嵐
*
それから、快晴は深鳥とは別のクラスに編入された。コースが違うと教室も離れてしまい、校内で会うことはめっきり少なくなる。
剣道部の練習を見に体育館の鉄扉の前に来るものの、吠えるような声と床の振動音に怖じ気づき、深鳥は扉を開けることが出来ない。風通しで扉がわずかに開いている時もあるが、隙間から覗いているとちょうどマネージャーの然青と目が合ってしまい、深鳥は慌ててその場を走り去ってしまった。
なかなか逢うきっかけが掴めずに、行く所行く所、深鳥はつい快晴の姿を探してしまう。
「深鳥元気なーい」
机に座って雲の動きを眺めていると、蒔が後ろから腕を絡めてきた。
「なんか心ここにあらずってカンジ。ははぁん、恋人に逢えないからだな?」
深鳥は首を後ろに回す。
「恋人?」
「――ちょ、もぉ〜〜今更?」
蒔は憤然とした風に深鳥を見、急に「隙あり」と唇を突き出してくる。
「ま、蒔ちゃんっ」
「いひひ。だって深鳥の肌きれいなんだもーん。……ねね、キスくらいしてるんでしょ?」
小声で問いかける蒔に、深鳥は恥ずかしそうに俯く。
「でも……恋人になろうって言われてない」
「う……そうとは幾生君言わないかも……けどっ、また逢う約束したのなら大丈夫! 逢っても逢っても逢いたくなるのが恋人なんだから」
「……そっか」
納得した様子の深鳥を見て、蒔は満足する。もう一押しである。
「いっそ深鳥から家に押しかけちゃえば?」
蒔がにやにやしながら寄っかかってくる。
「幾生君一人暮らしだし、もうお互い高校生だし? 家に二人きり――今日は帰さないから……待って、まだ決心が――どうなる二人?! いかんR15だって!」
蒔は火照った自分の頬を手のひらでパチンと打つ。深鳥は蒔の悪ノリについていけず、はてと宙を仰ぐ。
「あーる……?」
深鳥の両肩を掴み、蒔はゴクリと息を飲む。
「も、もしお泊りになったら、すぐ私に電話するのだよ。全力でアリバイ作るから。ねっ」
なんだかよく分からないけど、蒔の迫力に押されて深鳥はとりあえず頷いた。
蒔と一緒に学校を出ようとした時。深鳥の靴の上にメモ書きが置いてあった。立ち止まった深鳥の後ろから蒔が覗き、ヒュイと口笛を吹いた。
「さぁ行った行った〜」
蒔に手を振り校門を出ると、深鳥は小走りで指定された場所に向かう。小径の脇に佇む大木の下、自転車に跨って快晴が何かを見上げている。深鳥は走るのを止め、足音をあまり立てないよう歩いていく。
快晴の視線の先、樹上には本来の枝とは明らかに異なる塊がいくつも見えた。
「鳥の巣?」
深鳥の気配に気づいていたのか、快晴は平然と答える。
「ヤドリギ。ヤマナシにも着くんだと思って」
「ヤドリギ……?」
「それ自体では生きられずに、他の木に寄生する。あれも木だよ」
快晴の横顔を見ていた深鳥と、木から視線を外した快晴の視線がぶつかる。
「あの……部活は?」
「テスト期間で休み。乗って」
言われた通り、深鳥が快晴の後ろに腰掛けると、
「ここ、摑まってろ」
快晴は自分の胴を指差す。深鳥は遠慮がちに手を回し、そっとしがみついた。
快晴の背中の温もりに目を閉じれば、なんだかうとうとしてくる。風は少しずつ弛み、どこからか花の匂いが混じる。
ぼんやりとした視界の先に見覚えのある姿を見つけ、深鳥はぱっと顔を上げた。
「こんにちはー!」
通り過ぎる際、深鳥は大きく手を振った。いつか快晴の後を追いかけた時に出会った喫茶店の人が、あの時と同じように外で作業をしていた。
快晴はちらっと後ろを振り返る。二人に気付き店の人も笑顔で手を振る。
「あの二人。……春だねぇ」
深鳥はほくほく顔で景色を見ていたが、しばらくして気付いた。
――そういえば、どこに行くんだろう?
緑のトンネルを抜けた先に、見覚えのある洋館――天文台が現れた。
「ちょっと待ってて」
通された居間で深鳥は興味深く室内を見渡す。自宅とはだいぶ異なる佇まいにそわそわするが、どこか懐かしさも覚える。
年月を経た木の匂い、もしくは木に染みたニスの古びた匂いか……この家に流れる空気も時間も、今ではないような気がしてくる。上げ下げ窓の下部は曇りガラスがはめられていて、陽が当たると木の葉の影が浮かび上がり、美しい。
居間には小さな暖炉があり、昔ながらの調度品がいくつか並んでいる。深鳥は一通り眺めると、革張りのソファーに腰掛けた。前のテーブルに置かれたカップからくゆりと湯気が立つ。猫舌のため少し冷めたくらいがちょうどいいのだ。
カップを手に取り口に含むと、ほんのりリキュールのような香りがして深鳥は目を瞬かせた。
快晴が入ってくるなり、深鳥は問いかける。
「快晴これ、何?」
「ミルクティーにベイリーズっていうお酒がほんの少し入ってる。きつかった?」
「ううん、美味しくてびっくりした。……快晴ってすごいね」
快晴は少し照れくさそうに奥のキッチンの方を見る。
「紅茶一式、ソアラが置いていったんだ。深鳥に入れてやれって」
「ソアラが……?」
快晴がお盆ごとカップを持ち上げる。
「上持ってくから、先部屋に入ってて」
深鳥は頷くと階段を上がり、見覚えのある木の扉を開けた。
「おじゃま……します」
背後でカタタン、と扉が閉まる。
壁には括り付けの本棚があり、本棚と本棚の間の太い柱に線状の傷跡をいくつも見つけた。線の横には日付と歳が鉛筆で彫るように強く書き込まれていて、しかしそれは7歳で途切れている。
深鳥がしゃがんで見ていると、キィ……と扉が音を立てた。お盆を持った快晴が片足で扉を押しやるのを見て、深鳥は慌てて扉を支えようとする。
「何か珍しいのあった?」
快晴が深鳥のいた所に目をやる。
「これね」
深鳥は柱を指を差す。
「快晴てこんなに小さかったの?」
「ああ、昔はチビだったし……印も父さんが付けたっきり」
快晴はどこか寂しそうに微笑う。
「……あのね、ソアラはこの頃もう知ってたんだよね?」
脈絡のない問いに快晴は不思議そうに頷く。
「いいな……私も小さい頃の快晴に逢いたかった」
深鳥は指先で柱の傷をなぞっている。深鳥の前に一瞬、小さな少年の姿を見たような気がして――快晴は我に返る。
「どうして」
「ソアラは私の知らない快晴を知ってる。きっと私より、ずっと快晴のこと――」
自分の声がいつもより大きく響いた気がして、深鳥は思わず口をつぐんだ。
「ソアラが、羨ましい?」
思ってもみなかった言葉に深鳥は動けなくなる。振り返ると、ベッドに腰掛けた快晴が真っ直ぐ深鳥を見上げていた。
「おいで」
快晴が手を延ばすと、戸惑いながらも深鳥はそうっと近づく。快晴に指を絡め取られ、深鳥は一気に快晴の懐へ引き寄せられた。快晴の吐息が額を掠める。
「俺も……もっと早く逢いたかった」
息をするのもやっとなくらい、深鳥は強く強く抱きすくめられる。
「……快…晴?」
「その分を埋めよう、これから――」
*
「今日は荒れそうだな」
神社の階段の登り口近くで、聡はあちこちに絡まったまま枯れているツタを取り除いている。空を見上げてから視線を戻そうとした時、ちょうど道行く深鳥の姿を見つけ、思わず後を追った。
「深鳥さん!」
「……聡くん?」
ぜいぜいと息を切らしながら、深鳥の数歩後ろに立つ。
「傘も持たないで……これからけっこう降りますよ?」
「そんなに遅くならないから大丈夫……かなって」
深鳥はちらっと空を見て肩をすくめてみせる。
「もしかして――」
――天文台に?
聡は寸でのところでその言葉を飲み込んだ。深鳥が不思議そうに見つめてくる。
「いえ……、濡れないように気をつけて」
聡は手を振って見せる。そのぎこちない笑顔を気に留めなかったのか、深鳥は微笑み、軽く会釈して去っていった。深鳥の後ろ姿をしばらく見つめ……聡は溜息をつくと、踵を返した。どこか深鳥の雰囲気が、以前の深鳥のものではない気がした。
――あの人が帰ってきたから?
もう前のようにはいられないのだと聡は知った。目に見えない所で物事は少しずつ変化していく。自分も背が伸びているし、声も前より低くなったと那由他に言われた。それぞれが皆変わっていくのは当然のこと。それでも――もう少しだけ同じままでいたかったと、思うのだ。
互いを呼び合うようにカラスが鳴き始めると、遠くの空で雷がうごめくような音がした。雷鳴は次第に近く、空全体に鳴り響くようになり、音の振動が窓のガラスを微かに震わせた。
腕の中で縮こまる深鳥の髪をかき分け、快晴は耳を食み、舌を奥に差し入れる。
「…っ」
「まだ、聴こえる?」
深鳥は首を振ろうとするが、もう片方の耳を手で覆われて、頭を動かせない。
「……えない、もう……」
力の入らない手でシャツを引っ張るが、快晴はなかなか止めようとしない。耳を押さえる方の手に雫が落ちるのを感じ、快晴はようやく唇を離した。硬くつぶった深鳥の目元に口づけ、涙を吸い込む。
「ごめん……もうしないから」
汗ばんだ細い首に手を当て、くったりとした体を抱き取ると、快晴はなだめるようにうつぶし色の髪を梳き始める。空いた方の手でラジオをつけた。
「予報より早いみたいだ」
快晴は深鳥の服の依れを直してから立ち上がる。
「家の近くまで送るよ」
クローゼットから上着と合羽を出して仕度する快晴に、深鳥も立ち上がる。
「快晴が、一人になっちゃう」
「俺はずっと一人だし。慣れてるから」
そう言って上着を羽織ろうとした時。深鳥が背後から抱きついてきて、快晴は思わず体を震わせた。
「深鳥?」
「一緒にいる」
「……帰れなくなる」
快晴の背に額をつけ、深鳥は首を振るう。
「快晴を一人にしたくない。一緒ならきっと怖くないよ」
沈黙に閉じ込められたまま二人は言葉を発せず、しばらくの時が過ぎた。快晴は窓を見たまま表情を硬くし、その眼に遠くの暗雲を映し出している。
快晴は黙って巻かれた腕を解きだした。深鳥が悲しそうな表情をした時――あっという間に快晴に抱き上げられた。
「!」
バァン! と雷が地面に落ちる音がして、窓に雨が吹き付けられる。快晴は深鳥を乱暴にベッドに降ろすと、その上から被さった。
ドクンと波打つ鼓動。いつしか快晴が見せた、獰猛なあの眼――見たらいけないと思うのに、抗えない自分がいる。
「一緒にいる方が、怖い思いをするかもしれないよ?」
快晴の指が頬を伝い、首に触れる。深鳥は息を飲み込み、尋ねる。
「食べられる、……てこと?」
快晴が訝しげに見る。
「だって……快晴、ちょっと齧ったり、舐めたりする……」
快晴は手のひらで顔を覆ったまましばらく黙り込んだ。耳が赤い。
「……なるほど……」
「…………あの、ね。……痛い? その……どうやって飲み込むの?」
深鳥の必死な目に快晴は思わずそっぽを向く。
「全て違う意味に聴こえてくる」
「快晴?」
「あーもう」
堪えかねたように快晴は目の前の唇を塞ぐ。一度重なった唇はいつまでも求め合って離れず、やがて唇はしびれ、意識はとろけてゆく――
深鳥は夢から覚めたばかりのように、快晴を見上げた。
「続き、しようか」
乞うような快晴の眼に吸い込まれそうになる。
「続き……?」
「恋人のすること」
快晴の口からこぼれたその言葉が、体の内側で甘く響く。深鳥ははにかむと、空に手を延ばすように快晴の首に手を回し、体を浮かせそっと口付けた。
この世の終わりのような雨の中、もう互いの声も聞こえない。ただ息づかいと熱を肌に感じている。
「聡、雨戸しめてくれ」
「はーい」
父の声に戸を閉めながら聡はふと空を見る。風が吠えている、そう思った。
大荒れの嵐の夜だった。千久楽のあちこちで
冠水し、暴風で半壊した家もあった。
その日、深鳥さんは家に帰れなかったという。
その翌朝、風は止んだ――




