消せない温もり
ひゅぅ……と尾ひれを揺らして過ぎる風に、青い草の匂いが混じる。互いの息の音が、弾むように闇にこだまする。
星降る草原を、深鳥は手を引かれてどんどん進んで行く。快晴はどこか急いでいるように思えた。
「星の終わりを見たことあるか?」
ようやく歩を止め、少し上がった息のまま快晴は顔だけをこちらに向けた。星の光を湛える眼が深鳥の心を囚える。
「とてもきれいなんだ。ほら……」
快晴が手を掲げると同時に、深鳥が感嘆の声を上げた。
花開くように二人の目の前に広がるのは、オーロラ色の光の構造物。中心から球状に張り巡らされる毛細血管のような模様が虹色を吸い込み、まるで絞り染めたシルクのようだ。
胸を突かれるような美しい眺めに深鳥は息を飲むと、隣の快晴を見上げた。
「あれは?」
「重たい星が爆発した後のガスの広がりだよ」
深鳥はほぅとため息をつく。
「きれい……」
言葉無く、しばらく目の前の光景に魅入る二人だったが、深鳥ふと我に返り、景色と快晴を交互に見、しきりに目を瞬かせた。
何か、おかしい。
「でも…………あれって?」
おずおずと再び見上げると、快晴と目が合った。すかさず快晴の人差し指が深鳥の鼻を押す。
「うゃ……」
快晴はずいっと顔を近づける。
「どうやって、とか聞くなよな」
やがて、ほどけるように現れた快晴の笑顔に、深鳥はなぜか泣きそうになって……
――そう、だ……私……
ぐにゃりと視界が揺らぎ、パレットの色が混ざる。
――こうしてずっと、快晴と同じ風景を見ていたかった。
すべての光の色は溶け合い白くなる。白く白く――吹雪に埋め尽くされる視界。
冬の間、千久楽を閉ざすさらさらの雪だ。風は荒び、その音は切り裂くように鋭く、絶えずふりかかる雪に記憶は埋もれ、消えてゆく。快晴の寂しげな表情も。あまねく空を宿す眼も。
『もういいの!』
深鳥は真っ白な空に向かって手を広げ、懸命に呼びかけていた。ひょうびょうと頬を打つ雪の欠片。自分に言い聞かせるように深鳥は呟いた。
『……もう………………忘れたくないの』
頬に零れ落ちる涙は凍らず、当たった雪を溶かしていった。
「……」
頬に感じる、仄かな温もり。
暁の光に身を浮かべたまま、深鳥はしばらく途方にくれていた。
「かい…………せい……?」
深鳥は繋いでいたはずの手を恐る恐る見る。残る感触を辿ろうとすると、途端に涙が溢れ出し、次から次へ頬を伝った。
「……………ふ…」
深鳥は布団で顔を覆う。
あのまま一緒にいたかった。美しい夢の世界で。たとえ、現実に戻れなくなったとしても。
いつもは好きな朝の時間を、深鳥は初めて恨めしく思った。
――夢だと知ってたら……きっと覚めなかったのに。
熱に浮かされたらしく、額はじっとり汗で濡れている。吐く息は熱を持ち、体が重い。油が切れた機械みたいだ。
胸に手を当てる。なんとなく気持ちが悪かった。
「……風邪、ひいたのかな」
もうろうとしたまま起き上がろうと布団をめくり——深鳥は絶句した。
「……………………」
こんこんとノックの音がして、母の菜実が扉を開けた。
「おはよう、うなされてたようだけど…」
「お母さん!」
深鳥はおろおろとし、必死な目で母を見た。
お風呂から出ると、菜実がシーツを替えていた。ごめんなさいと恥ずかしそうに謝る深鳥を、菜実は愛おしそうに抱きしめる。「おめでとう」と。
「??」
母の温もりの中で深鳥はきょとんとしている。
「初潮が来たのよ」
保健の授業で習ったあれ……?と深鳥が頭の中で授業風景を再現していると、菜実は心配そうに覗き込んだ。
「幾生くんの夢、また見てたの?」
今朝、うわ言で「快晴」と何度も呼んでいたことを気遣うように菜実は告げた。深鳥はこくんとうなずく。
少し考えるような仕草をして、菜実は深鳥の両頬を手でそっと包み込む。
「願掛け、行ってみたら?」
深鳥はまじまじと母を見つめる。
「自分の力でどうにもならない時は、神様にお願いしてみるのもアリだと思うわ。……前にも話したでしょ。お母さん、好きな子と同じクラスになりたいがためにお参りしたって。……お百度参りとはいかないけれど」
ぺろっと舌の先を出す菜実。
「どうなったの?」
不安そうな深鳥の声に、菜実は得意そうに親指を立ててみせる。
「でも、チャンスはそれっきり。その子とは疎遠になっちゃった。そうは問屋は卸さないわよねぇ」
菜実は肩をすくめてみせる。
「でもね、上手く行かなくて正解。でなきゃお父さんとも結婚してないし、深鳥も生まれてないんだからね」
ぽたりと一雫、深鳥の目から落ちるのを見て、再び深鳥を抱きしめる菜実。娘の背中をさする。
「それに、祈ることは自分の心を鎮めることにもなるっておばあちゃん言ってた。おばあちゃんも私たち家族が早く帰ってきますようにって、何年も毎日お参りして……それが今は習慣になっちゃったみたい」
くすりと菜実が笑うと、深鳥からも花開くような笑みがこぼれた。
「うん、……ありがとう、お母さん。」
先週末、聡と散歩した時のこと。突然蘇った記憶に深鳥はいつになく取り乱してしまった。
『快晴……どこ?』
深鳥の視線が宙をさまよいだす。迷子のように不安げな表情で右往左往するうち、深鳥の背に咲いた羽根がふぁさり、一凪した。そして次の瞬間、聡は目を疑った。深鳥の足がわずかに地を離れた――気がしたのだ。
聡は慌てて手を延ばし、深鳥の腕を掴んだ。
『深鳥さん!』
『快晴を――』
聡は深鳥の背後から正面に回り込むと、その両腕をしっかりと固定した。咎める視線を聡は一身に受ける。
『……僕らで千久楽中、幾生さんを捜しました。なゆ兄は千久楽の外まで……でも、見つけられなかった』
ただでさえ色白の肌がさらに色を失うように見えた。聡はついに視線を外し、振り絞るような声で告げた。
『行方不明のままなんです』
少しの間の後、深鳥は何度も首を振るい、告げられた事実を否定しようとする。聡の手から逃れようともがきだす深鳥だったが――突然、電池が切れたように聡の腕の中に崩れた。呼吸が浅くぐったりとしている。
『深鳥さん! 大丈夫ですか?! 深鳥さん! ……』
聡の連絡を受け、那由他が軽トラックで迎えに来た。
『やさしく運転しなきゃな』
聡も乗り込み、深鳥の家に着くと、二人掛かりで深鳥を二階の部屋まで運んだ。深鳥は体調を崩したまま、二日ほど家にいた。学校はすでに冬休みに入っている。
「深鳥さん!」
聡が目を輝かせ、その場に箒を捨て駆け寄ってくる。深鳥は送ってもらったお礼を言うと、ぎこちなく笑う。
「なんかね、貧血……だったみたいで……」
言葉に詰まる深鳥に、聡は気にした様子もなく笑いかける。
「もう大丈夫ですか?」
お参りにきたという深鳥を聡は労わるように支え、二人は参道を進んでいく。
参道の周りは雪がきれいに片付けられていて、脇に積まれている。
祠の前に来ると、横目で聡の作法を確認しながら、深鳥も胸の前で手を組み、頭は垂れず、そのまま目を閉じた。しかし、いつの間にか祈る手に額を預けていた。
顔を上げると、聡が心配そうに覗き込んでいた。
「深鳥さん…もしかして、幾生さんのことを?」
深鳥は答えるのをためらっていたが、やがて小さくうなずいた。
「快晴が早く帰ってきますようにって…」
深鳥は寂しげに微笑み…じわりと涙が出てきたのに気づき、慌ててうつむいた。
聡はとっさに出た手を引っ込め、ぎゅっと握り…深鳥に向き直った。
「……………そんなにあの人が?」
聡の声が低く響く。その声にはっとして深鳥が顔を上げた時には、聡は目の前で深く頭を垂れていた。
「ずっと黙ってて、ごめんなさい。」
深鳥は首を振り、聡の両腕に手を添えた。
「話すべきか、迷っていて………」
「ううん、聡君は私のこと心配してくれて……だから――」
「違うんです」
「?」
「思い出して欲しくなかった」
「……聡……くん?」
気づいた時には、深鳥は聡の腕の中で動けなくなっていた。
「僕じゃ…………だめですか?」
耳をくすぐる、吐息と懇願。
「あの人は深鳥さんを置いていった。行き先も告げずに。どこにいるのか……帰ってくるかも分からない。でも僕は、大切な人にそんな悲しい思いをさせたりしない!」
深鳥は目を閉じる。
聡の腕の中は温かいのに、思い出すのは、快晴のことばかりだった。ひんやりとした手も、唇に残る、消えない温もりも……
深鳥を抱きながら、快晴も同じことを感じたのだろうか、と聡は思う。
触れ合う体から生まれる熱を、体が軋むくらい大きく響く鼓動を——
同じ?
聡の心に細波が立つ。
違う……あの人はとっくに知ってたんだ。
この肌の滑らかさも、頬をくすぐる柔らかな髪も……今、自分が知り得たことより、もっとずっと多くのことを。だから——
深鳥を抱く腕にぎゅっと力がこもる。
快晴が深鳥の前から消えたのは——きっと、どうにもならなかったのだ。この腕の中の少女が、あまりに大切で、あまりに愛おしくて……なのに、留まることも、先に行くこともできない。
だから戻したのだ。二人が出逢う前に。物語の一番初めに。
幾つもの懺悔とほんの少しの希望を胸に秘めてーー
微かな嗚咽が耳に届く。聡は思わず深鳥から体を離した。
次から次に溢れる涙を隠すように、深鳥は両手で顔を覆う。やがて手首へと伝う涙の筋。
「…深鳥……さん? 」
聡は華奢な肩を両手で包む。
「ごめんなさい…………ごめんなさい、聡君」
不意に緩んだ聡の手をすり抜けて、深鳥は駆け出していた。
聡はその場にしゃがみ込むと、腕の中に顔を埋め、呟いた。
「 詰めが甘いですよ、幾生さん」
あなたが望むように、深鳥さんはあなたのことを忘れられなかった。
……これで満足ですか?
本当に、帰って来ないつもりですか?
深鳥は入らずの森に足を踏み入れていた。情緒不安定のまま、脇目も振らず〝ゆらぎ〟のある場所を目指す。
しかし、あるはずの所に〝ゆらぎ〟はーー無かった。
どうして?どうして、無いの?
深鳥は混乱した。焦る気持ちで必死に歩き回っていると、突然、めまぐるしく世界が動いた。
「!」
カラン、コロン、チリン、リィン……と頭上で重なってゆく様々な音。聡が人除けに巡らした鈴の結界に引っかかってしまったのだ。
しまったと思ったが遅かった。音を聴いているそばから気が遠くなってくる。
「いてて…」
かろうじて意識を繋ぎ止めたのは、ついた手の平と膝の痛み。糸に引っかかった足の靴が脱げたままだった。頭がくらくらする中、深鳥は体を起こそうとする。
「……教えてもらったのに、怒られちゃう」
泣き笑いのまま鼻をすすり、ようやく立ち上がると、風のさやぎの中に微かな囁きが聴こえた。
一つ二つと、気づけば深鳥の周りを綿毛が浮遊している。
『ミドリ』
『コッチダヨ』
深鳥は靴を履くのも忘れ、おぼつかない足取りで、やがて見えない空間に取り込まれていった。
「たしか、この辺だったはず……」
鈴の音に聡はすぐさま駆けつけたが、人の気配は全くなかった。風がざっ、と裸の森を抜けて行く。
引っかかったのが深鳥であってほしい……そう祈るような気持ちで来たが、聡が見つけたのは深鳥のものらしき片方の靴だけだった。
「……そんな、一体どこに……」
深鳥の目の前に現れたのは、一面の枯れ野……快晴と別れた時に見たままの冬景色だった。雪は無かったが、生き物の気配が全くない。たんぽぽの声も幻だったのだろうか。
庭は時間の流れが現実と違う、といつか快晴は言っていたが、あれから時間が止まったままなのか、それとも……季節が一巡りしてしまったのか、深鳥には分からなかった。
深鳥は愕然とした気持ちでその場に膝をつく。空だけがあの時とは違っていた。
悲しみを吸い込むような青い空だった。
「かいせいー!」
深鳥は声の限り名前を呼んだ。それはやがて悲痛な叫びとなって風にほどけていった。




