凪(なぎ) *
illustrated by marry
駆けめぐる風の咆哮を
窓を打つ雨音を
閉め出すように
名前を呼ぶ声が
耳の側で響き続ける
***
眠りの間に間に、深鳥は聴いた気がするのだ。風のとどろきと、波飛沫のような木々のさざめきを――
その日は静かで、いい匂いのする朝だった。
嵐は夜の内に去り、風雨に洗われた空はくっきりと澄んでいる。次第に明るくなる空に、戸や窓を開ける音が響いて人の気配を知らせる。
浸水した場所では、ふやけた葉や小枝が散乱し、流れ出た土が所々に溜まっている。人っ子一人歩いていない道で、鳥達がこぞって土の中から何かを啄ばんでいる。
朝日に蜘蛛の巣全体が白く浮かび上がり、散らばめられた雫が宝石のようにキラキラと光っている。
そして今――
辺りの木々の振れはだんだんと小さくなり、遠くの風車がゆっくりと勢いを失っていく。時村家の庭の洗濯物ははためくのを止め、軒先のかざぐるまと言えば、大輪の花のように動かず、ひっそりと咲いているようだった。
「深鳥、迎えに行かないで大丈夫かね」
祖母の問いかけに母の菜実が隣の部屋から顔を出した。
「夕べ蒔ちゃんの電話で、ご家族が車で送ってくれるなんて言ったけど……途中の畦道大丈夫かしら」
「まだ早いから後で電話してみたら。蒔ちゃん達も一緒に頂けるようにお昼多めにこしらえようか」
「そうね」
祖母の包丁を持つ手がぴたと止まる。
「ところで、ねえ……やけに静かでないか?」
そう言って耳をそばだてるように祖母は息を潜めている。
「そういえば、窓も鳴らないし……なんだか変ね」
菜実は外が気になり、勝手口から出ると辺りを伺った。
「母さん……」
言葉を失っている菜実の横に祖母が並んで立って、同じように表情を曇らせた。
「まあ……………風が」
――暖かい……
うっすらと目を開けると、そこは快晴の腕の中だった。
心地よいまどろみから抜けると、深鳥はたちまち息を引っ込めた。目の前の快晴の胸におびただしい痣が浮かび上がっていたからだ。
それは紋様のように規則正しくうねり、よく見ると首の付け根や腕にもはこびっている。――昨晩の暗闇の中では分からなかった。
深鳥はおそるおそる快晴の肌の腫れに触る。触れられた感覚に快晴も目を覚ました。
「……ん?」
「痛くない?」
深鳥の心配そうな表情に、快晴は「ああ」と何気なく答える。
「これは流紋。舞手の男手は必ず現れる」
痣を撫でる深鳥の体に快晴は後ろから毛布を被せ、そのまま自分の方へ抱き寄せた。
「体に風を宿して、形のない風の代わりに花を愛でるんだって――」
快晴はすぐ側にある髪に顔を埋め、深く息を吸う。
「だから、なにも心配しないでいい」
快晴は朝の内に深鳥を蒔の家に送り届け、その足で神社に向かった。普段なら誰かしらが掃除をしている時間だが、境内に人気はなくがらんとしている。
違和感を感じた快晴はさっきから何度となく立ち止まっては、肌の感覚を研ぎすませている。
――風が止んでる?
中庭から上がり奥の間の障子を開けると、那由他が一人、柱を背にして膝を折りあくびをしていた。快晴に気づくと「ぅす」と小さな声で手を上げた。その目元にうっすらと隈が見える。
「急いだのか?」
快晴は息を整えながら答えた。
「一応」
那由他は頭を掻きながら話し出す。
「他の連中は家の片付けやらで遅れてるんだと。宮司と聡は……境の森に行って、もう帰ってくると思うけどな」
「境の森に?」
那由他は手元にあったものを黙って投げた。快晴はとっさに受け取るが、奇妙にも手の中に何かがあるという感覚がない。
「?」
「風の糸だ。結界の」
快晴は半信半疑で、手の糸束を凝らし見てから、宙に投げてみたりした。あまりにも軽いので手の上に落ちてくるまで数秒あまりかかった。束から糸先を引き出してみる。
「こんな糸一本で……」
「そっか、お前は物心つく前だから親父さんも詳しく説明しなかったのか」
沈黙の春の直後、風から糸を紡ぎ、その糸を里人総出で境の森の幹一本一本に結び、千久楽を囲った。この糸に風が絡まって対流と化したのがあの結界なのだと那由他は言う。
「けど、昨日の嵐で結んでた木が何本か根元から折れちまった。木に巻きついてた分の糸がそれ」
「結び直せば?」
「長さが足りないんだと。他に切れ端がないか、明るくなってから探しに行ったってわけだ。……ったく、てめーに連絡しても一向に通じやしねー。俺や手下が出動して、夜通しで倒木の片付けに回ったんだぞ。ふぁーあ……寝たくても寝らんねーや、これじゃ」
快晴は宙を見た。
「電話線、切れてたな」
「にしても……風が止んじまうとは、な」
その言葉に快晴は視線を戻し、那由他をじっと見る。那由他は膝に頭を預けながら独り言のように言った。
「今、結界は機能していないに等しい、か」
快晴は黙って縁側から見える庭を漠然と見つめていると、那由他が気づいたように体を起こし、快晴のシャツの襟足に指をかけた。快晴はとっさに身を翻そうとするが、そのまま後ろに引っ張り込まれる。
「何すん――」
「おい、前はこんなの無かったろうが」
首から背中、右腕にかけて紋様がはこびっている。快晴はうっとうしそうに那由他の手から逃れると、襟元を直しながら那由他を睨む。
「そんなにひどいのか?」
那由他は腕をまくって見せる。そこには同じく流紋状の痣がうっすらと残っている。
「俺も喰われたが、せいぜい腕くらいさ。お前のは最強レベル……それこそあいつ並みじゃねえか?」
快晴は那由他を見る。
「あいつって?」
「紫野って俺の前パートナー。お前が帰ってくる前にここを出て行っちまったから……会ってないだろうな」
よっこらせ、と言って那由他は再び柱を背に座りこんだ。
「5コ上でよ。俺と組む前は男手もやってたんだ。パターン的にはお前と逆か……いや、たしか最初は女手だって言うから、女、男、女で3回入れ替わってるんだ」
「そんなに――」
「あいつは8で見いだされ、17までやった。10年間の舞手フルコースだ。女でそんなに長くやるなんてまずない。意味、分かるな? アレが来なかったんだ」
那由他が立ったままの快晴に顎で台上のお盆を示した。快晴は「自分でやれよ」と言いながらも、そこにある急須から慣れた手つきでお茶を注ぎ始めた。
「……やたらお茶淹れるの上手いよな、お前」
「子供ん時ソアラにしごかれた。……紅茶だけど」
「聞き捨てならねえな、おい。……ま、それはいいとして(良かないけど)」
話題を戻そうと那由他が一つ息をつく。
「あいつは自分が雛じゃないかって怯えてた。アレが来てまもなくあいつは千久楽を出て行った。結婚するってさ」
「……」
「周りの目もあるし、それでも責任感の塊のようなやつだから役目をまっとうしたけど、どんなに辛かったか……今なら察してやれるけどな」
快晴はそっけなく那由他の前にお茶を置いた。
「それに野郎はともかく、女の肌にこういう痣は……見ててかわいそうだったぜ」
「……見てたのか?」
しれっとした快晴の視線。那由他が一瞬きょとんとすると、快晴は目を逸らし溜息をついてみせる。
「昔から最低だな」
「あぁ!? そういうてめーはどうなんだ? まさかいつまでも眺めてるわけじゃないだろうな」
那由他の疑いの眼差しの中、快晴は黙々とお茶をすすっている。那由他は急に真顔になり「おい」と小声で快晴をこずく。
「あの子が何も知らないからって、あまり変なプレー強要するなよ」
ごふ……と、不意にむせてしまう快晴。
「てめ、まさかもう……! 吐け、この!!」
快晴が苦しそうに咳き込みながら、那由他の口を「もが」と塞ぐ。
「お、二人とも仲いいな~」
「よ、お疲れさん!」
祭祀関係者がわらわらと入ってくる。最後に宮司、聡と続いて障子を閉めた。
「待たせてすまない」
円陣になって向き合うところで、聡は快晴と目が合ったが逸らしてしまう。
「皆も知っての通り、今朝方から凪が続いている……これは異常事態だ」
重い声音で宮司が切り出した。風が止んだ理由を周囲が口々に論じる中、宮司が那由他に視線を定めた。
「何か分かるか?」
那由他は首を振ってみせる。
「肝心の風が吹かないんじゃ……聡、お前は?」
聡もすぐさま首を振る。
「完全に無風状態。少なくとも僕が起きた朝6時には」
沈黙がしばらく続く。
「理由は分からない。ただ……風の結界がこのままでは綻び続ける。結び直そうにも糸の長さが足りない。そこで……これから紫野君を呼ぼうと思うんだが」
周りが一気にどよめく。那由他は思わず立ち上がった。
「紫野を――!」




