秘密
「サンプル……そんな」
ソアラは半信半疑にドクターを見る。
「今から十数年前のことだ。私がYgg-7に交換診療に行った時、まだ幼い彼女と出会った」
言葉を区切るとドクターは遠くの方をみつめた。目の前を先ほどのつばめが横切っていった。
「ミドリ・トキムラは私の担当する患者だった」
「!」
驚きと同時に、快晴の目には困惑の色が浮かぶ。ドクターはソアラと快晴の顔を交互に見る。
「信じられないのも無理はない」
ドクターはおもむろにジャケットの下に手を忍ばせた。
「これを見てほしい」
胸元から一匹の蝶が羽ばたいた。はたはたと宙を舞う。フラップ・メモリ……そう思った時には、ソアラは自然に手を宙に差し出していた。
すでに種の存続を潰え、記憶の中にしか見いだせないはずの美しいモルフォ蝶は、疑似感覚を伴ってソアラの白い薬指の先に止まる。かすかにくすぐったい。
〈EHR〉 とドクターがつぶやく。蝶は瞬時に消滅し、浮遊する鱗粉の合間から光る文字列が現れた。
ドクターは少しばかり考えてから 〈Ygg-7〉 さらに 〈ミドリ トキムラ〉 と条件を加えると、全ては砂粒のように流れ去り、一つの白い箱がソアラの前に現れた。仄かに点滅しながらゆっくり回っている。
ドクターは快晴を見る。快晴は小さくうなずいた。
〈開封〉 と快晴がつぶやくと、箱は花開くようにばらけ、消える。
浮かび上がったその幼な子の姿は、華やかに飾り立てられた人形のようだった。うつぶし色の長い髪を半分だけ結上げ、民族衣装をまとい、ガラス玉のような無機的な眼をどこかに向けている。
ソアラは吸い寄せられるようにその立体映像を眺めていた。ふと視線を移す。快晴も同じように見つめていた。しかしソアラの素直な驚きとは違い、その眼は静かに、全てを悟っているかのようだった。
――カイセイ?
快晴は無表情だった。けれどもその拳が次第に何かを握りつぶしていくのがソアラには分かった。
ドクターが映像を消す。快晴は我に返ったようにドクターを見る。
「これは私のカルテの一部。そしてこれから話すのは、私がミドリの両親と面会して聞いたこと……医師が患者の個人情報を明かすなどゆゆしきことだが、後にも先にもこれが最後。どうか君たちの胸に留めておいて欲しい」
ミドリの両親……トキムラ夫妻は彼女が生まれてすぐチクラを離れ、都市に移り住んだ。苗木を売ることを生業としていたようだ。
人工物であふれた都市で、天然の苗木を扱うのは稀で、一般だけでなく業者の間でも重宝されたらしい。
〈心を失った子供〉として彼女は人知れず育った。歩くことや、物も食べるといったような、生きるのに不可欠な行動だけは本能としてできた。しかし、会話も喜怒哀楽もなく……ただ時々、空を見て手を伸ばすようなしぐさをしたという。
私が診た彼女の所見だが、脳に全く異常がないにも関わらず、脳波は常に眠っている状態だ。レム状態……つまり夢の中の住人、と言えよう。
そして数年経ったある時、7歳の誕生日、彼女は目覚めた。
「目覚めたって……」
問うようなソアラの眼にドクターがうなずく。
「心を取り戻した、とも言える」
治療を条件にArcからサンプルの話を何度か持ち出されたものの、両親はこれを拒否。都市の保護制度を放棄し、それから逃れるように各都市を転々とした。
「Ygg-7には7歳までの記録があったが、それ以降は分からない」
ドクターは目を伏せた。
――時村親子は身を隠していた。…私たちと同じように。
ソアラは自分の手をぎゅっと握る。
「カイセイ、Arcの目的は、特殊な人間の持つ能力の根底たる遺伝子だ。ソアラも最初はサンプルとしてArcに迎えられた。君も知ってのとおり、ソアラの視覚はマイクロ波帯に寄っている。彼女のゲノムを解析し、遺伝子のどの箇所に、どのような変異があったかを明らかにすることで、脳と視覚分野の医療は大きく躍進した」
快晴の視線を感じて、ソアラもちらっと快晴を見る。
「今ではレンズは取り外しもしない…眼の一部なの。瞬きの仕方で可視光とマイクロ波帯のチャンネルを自由に切り替えられるわ」
「Arcの長年の研究に望みをつなぐ……彼らは生きたサンプル。そして今回、極東での一斉調査に我々が狩出された」
「……」
「君は、我々を蔑んでいるだろうね。SSCから引き揚げてきて、君がチクラへ戻った後、ソアラと二人で世界の都市を転々とした。しかしどこに行ってもArcの情報網が及んでいた。隠れて暮らすのももう、限界だった」
ドクターの横に寄り添うように、ソアラが立った。
「私たちは連行された。そしてArcの出先機関でもある世界環境研究所に、ドクターは医療で、私はマイクロ波工学で協力を求められた。ドクターとは離れて暮らさなくてはならなかった」
でも、と少し置いて、ためらいがちにソアラは言った。
「たまに会うことはできるし、生活も優遇されてる。それに…研究環境は本当にすばらしいわ」
「カイセイ、我々はArcを誤解していたんだ」
ドクターの声にはしっかりした重みがあった。
「かつてSSCで君を追っていたのは幹部、レイヴンの配下の者だ。彼は過激派で我々の中でも異端視されている。
我々が実際に見たArcは真摯に救済の道を探っている。温室都市で何もしない形だけの政府よりも。彼らの熱意の元に人が集まり、その情報網を通して世界を水面下から操るまでになった。医療機関から世界の各都市、世界政府やSSCも……すでにArcに占拠されている」
「SSCも……」
快晴のつぶやきに、ドクターは神妙にうなずく。
「もうどこにも余地はない。いずれ君たちが住むチクラにも手が及ぶだろう」
地面をじっとみつめたまま快晴は黙り込む。大きなうねりが世界を飲み込んでいくのを感じた。その透明なる余波は静かに、しかし着実に、人々の思想をも浸食していくに違いない。Arcの提唱する救済と発展の名の下に。
そして、誰もが肝心の真実を見失う。
「……研究って、何?」
快晴の言葉がぽっかりと宙に浮かんだ。
「遺伝子を操作して、何かを作ろうとしてるのか?」
眼鏡越しに、ドクターの眼が揺れているのが分かる。
快晴は押し黙ったまま、ドクターをじっと見つめている。その唇が小さく息を吸う。
「Arcはヒトを進化させようとしてる」
宇宙移住に向けて人体に必要になってくるのは、宇宙放射線への耐性。それから星間移動に必要な寿命の延長。それを遺伝子操作によって可能にする。
「その実現のために、Arcはそれこそ長い時間をかけて、優秀な人間の選別と遺伝子の解明、技術の向上を進めてきたんじゃないのか。医療行為とうたって」
ドクターは固く目を閉じていたが、やがて観念したように息をついた。
「君の言う通りだ。しかしどうしてそれを」
「先客」
快晴は短く息をついた。
「レイヴンは俺の記憶を欲しがってた」
「あなたは、レイヴンと接触したのね?」
ソアラを見てうなずく。快晴は言葉を慎重に選ぶ。声がいっそう低くなる。
「気配がまるでなかった。立体映像だと思う。それで……方舟計画のことを持ち出してきた。宇宙移住と遺伝子操作、それから沈黙の春、全部つながるんだろう?」
まっすぐ向かってくる視線に、ソアラははっとした。胸をつかむような不安が、襲いかかってくる。
――沈黙の春が?
彼はかまをかけているわけでも、でっちあげているわけでもない。それは幼なじみであるソアラにはよく分かっている。
長い長い沈黙があった。ドクターは険しい表情を緩めることはなかった。
「もしそうだったら……君はどうする?」
「ドクター?!」
「これは世界的な流れなんだ。君がチクラにいた数年の間に、外の状況は大きく変わりつつある。この星が回復するめどは立たない。いや、人間にとって住まう場所ではもはやないのかもしれない。政府はこのままシェルター文化を維持しようと考えているが、すでに支障が出ている」
心を病む人の増加、生きる意欲の減退。子孫の減少。そして致命的なのは性の不能。人類の進化は静かに滅びへ向かっているのかもしれない。
Arcがまず目指すのは、宇宙滞在に適応できる段階に人類を引き上げること。従来の行き当たりばったりの進化ではなく、そうした方向付けの進化が必要だ。
「我々研究者たちは一丸となって人間の未来を支えていく所存だ。そこに君の力が必要なんだ。そしてミドリの存在も」
ドクターは右手を差し出した。
「我々と共に来てくれ、カイセイ。ミドリも一緒に」
「……」
「そうすれば、レイヴンもこんな暴挙などに出ず、すぐにミドリを解放するだろう。チクラ内にまだいるなら、互いに交信できるはず…彼には私が話をつける」
快晴は静かに首を振ると、背中を向け、歩き出した。
「カイセイ!」
「都市に、何がある……そうやって、深鳥をまたユビキタスシステムの中で飼いならすのか?」
「何を、言いだすんだ……」
数歩進み、快晴は立ち止まる。じっと虚空を見つめた。
『ここに、これて良かった。それと…快晴にも逢えて』
いつか庭で都市の話をした時……深鳥はそう言って微笑い、頭をことりと快晴の腕に預けた。快晴は身じろぎせずにただ目を閉じ……かすかな重みを、感じていた。
深鳥といるうちに、今まで何気なく見ていた世界が、あたかも生まれ変わるように感じた。深鳥の目に映るものは、何もかもが珍しく、きっと美しい。
守りたい、と思った。深鳥の笑顔も、見ている世界も、服を通して伝わるその温もりも…
「あいつには、本当の空と自然が必要で……俺はあいつが必要なんだ。もう…どこにも行かせたりしない」
快晴の足が地を蹴った。
「カイセイ、待って!」
「ソアラ、待ちなさい」
手を掴まれ、ソアラは振り解こうとする。
「ドクターどうして? ミドリがサンプルだったなんて、私には話してくれてもよかった!」
触れていた手を完全に振りほどく。
「ドクターは変わったわ。Arcに染まってしまったの? 前はそんなに信用していなかったはず――」
少しの沈黙の後、ドクターは重い口を開いた。
「君には黙っていたが、私は今、遺伝子研究の一翼を担っている。私もカイセイのことを忘れたわけじゃない。そんな時、極東視察の指示が降りた。私の配置は医師としてサンプル確保の時だ。これは紛れもなく私の仕事。君にはカイセイを探すのに専念してほしかった」
「そんな、ドクターが……」
「ミドリのことはまだ報告していない。……しないつもりだった。しかし幹部は来てしまった。どこからか情報がもれていたんだろう。すまない。結果的にこういう事態を招いてしまった」
――私の……せいだわ。
ソアラは自分の手をぎゅっとにぎる。
「いいえ………………全ては私が招いたこと」
ソアラはうつむく。やがて、くすりと笑った。ドクターが不思議そうな顔をする。
「……ううん……私たち、お互いに秘密を持ち寄っていたのね」
「ソアラ?」
「私こそ、ドクターに黙ってたことがある。今回の調査はそもそも、私が幹部に申請したの」
「!」
「レイヴンに交渉して一年がかりでチクラに行く許しを得たわ。チクラは調査に足る土地だと……世界環境研究所の職員として、ぜひ視察したいと言ったわ。でもそれがあいつの狙いだった。私をたどってあいつはここに来たのよ」
「どうして……交渉なんて、そう簡単には進まないだろう。君は幹部に何を――」
「ごめんなさいドクター」
ソアラは寂しげに微笑んだ。
「こうなったのは全部、私のせいなの。だから行かないと……」
手をそっと解くと、ドクターを残しソアラも駆け出した。
力が抜けたようにドクターはベンチに腰を下ろし、手を組む。
「昔も今も、あの子たちには手を焼く」
ドクターはふと笑う。そしてすぐ笑みは消えた。
「君たちは若いから、訝しく思うかもしれないが、人は変わるものだ…私のように何十年と生きていればなおのこと……変わらなくては、生きていけないのだよ」
二人がいなくなった後の静けさに、こだまする鳴き声。
「全ては変わってしまった。あの沈黙の春から」
空を見上げた。カラスが二羽降り立って来た。
――ヒナタ、君もどこかへ行ってしまった。私には、永遠に解けないだろう謎を残して。
生きること、それは……




