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風が廻る場所  作者: 飛水一楽
〈虚空の章〉
79/116

 *



 それから、快晴は深鳥とは別のクラスに編入された。コースが違うと教室も離れてしまい、校内で会うことはめっきり少なくなる。

 剣道部の練習を見に体育館の鉄扉の前に来るものの、吠えるような声と床の振動音に怖じ気づき、深鳥は扉を開けることが出来ない。風通しで扉がわずかに開いている時もあるが、隙間から覗いているとちょうどマネージャーの然青と目が合ってしまい、深鳥は慌ててその場を走り去ってしまった。

 なかなか逢うきっかけが掴めずに、行く所行く所、深鳥はつい快晴の姿を探してしまう。


「深鳥元気なーい」

 机に座って雲の動きを眺めていると、蒔が後ろから腕を絡めてきた。

「なんか心ここにあらずってカンジ。ははぁん、恋人に逢えないからだな?」

 深鳥は首を後ろに回す。

「恋人?」

「――ちょ、もぉ〜〜今更?」

 蒔は憤然とした風に深鳥を見、急に「隙あり」と唇を突き出してくる。

「ま、蒔ちゃんっ」

「いひひ。だって深鳥の肌きれいなんだもーん。……ねね、キスくらいしてるんでしょ?」

 小声で問いかける蒔に、深鳥は恥ずかしそうに俯く。

「でも……恋人になろうって言われてない」

「う……そうとは幾生君言わないかも……けどっ、また逢う約束したのなら大丈夫! 逢っても逢っても逢いたくなるのが恋人なんだから」

「……そっか」

 納得した様子の深鳥を見て、蒔は満足する。もう一押しである。

「いっそ深鳥から家に押しかけちゃえば?」

 蒔がにやにやしながら寄っかかってくる。

「幾生君一人暮らしだし、もうお互い高校生だし? 家に二人きり――今日は帰さないから……待って、まだ決心が――どうなる二人?! いかんR15だって!」

 蒔は火照った自分の頬を手のひらでパチンと打つ。深鳥は蒔の悪ノリについていけず、はてと宙を仰ぐ。

「あーる……?」

 深鳥の両肩を掴み、蒔はゴクリと息を飲む。

「も、もしお泊りになったら、すぐ私に電話するのだよ。全力でアリバイ作るから。ねっ」

 なんだかよく分からないけど、蒔の迫力に押されて深鳥はとりあえず頷いた。






 蒔と一緒に学校を出ようとした時。深鳥の靴の上にメモ書きが置いてあった。立ち止まった深鳥の後ろから蒔が覗き、ヒュイと口笛を吹いた。

「さぁ行った行った〜」

 蒔に手を振り校門を出ると、深鳥は小走りで指定された場所に向かう。小径の脇に佇む大木の下、自転車に跨って快晴が何かを見上げている。深鳥は走るのを止め、足音をあまり立てないよう歩いていく。

 快晴の視線の先、樹上には本来の枝とは明らかに異なる塊がいくつも見えた。

「鳥の巣?」

 深鳥の気配に気づいていたのか、快晴は平然と答える。

「ヤドリギ。ヤマナシにも着くんだと思って」

「ヤドリギ……?」

「それ自体では生きられずに、他の木に寄生する。あれも木だよ」

 快晴の横顔を見ていた深鳥と、木から視線を外した快晴の視線がぶつかる。

「あの……部活は?」

「テスト期間で休み。乗って」

 言われた通り、深鳥が快晴の後ろに腰掛けると、

「ここ、摑まってろ」

 快晴は自分の胴を指差す。深鳥は遠慮がちに手を回し、そっとしがみついた。


 快晴の背中の温もりに目を閉じれば、なんだかうとうとしてくる。風は少しずつ弛み、どこからか花の匂いが混じる。

 ぼんやりとした視界の先に見覚えのある姿を見つけ、深鳥はぱっと顔を上げた。

「こんにちはー!」

 通り過ぎる際、深鳥は大きく手を振った。いつか快晴の後を追いかけた時に出会った喫茶店の人が、あの時と同じように外で作業をしていた。

 快晴はちらっと後ろを振り返る。二人に気付き店の人も笑顔で手を振る。

「あの二人。……春だねぇ」


 深鳥はほくほく顔で景色を見ていたが、しばらくして気付いた。

  

 ――そういえば、どこに行くんだろう?






 緑のトンネルを抜けた先に、見覚えのある洋館――天文台が現れた。

「ちょっと待ってて」

 通された居間で深鳥は興味深く室内を見渡す。自宅とはだいぶ異なる佇まいにそわそわするが、どこか懐かしさも覚える。

年月を経た木の匂い、もしくは木に染みたニスの古びた匂いか……この家に流れる空気も時間も、今ではないような気がしてくる。上げ下げ窓の下部は曇りガラスがはめられていて、陽が当たると木の葉の影が浮かび上がり、美しい。

 居間には小さな暖炉があり、昔ながらの調度品がいくつか並んでいる。深鳥は一通り眺めると、革張りのソファーに腰掛けた。前のテーブルに置かれたカップからくゆりと湯気が立つ。猫舌のため少し冷めたくらいがちょうどいいのだ。

 カップを手に取り口に含むと、ほんのりリキュールのような香りがして深鳥は目を瞬かせた。


 快晴が入ってくるなり、深鳥は問いかける。

「快晴これ、何?」

「ミルクティーにベイリーズっていうお酒がほんの少し入ってる。きつかった?」

「ううん、美味しくてびっくりした。……快晴ってすごいね」

快晴は少し照れくさそうに奥のキッチンの方を見る。

「紅茶一式、ソアラが置いていったんだ。深鳥に入れてやれって」

「ソアラが……?」


 快晴がお盆ごとカップを持ち上げる。

「上持ってくから、先部屋に入ってて」

 深鳥は頷くと階段を上がり、見覚えのある木の扉を開けた。

「おじゃま……します」

 背後でカタタン、と扉が閉まる。

 壁には括り付けの本棚があり、本棚と本棚の間の太い柱に線状の傷跡をいくつも見つけた。線の横には日付と歳が鉛筆で彫るように強く書き込まれていて、しかしそれは7歳で途切れている。


 深鳥がしゃがんで見ていると、キィ……と扉が音を立てた。お盆を持った快晴が片足で扉を押しやるのを見て、深鳥は慌てて扉を支えようとする。

「何か珍しいのあった?」

 快晴が深鳥のいた所に目をやる。

「これね」

 深鳥は柱を指を差す。

「快晴てこんなに小さかったの?」

「ああ、昔はチビだったし……印も父さんが付けたっきり」

 快晴はどこか寂しそうに微笑う。


「……あのね、ソアラはこの頃もう知ってたんだよね?」

 脈絡のない問いに快晴は不思議そうに頷く。

「いいな……私も小さい頃の快晴に逢いたかった」

 深鳥は指先で柱の傷をなぞっている。深鳥の前に一瞬、小さな少年の姿を見たような気がして――快晴は我に返る。

「どうして」

「ソアラは私の知らない快晴を知ってる。きっと私より、ずっと快晴のこと――」

 自分の声がいつもより大きく響いた気がして、深鳥は思わず口をつぐんだ。

「ソアラが、羨ましい?」

 思ってもみなかった言葉に深鳥は動けなくなる。振り返ると、ベッドに腰掛けた快晴が真っ直ぐ深鳥を見上げていた。

「おいで」

 快晴が手を延ばすと、戸惑いながらも深鳥はそうっと近づく。快晴に指を絡め取られ、深鳥は一気に快晴の懐へ引き寄せられた。快晴の吐息が額を掠める。

「俺も……もっと早く逢いたかった」

息をするのもやっとなくらい、深鳥は強く強く抱きすくめられる。

「……快…晴?」

「その分を埋めよう、これから――」




 *




「今日は荒れそうだな」

 神社の階段の登り口近くで、聡はあちこちに絡まったまま枯れているツタを取り除いている。空を見上げてから視線を戻そうとした時、ちょうど道行く深鳥の姿を見つけ、思わず後を追った。

「深鳥さん!」

「……聡くん?」

 ぜいぜいと息を切らしながら、深鳥の数歩後ろに立つ。

「傘も持たないで……これからけっこう降りますよ?」

「そんなに遅くならないから大丈夫……かなって」

 深鳥はちらっと空を見て肩をすくめてみせる。

「もしかして――」


 ――天文台に?


 聡は寸でのところでその言葉を飲み込んだ。深鳥が不思議そうに見つめてくる。

「いえ……、濡れないように気をつけて」

 聡は手を振って見せる。そのぎこちない笑顔を気に留めなかったのか、深鳥は微笑み、軽く会釈して去っていった。深鳥の後ろ姿をしばらく見つめ……聡は溜息をつくと、踵を返した。どこか深鳥の雰囲気が、以前の深鳥のものではない気がした。


 ――あの人が帰ってきたから?


 もう前のようにはいられないのだと聡は知った。目に見えない所で物事は少しずつ変化していく。自分も背が伸びているし、声も前より低くなったと那由他に言われた。それぞれが皆変わっていくのは当然のこと。それでも――もう少しだけ同じままでいたかったと、思うのだ。






 互いを呼び合うようにカラスが鳴き始めると、遠くの空で雷がうごめくような音がした。雷鳴は次第に近く、空全体に鳴り響くようになり、音の振動が窓のガラスを微かに震わせた。

 腕の中で縮こまる深鳥の髪をかき分け、快晴は耳を()み、舌を奥に差し入れる。

「…っ」

「まだ、聴こえる?」

 深鳥は首を振ろうとするが、もう片方の耳を手で覆われて、頭を動かせない。

「……えない、もう……」

 力の入らない手でシャツを引っ張るが、快晴はなかなか止めようとしない。耳を押さえる方の手に雫が落ちるのを感じ、快晴はようやく唇を離した。硬くつぶった深鳥の目元に口づけ、涙を吸い込む。

「ごめん……もうしないから」

 汗ばんだ細い首に手を当て、くったりとした体を抱き取ると、快晴はなだめるようにうつぶし色の髪を梳き始める。空いた方の手でラジオをつけた。

「予報より早いみたいだ」

 快晴は深鳥の服の依れを直してから立ち上がる。

「家の近くまで送るよ」

 クローゼットから上着と合羽を出して仕度する快晴に、深鳥も立ち上がる。

「快晴が、一人になっちゃう」

「俺はずっと一人だし。慣れてるから」

 そう言って上着を羽織ろうとした時。深鳥が背後から抱きついてきて、快晴は思わず体を震わせた。

「深鳥?」

「一緒にいる」

「……帰れなくなる」

 快晴の背に額をつけ、深鳥は首を振るう。

「快晴を一人にしたくない。一緒ならきっと怖くないよ」


 沈黙に閉じ込められたまま二人は言葉を発せず、しばらくの時が過ぎた。快晴は窓を見たまま表情を硬くし、その眼に遠くの暗雲を映し出している。

 快晴は黙って巻かれた腕を解きだした。深鳥が悲しそうな表情をした時――あっという間に快晴に抱き上げられた。

「!」


 バァン! と雷が地面に落ちる音がして、窓に雨が吹き付けられる。快晴は深鳥を乱暴にベッドに降ろすと、その上から被さった。

 ドクンと波打つ鼓動。いつしか快晴が見せた、獰猛なあの眼――見たらいけないと思うのに、抗えない自分がいる。

「一緒にいる方が、怖い思いをするかもしれないよ?」

 快晴の指が頬を伝い、首に触れる。深鳥は息を飲み込み、尋ねる。

「食べられる、……てこと?」

 快晴が訝しげに見る。

「だって……快晴、ちょっと齧ったり、舐めたりする……」


 快晴は手のひらで顔を覆ったまましばらく黙り込んだ。耳が赤い。

「……なるほど……」

「…………あの、ね。……痛い? その……どうやって飲み込むの?」

 深鳥の必死な目に快晴は思わずそっぽを向く。

「全て違う意味に聴こえてくる」

「快晴?」

「あーもう」

 堪えかねたように快晴は目の前の唇を塞ぐ。一度重なった唇はいつまでも求め合って離れず、やがて唇はしびれ、意識はとろけてゆく――

 

 深鳥は夢から覚めたばかりのように、快晴を見上げた。

「続き、しようか」

 乞うような快晴の眼に吸い込まれそうになる。

「続き……?」

「恋人のすること」

 快晴の口からこぼれたその言葉が、体の内側で甘く響く。深鳥ははにかむと、空に手を延ばすように快晴の首に手を回し、体を浮かせそっと口付けた。






 この世の終わりのような雨の中、もう互いの声も聞こえない。ただ息づかいと熱を肌に感じている。


「聡、雨戸しめてくれ」

「はーい」

 父の声に戸を閉めながら聡はふと空を見る。風が吠えている、そう思った。


  大荒れの嵐の夜だった。千久楽のあちこちで

  冠水し、暴風で半壊した家もあった。

  その日、深鳥さんは家に帰れなかったという。

 

  その翌朝、風は止んだ――

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