎに、この駅で写真の男を目撃したという。
なぜ時間まで正確に覚えているのかというと、老婆は駅近くのマンションに住む息子夫婦の家をたずねる途中だった。三歳になる孫の世話をするためだ。
嫁は最近、習い事をはじめた。毎週、火曜と金曜が習い事の日だという。時間は二時からで、老婆は一時半という約束で息子夫婦の家に向かっていた。
「まったく……子供を差し置いて習い事だなんて……しかも、週二日は多すぎますよ」
愚痴を挟みながらも、かわいい孫に会えるからか、どこか楽しげだった。老婆の年齢から考えると、三歳の孫というのは、とてもとても大切な存在なのだろう。幸福感をにじませながら、続きを語ってくれた。
その日が習い事の初日で、はじめて電車で息子夫婦の家に行ったそうだ。だから列車から降りても、駅の東口、西口、どちらから出ていいものか迷っていた。そんなときに、ある出来事がおこったのだ。
写真の男性が貧血をおこして、線路に落ちてしまったという。
その場に居合わせた女子高生と男性一人が助け上げたので、大事にはいたらなかった。駅員も駆けつけたが、救急車を呼ぶことはなく、助けられた男性は歩いて駅を去ったという。
居合わせたのは、老婆を入れて三人。
女子高生。
男性が一人。
もしや……と思い、もう一枚の写真をみせた。
「ああ、そうです。この方です」
当たりだった。
山本武司。
これで、伊藤康文と山本武司の共通点が増えた。
謎の男性との接触。
そして、もう一つ気にかかることがある。
女子高生──。
たしか、伊藤康文のときにも、女子高生の話が出てきたはずだ。
伊藤よりもさきに自殺しようとした謎の男性を阻んだのが、女子高生だった。
特徴も聞いておいた。
美人。
ブラウスは長袖。
髪はきれいな黒。
そろえられた前髪。
「どうもありがとうございました」
老婆に別れを告げると、片瀬はやって来た西船橋行きに背を向けた。もう一度、西新井駅で証言を得ようと、方針を変えた。
もし、死亡した二人の前に現れた謎の男性が同一人物ということになれば、二件は自殺でなく、殺人の可能性が濃くなる。
東武伊勢崎線西新井駅へ向かうまえに、片瀬は緒方へ連絡を入れた。詳細を簡潔に報告すると、到着した電車に乗り込んだ。




