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風が廻る場所  作者: 飛水一楽
〈虚空の章〉
81/116

紫野

 数日後。

 トンネルから抜け出てきた単行列車が、斜面を上りながら大きく迂回し、ガラスに朝日を反射させ駅へと向かっていく。

 年代を感じさせるその旧型車両は緩慢にホームに滑り込むと、「プシュゥ」と一息つくように音を立てて止まった。


「終点千久楽です。お忘れ物ありませんよう……」

 アナウンスと共に、車両の後方のドアが一つだけ開き、荷物を抱えた若い女性が一人、ホームに降り立つ。続けて先頭から運転手が降りてきて女性に会釈すると、ホームにいた駅員と挨拶を交わした。ジリリンと乗降終了のベル音が鳴り渡る。車両はこの後車庫に入るのだろう。


 進学などのシーズンであればそれなりに乗り降りもあるが、不定期運転である単線のこれが日常。貨物列車の行き来こそあれ、乗客となると著しく少ない。今回も貸し切り状態だった。


 紫野(しの)はホームに立ったまま深呼吸すると、しばらく四方を眺めていた。ぽっかりと抜けた空と、地平の隅々まで生い茂る緑が視界を二分する。都市(ユグ)とは違って遮るものは何一つなく、遠方まで開けている。圧迫感というものがまるでない。


 懐かしさも束の間、紫野の表情がみるみる曇ってゆく。いつもなら険しい風が身をなぶり、行く手を阻もうとするものを――見知らぬ場所に来たかのような違和感が体内を浸していく。事前に知らされていたとはいえ、故郷の変容ぶりに紫野はただ目を見張るばかりだった。


  ――これが、凪……


 紫野は階段を下り、無人の改札を出ると、すぐ横の駅員室に声を掛けた。電話を借り、これから向かう旨を宮司の奥さんに伝える。

 お礼を言って駅員室を後にし、待合室の椅子に腰を下ろそうとしたところで自分を呼ぶ声が聴こえた。紫野は駅舎の入口に目を向ける。そこには長身の男が壁にもたれ、こちらを真っ直ぐ見ていた。

「那由他……なぜここに」

「風の便りがあったのさ」

 ニッと笑い、那由他は肩をすくめる。

「なんてな。……待ってたぜ」

 馴染みのある声に安堵したのか、紫野もようやく頬を緩めた。

「済まない」






 那由他は紫野の荷物を取り上げ、腕に抱えた。二人は駅を背に、線路に沿って歩いて行く。

「ほんとは軽トラで迎えにこようと思ったけど、あいにく片付けに回っちまってて」

 構わない、と紫野は首を振る。

「それより、この凪はいつから?」

「もう三日か……にしてもよく帰るの許したな、旦那。急も急だろうに」

「本当は彼も来たいと言ってたけれど、どうしても締め切りがあるって」

 少しの間を置き、那由他が尋ねる。

「……何の仕事だ?」

「旅関連のライターをしてる。千久楽のことを話したらとても興味があるって」

「へえ、変わってんなぁ」

「それも彼には褒め言葉だろうけど」

 紫野は控えめに笑うと、前を向き、足を止めた。なだらかな丘の上から一面に棚田が見下ろせた。田植え前で水を張った状態であり、鏡のように空を映し出している。

 何軒か家屋を過ぎてさらに先に進むと、辺りは次第に鬱蒼としてくる。道の脇には先ほどから茂みが続いていたが、少し退いた部分を見つけると、二人は慣れた足取りでそこへ入り込み、その先に延びる木漏れ日のまだらな石段を上って行く。――神社の入り口である。






 階段を上り切ったところで、正装をした祭祀関係者達が二人を見つけ、口々に出迎えた。

「あぁ……紫野、よぐ帰ってきだなぁ……」

 涙混じりに縋りつく老人を紫野は労る。

「狩野の()さま、変わらず元気そうで」

 続々と集まった年長組の中から、すかさずヤジが飛んでくる。

「お(めえ)さ帰ってくるって急に元気になったんだこのエロじじい」

「んだと! おらおむつだって替えたんだ。紫野は娘みてえなもんだ」

「爺さまの歳じゃ孫だべ」

 そのやりとりに皆くつくつと肩で笑いを抑えている。当の紫野は少し恥ずかしそうに苦笑いする。

「相変わらずじじぃキラーだこと」

 隣に立っていた那由他がぼそっと言って紫野の肩に手を置き、視線を促す。紫野は人垣の向こうに快晴の姿を捉えると、ハッとして隣の那由他を見上げた。

「彼は?」

 那由他は前を見たまま、無表情で問う。

「博士に似てるか? やっぱり」 

 紫野は那由他を一時見つめ……同じように前を見た。

「……知ってたのか、博士のこと」

「いずれ分かるって言ったのお前だろ」

「そうだったかな」

 紫野はどこか寂しそうに微笑う。


「募る話もあるだろうが、まずは皆、中へ」

 宮司が促すと一人二人と歩き出した。その流れには乗らず紫野は立ち止まり、快晴に向かって頭を垂れた。

「妹が世話になったようで」

 事情を飲み込めていない様子の快晴に、那由他が横から言葉を付け足す。

然青(さお)の姉貴」

「……あ」

 快晴も遅れてお辞儀をする。

 紫野をどこかで見たような気がした。然青の姉と聞いて合点がいったものの……快晴がさらに記憶を巡らせると、浮かんできたのはいつか見た一枚の写真――舞手だった父の隣に、はにかむように写っていた少女だった。

 自分の方が目線が上のせいか、紫野が思ったより幼く感じられる。

「もしかして、父のパートナーの?」

 紫野は目を丸くして快晴を見る。その視線に問いかけられ、快晴は親指で横の那由他を示す。

「こいつに写真、見せてもらって」

 那由他がすぐさま食って掛かる。

「こいつ呼ばわりしてんじゃねえぞコラ!」

 そっけなく無視する快晴に紫野は小さく吹き出す。

「仲が良いな」

 快晴は眉をひそめ、那由他は小さく舌打ちする。


 やがて、三人の視線が同時に深鳥に注がれる。深鳥は思わず後ずさりそうになったが、途中で気付いてお辞儀した。

「はじめまして……」

 顔を上げた深鳥の頬がほんのり赤い。

「こちらが女手の深鳥ちゃん」

 そう言って那由他が悠然と深鳥の肩に手を回そうとすると、すかさず快晴が横から深鳥の腕を引っ張る。「わゎ……」とよろけ、深鳥は快晴の懐に収まった。

「〜〜おまえらっ!」

 那由他の非難の声をよそに、紫野の眼は深鳥から離れようとしない。その背中に羽根がそよいでいるのは知るべくもないが――その時、紫野はふわりと風が舞い込むような感覚を覚えていた。

 

 ――この子は……まるで、生まれたての風のような。






 祭祀関係者一同が円陣に座すと、宮司は正面に座る紫野にまず声を掛ける。

「よく帰ってきてくれた。……ありがとう」

 紫野は指先をそっと床につき、深々と頭を垂れた。

「早朝にお電話してしまい、申し訳ありませんでした。手紙をすぐに返信しましたが、私の方が先に到着してしまった次第です」

「電話は駅から?」

「はい。駅長さんが快く貸して下さいました」


 一間置き、宮司が切り出した。

「すでに知らせた通りだが。先日嵐がきた後、風が止んでしまった」

 紫野の表情がすっと陰る。

「あの嵐はこちらにも少なからず被害が出ました。千久楽のことを心配しておりました」

 宮司は向き直ると、膝に手を置いたまま紫野に向かって頭を垂れる。

「わざわざ来てもらったのは他でもない。苦労をかけるが、どうか風紡ぎをお願いしたい」

 紫野は宮司から視線を外し、俯いた。

「そのことですが……………残念ながらもう、私に風を紡ぐ力は残されていません」

 宮司から微かに息が漏れる。

「やはり、そうか……」

「お力になれず、申し訳ありません」

 しん、と静まる空気が、次第にざわついてくる。

「そんな…」

「最後の頼みの綱なのに…」


 しばらくして、紫野は意を決したように顔を上げた。

「私がこうして参りましたのは、この目で確認したいことがあったからです」

 宮司は紫野を見たまま、じっと次の言葉を待つ。

「……後任を」

「なんと」

 思いがけない申し出に宮司の声が大きくなる。

「私の代わりに、現舞手である深鳥さんにお教えしたく」

 周囲の人達が一斉に深鳥を見る。突然のことに深鳥はきょとんとしている。

「おい、でも――」

 那由他が止めるより先に紫野は立ち上がり、深鳥の前に腰を下ろすと、膝上に置かれたその手を掬う様に取った。


 くっきりとした目鼻立ちが姉妹ゆえ、やはり然青を彷彿とさせた。しかし然青よりは線が太く、野性味を感じさせる澄んだ眼が躊躇なく深鳥を捉える。――いや、深鳥を通して別の何かを見定めているかのように。

「思った通り、あなたの周りには今もわずかに風がそよいでいるように思う」

 紫野は取った手に力を込めた。

「あなたなら紡げるかもしれない。風の糸を――」

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