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風が廻る場所  作者: 飛水一楽
〈虚空の章〉
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果ての海

 ぽたり、と髪から雫が落ちてきた。

 快晴はぼんやりと上を見る。太陽はいつのまにか高みにあり、遮るもののない草むらは冬といえ春先のように暖かい。風は冷たいが、動けば汗をかく。

 背伸びして見ると辺り一面、枯れあせた草は黄金の海のようで、(すすき)の白い穂が波飛沫にも見える。


 さながら水面下をひたすら草をかき分けて快晴は進んでいく。吹き抜ける風と共に、色々な人の顔が、言葉が、頭をよぎっていった。

『与えるだけよ、決して返ってはこない』

 ソアラはその眼を通して、見る者の心を代弁したに過ぎない。そう思い込んでいたのは誰でもない……自分だ。


 いつだって温もりの中にいたのに。直に触れることで深鳥はその温もりを自分に分けてくれていた。快晴も眠る彼女に触れ、密かにその温もりを確かめた。何度も、何度も……


 快晴は立ち止まり、目を閉じる。風を正面から受け止める。ふと深鳥が腕の中にいるような錯覚に陥る。しかし次の瞬間にはえぐられるような喪失感に襲われた。

『唯一の温もりを、お前は手放すのか?』

 快晴がそうすると分かっていたのか……それは那由他なりの忠告だったのかもしれない。

 でも全て過ぎ去ってしまった。自分はもう深鳥の記憶に存在しないはず。その代償として、自分は決して忘れられはしないだろう。


 時が経つほど記憶は鮮やかに、美しくなっていく。

『かい………せ……』

 熱を帯びる吐息が、瞬時に冷たい空気に溶けてゆく。絡める舌に唇を滴らせ、息苦しさと共に増す、あの恍惚の中で……

 涙をためた眼が快晴を見ていた。暗緑色の澄んだ眼差し。まだ明けない朝の、霧に濡れ沈んでいる森の色だ。






 あの後——意識を失った深鳥を実家に運び終えたのち、雪で視界が悪い中を快晴はひたすら進み、自宅である天文台に辿り着いた。冷えきった体に熱いシャワーを浴びせてから、すぐさま旅支度を始める。

 干し肉や(ほしい)、ドライフルーツやナッツなど数週間分の食糧、寝袋や防寒具、応急処置道具など。なるべく軽く、必要最低限をリュックに詰め、それを背負って、快晴は誰もいない家を後にした。


 いつものように入らずの森に入り、見知った道を行き、〝ゆらぎ〟の前で突風の洗礼を受けてから快晴は庭へ入った。

 雪原を歩くことを覚悟していたが、幸い足下に雪はなく、快晴はその場で靴を履き替えた。履いてきた靴はそこに置き去り、先へ先へと進んだ。

 草は枯れたまま象牙色に残り、力なく風になぶられている。乾いた音が幾重にも重なって、木々の葉擦れのようにも聴こえる。

 

 やがて見えてくるのは、見渡す限りの草原に佇む、一本立ちのブナの巨木。全て葉を落とし、空っ風にそのまだらな幹肌をさらしている。

 その向こうの地平線にかろうじて見える、レースのように連なる木々のシルエットを、快晴は目を細め確認する。


  向こうが極相林。だとすると、ここは二次林の

  名残か。


 おそらく昔ここまで波が押し寄せ、まだ成長途中の根の浅い木々を飲み込んだ。運良く岩陰に生えたこのブナの苗が一本だけ難を逃れ、何にも邪魔されず枝を広げた結果、これほどの巨木に成長したのだろう。

 快晴は自然の変遷に思いを馳せながら、視線はそのままに樹形を観察すると、幹にやや傾きがあり、左から右に枝振りが流れているのを見つける。

 それは風が大体どの方向から吹いてきているかを明らかに示していた。


  極相林を背に、左に向かえば、海があるはず。


 見当をつけた方角に、快晴は再び歩き出す。絶えず向かい風で、足取りは重かった。






 帰ることは考えていなかったはずだ。

 突き動かされるように、どこにあるかも分からない目的地を目指した。この草原の尽きる処ーー庭の果てをこの目に収められればいい。たとえそこで力尽きたとしても。


 快晴が庭を歩き通してすでに一ヶ月が経とうとしていた。しかし当の本人はどれくらい太陽がめぐったのか、もはや把握し切れていない。

 快晴はふらつく足で岩に腰掛け、しばらくうなだれていたが、道中、湧き水で汲んでおいた水筒の水を一気に喉に流した。


 いったいどこまで来たのだろう?

 食糧はまだ余っているものの、数日前から不思議と食欲が涌かず、あまり口にしていなかった。

 急速に体力が落ちてきているのを感じた。常に吹いてくる風が少しずつ少しずつ、自分から生きる力を削いでいくようだった。

 快晴は石像のようにしばらく動かなかったものの、気づいたように立ち上がり、再び風上に向かって歩き出した。


  潮の匂い……


 風の匂いにいつからか潮の匂いが混じってきている。波音はまだ聴こえない。






 自分から全ての繋がりを絶った時、快晴は思った。父との約束を果たそうと。それは、〝風のありかを確かめること〟


 父である幾生博士が快晴を連れ、長年滞在したSSCから故郷である千久楽に戻り、古びた天文台を研究の本拠地としたことについて、SSCの同僚たちは首をかしげるばかりだったという。中には気でも狂ったかと罵る者、すれ違い様に唾をかけられたこともあると父は苦笑いで話してくれた。


 博士の本業である宇宙の研究ならば、世界随一とうたわれた研究設備・観測の利点を持つSSC…宇宙上の科学都市を離れる理由が見つからない。父が宇宙に背を向けたのはきっと何か別の理由がある。


 それは〝千久楽の風〟について腰を据えて調べるためだった、と快晴は思う。

 父亡き後、快晴が天文台の運用を引き継いだ時、風に関する膨大なデータを見つけた。地上に戻り守人(まぶりと)として風の結界を監視する傍ら、父が着々と集めたものらしかった。


 千久楽の各所に設置された風向風速計からのデータを元に、風の流れをシミュレートしてみると、その出所は森の奥……快晴の使う〝ゆらぎ〟の位置を、不確かながらも指し示していた。

 奇しくも、幼い快晴は知らない内にそこに足を踏み入れていたわけだった。


  父さんも庭の存在を?


 昔から森に迷う人が、楽しそうにお喋りする声に誘われ近づくと、木立ちの間からたんぽぽの咲く野原を見つけるという。しかしその場所に辿り着けた者は不思議といない……

 そういう類いのお伽話を、千久楽に生まれた者ならば、幼い内から何度となく聞かされ、嫌でも覚えてしまう。

 もしかしたら、それが迷信じゃないかもしれない……子供のような好奇心を持つ父だ。きっと自分の足で検証したかったに違いない。


  でも父さんには俺がいたし、仕事もしなければ

  ならなかった。長期間、天文台を留守にする

  なんてできなかった。


『君が大きくなったら、一緒に旅に出ようか……』

 ある日、ふとそうこぼした父。どこに? と尋ねても、

『ここではないどこか……遠い所かな』

そう父は笑うばかりだった。その不可解な言葉も今なら腑に落ちる。庭という異次元の存在を、父はその目で確かめたかったのだ。


  誰も知らない、父さんがやり残した

  ライフワーク。せめて俺が…… 


 そう念じたところで、快晴の足がぴたりと止まる。……父は本当に誰にも言わなかったのだろうか?

 快晴は息を殺し、ゆっくり首を振るう

 いや、ドクターにはこのことを話していたのではないか?親友とも言えるドクターなら。


 ドクン、と胸でうごめく音。

 その時快晴は思ったのだ。ドクターが欲しがっていたのは、この研究についての記憶だったのだろうか、と。


『私が欲しいのはね、カイセイ、誰も知らない彼の研究成果です。』

 快晴はおそるおそる自分の手のひらを見る。あの時の砂の残骸が見えた。

『そこに時空の謎を解く鍵が眠っている。』


  ドクターは…レイヴンは本当は……

  俺と同じように、父さんの研究を確かめに?


 手がカタカタと震えだす。くらりと世界が傾き、地面が迫ってくる。

「……!」

 快晴は片膝をつき、こらえたが、とうとう両手をついた。

 はっ、はっ、と自分の呼吸が聴こえる。


  ……そう……だ……

  ……


 口の中はカラカラになり、喉の奥が引っつく。ぎゅっと、手で草の根元を鷲掴む。


  この手で……………何もかも……


 肘が崩れ、頭を庇うように草の上に倒れると、そのまま快晴は意識を失った。






 甲高い鳥の声が聴こえた。

 それから、波のさざめきも。

 顔を浸す水がちゃぷんと頬を打ち、快晴は目を覚ます。瞼をうっすら開けたままでいると、強い風と微風が交互に髪を撫でていくのを感じた。

 浸かった体を水面から引きはがすように、ゆっくり起き上がり、そのまま立ち尽くした。


 遠浅の海に沈む、いくつもの岩礁。水を通して見える、まばらに生えた丈の短い草々。その隙間を満たす、珊瑚が砕けて出来たであろう白い砂浜。

 時折風が止むと、静まる水面は一変し、鏡のように空を映しだした。

「…………………ぁ……」


 手に力が入らない。

 体が細かくうち震えている。

 底無しの青い空間にすっぽり包まれ、平衡感覚が狂っていく。気が…遠くなりそうだ。


 この世とは思えない景色。人のいるべき場所ではないことを快晴は自ずと知る。

 海の彼方、空の彼方……古人(いにしえびと)が名付け、焦がれた、永遠の地。

 神々の住処(すみか)。あるいは……あの世と呼ばれる処か。

 

 庭の果てに、快晴はとうとう辿り着いたのだ。


  あった……本当に……父さんの目論んだ通り。

  この海が、風が、全てのはじまり。


 息を切らしながら、快晴はとぼとぼ水辺を歩いていく。突然、どう、と風が押し寄せる。バランスを崩し、砂に足を取られた。

 仰向けに倒れ、水が飛び跳ねる。快晴は口に入った海水を出し、咳き込みながら目を閉じる。

 息を整えながらしばらく風を感じていた。風が……心地いい。

「ここが、風の生まれる場所…」


 ここに来て、自分はどうするつもりだったんだろう。父さんとの約束を果たして、……それで?

 何日も歩いて、歩いて、途方もない距離を足が痛くなるまで。辿り着けるかどうかも分からなかったのに。


 目的は果たした。思い残すことはない。このまま目を閉じて動かずにいれば、衰弱して、誰にも見つからず——過去(ここ)に、永遠に閉じ込められる。




 残った(むくろ)は波で砕け

 珊瑚の砂とともに堆積層に埋もれ

 何億、何千年かの後に鍾乳洞を形成する

 炭酸カルシウムとなり

 風に溶かされ

 透明な雫になって 

 滴り落ちて

 ……

 …







 その時。遠くから「かいせい」と呼ぶ声が聴こえた。風に混じって微かに……こだまする、あの愛しい声が。


 快晴は反射的に体を起こし、耳を澄ませる。

「………深鳥?」

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