羽と花 *
illustrated by marry
トコトコトコ……
どこからか、足音がついてくる。ちらっと後ろを見ると、深鳥が立っていた。
快晴は息を飲む。視線が合う寸前、とっさに目を逸らし歩調を早めた。深鳥は後を追いかける。しかし快晴が止まる気配はない。
「待って」
やっとのことで深鳥は快晴の袖を掴む。
「ソアラとけんかしたの?」
「……別に」
「じゃあ、ちゃんと見送ってあげて? このままじゃだめだよ」
「お前に関係ないだろ」
再び歩き出す快晴を再度引き止めようと、深鳥は腕にしがみついた。
「だって、二人はコイビトなんでしょう?」
その言葉に耳を疑う。快晴は思わず振り返った。
「だから、大切にして……けんかしたまま離れちゃだめ」
必死な眼を前に、逆に苦笑してしまう自分がいた。そんな快晴の態度に、深鳥は戸惑うばかりだ。
「……お前、意味分かって言ってるのか?」
「意味……」
「恋人って意味だよ」
「お互いに、愛しいと思ってる……て蒔ちゃんが」
「……」
「あと、コイビトはキスをするって」
「……それで?」
「ーー」
「それで、終わり。か?」
冷えた眼差しが深鳥を射る。深鳥ははっとして、抱いていた腕から離れようとした。すると、今度は快晴が深鳥の腕を掴み、半ば引きずるように連れていく。
「…痛い………快晴」
あっという間にゆらぎを通過し、庭に辿り着くと、大木の下までやって来た。
幹を背に、深鳥はそのなだらかな根元に座らされる。同時に、両方の手首が幹に固定される。
「!」
「恋人はキス以外にもいろいろするんだ」
耳元でささやく声は低く、微かな吐息がかかる。深鳥は身を縮め、うつむいた。快晴の顔が近くにある。
「……知りたいか?」
深鳥は顔を上げる。快晴の眼はまるで誘導するように、深鳥をじっと見つめている。
深鳥は――何も言えなかった。心が揺れた。知りたいと……言ったらいけない気がした。
快晴は視線を外し、息をつく。
「教えてやる」
そう呟いて、快晴は深鳥の両手を解き、今度は無防備な胴に腕を回した。
「!」
深鳥はふいに引き寄せられ、快晴の膝に座らされる。振り返る間もなく後ろから抱きしめられた。
「かい……せい?」
浸透していく二つの体。重なりあう鼓動。そして……自分の体の奥底で水脈のようにあふれる何か。
深鳥は目をつぶったまま、両手を口の前でぎゅっとにぎる。
ーーだ…め……
突然、快晴の目の前にふわりと、一輪の羽根が咲いた。埋めていた顔を上げ、快晴はじっと観察する。
真白に透きとおっているかと思えば、光の具合で様々な色が浮かび、消える。オパールにも似た、不思議で美しい羽根だ。
好奇心に突き動かされるまま、快晴はためらいもなく深鳥の上着をまくり上げる。そして、下着に指を掛け、その隙間から、羽根が深鳥の肩甲骨の下部、背骨の筋から放射状に伸びているのを確認する。
ずっと気になっていた疑問が解けて、快晴は小さくうなずいた。
ーー枝垂れてるから羽根みたいだけど、本当は花に近いのか。
思考を止め、再び目の前の羽根に顔を埋めると、まず唇にかかる羽根を食んだ。瞬間、柑橘の芳香が鼻をくすぐる。
口の中で転がすと仄かな甘さが広がり、やがて舌の上で綿菓子みたいに溶けていく。
快晴は無心でその作業を繰り返した。口に含んでは溶かし、その感覚を楽しむ。そうしていくうちに、やがて、羽根の始点に至る。
――カイセイ?
くすぐったさに深鳥は肩越しに目をやる。
背中に吸いついているのが快晴の唇だと知り、体が思わず跳ね上がる。
――ナニヲ シテルノ?
胴に絡まる快晴の両腕が、きりきりと深鳥を締めてゆく。羽根がひとひら、ふたひら、快晴の口の端から零れ落ちていく。
柑橘のような香りは髪だけでなく、羽根にも肌にも全て、深鳥の内側に閉じ込められている。そんな風に、花に頬を寄せ、感覚を研ぎすましている自分は、さながら虫のようだ、と快晴は思った。
花の中にもぐり込むものもいれば、管を延ばし吸い上げようとするものもいる。様々な手段で、彼らは糧となる蜜を貪っていく。そしてそれを仕組んでいるのは、他ならぬ花自身なのだ。
人なら、どうやってその蜜を得るだろう。人にとっての花とは? その在り処を、快晴は既に心得ている。
「快晴…………やめて…?」
やっとのことで声になった懇願も虚しく宙に消える。
逃れようとせり出す体を、力強い腕が引き戻し、深鳥は快晴の膝の上で抱えられた。
「……ぁ、」
快晴の、その研ぎすまされた、獲物を狙う獣のような眼が、深鳥を金縛りにする。
こわい、と思った。今までそっけなくされたり、叱られたことは何度もある。怒鳴り声を聞いたこともある。でも快晴をそんな風に感じたことはなかった。
深鳥の顔は冷たく、体は小刻みに震える。息を殺し見上げたまま、逸らすことができなかった。
頭ごと覆うように抱え込まれ、視野が塞がれる。スカートに落ちた快晴の手が、ひだを集め、握りしめる。あらわになった白い腿を、冷たい指先が内側へそっと撫でていく。
深鳥の体がびくりと硬直した。
真っ白になっていく頭の中、チカチカと目の前を何かが点滅する。頬にかかる快晴の息使いが荒く、熱を帯びてくる。
深鳥が逃れようと身をよじるほど、疼きが鋭く体を苛んだ。
「……ゃ………あ」
こぼれる息混じりに、深鳥は快晴を呼び続ける。
「……かぃ…せ…、……かぃ……… ……」
その声もやがては消え入って、互いに息ばかりになった頃――短い吐息が深鳥からこぼれた。ようやく快晴の束縛は緩み、深鳥の体はゆっくりと地面にずり落ちていく。
深鳥はうずくまり、両手で体を抱えながら震えている。快晴は呆然とその様子を見ながら、指に絡む透明な蜜を吸い取った。
甘く、瑞々しい酸味がゆっくりと喉を通り、恍惚となって体内へ浸透していく。力が抜けたように膝をつき、快晴は目の前の少女に手を伸ばした。
幼い頃、花の蕾をむいた。むいていくほど花弁の色は薄くなり、小さくなって、中心にあるやくだけになって、捨てる。ただ無性に面白くて、そんなことを繰り返していた。下を見ると、自分のむいた花びらと残骸が散らばっていた。
花びらに触れる時のあの心地良さ。指の腹に吸い付くように柔らかく、繊細でーー深鳥に覚えた感触はそれと似ている。
深鳥の頬に次々と落ちる涙を、指先でせき止める。
「ソアラは恋人じゃない」
呆然としながらも深鳥は快晴を見る。濡れた親指が唇に触れた。
「恋人は、キスじゃ終われない……こんな風に」
崩れるように深鳥に被さると、快晴はそっと想いを告げる。
「こんなんじゃ足りない。もっと欲しいんだ…………深鳥……」
柔らかな体に顔を埋める。伝わってくる、微かな震え。
取り返しのつかないことをした。なのに、どこかで満たされている自分がいる。自己嫌悪が繰り返し押し寄せても、なお手は温もりを離そうとしない。尽きない欲求が未だ体内でくすぶっているのを感じる。
「……もっと……………深鳥が欲しい…………」
たとえどんなに自分を欺いても、一度生じた乾きはきっと、この行為でしか潤せない。
そんなこと、初めから分かっていた。自分の気持ちを知ったあの月の夜……深鳥に口付けたあの時から。
それでも、大切にしたかった。こんな風に欲張ったりせず、ただ側に居られたなら――
いつまでも震えが止まらない深鳥を手に、快晴は急速に自分の内が冷えていくのを感じた。恐ろしいほどの後悔に襲われていた。
自分は何をした? 深鳥の心を置き去りにむりやり抱いて、こんな恋人まがいなことをして――
いつだって深鳥が眠る間に触れて、口付けて……それで手に入れたつもりだったのか? 深鳥を、俺は――
『……あなただって気付いてるんでしょ? ミドリはあなたを愛してるわけじゃない』
頭の中で響くソアラの声に、快晴はようやく返答をした。
――そう……俺が、深鳥を手中に閉じ込めていただけ。
快晴は深鳥を押し出すように体を離した。
「ここにもう、来るな」
「……?」
「……これ以上、一緒にいられない」
快晴は声低く言うと、肩を掴む両手に力を込めた。深鳥は弱々しく首を振るう。
「……どう…して? 私……泣いたから?」
深鳥の方を見ずに快晴はうつむく。気を抜けば揺れ出しそうな振り子の心を必死でこらえ、歯を食いしばる。
深鳥の眼から溢れる涙を、吸い取ってしまいたかった。涙に濡れる唇を、自分の唇で拭ってしまいたかった。堪え難いほどの欲求が、罪悪感が、交互に快晴の胸元に突き立てられる。
「……分かったろ……これ以上いたら、俺はお前を、もっとめちゃくちゃに――」
快晴は言葉を失ったまま深鳥の体を押しやった。
立ち上がって快晴は歩き出す。歩みが早くなる。深鳥が何度呼んでも振り返らず、快晴はゆらぎの向こうへ消えた。
追いかけようとしたのに深鳥の体は動かなかった。しばらくして引きずるように起こすと、体の奥がじんとして、深鳥は再び座り込む。快晴に執拗に探られた感覚が、未だ残っていた。
乱れた服装を直す。その指がカタカタと震えだす。再び涙が溢れだし、頬を伝って手の甲に落ちる。体のあちこちが快晴を覚えている。
「っ…」
ゆらぎに向かって数歩歩くと、深鳥はうずくまった。体が言うことを聞かない。頭の中が未だに混乱している。
「…快……晴………」
もう、側にいることは許されないのだろうか?
欲しいと乞われたあの時、深鳥はどうしていいか分からなかった。快晴から伝わるものを全身で受け止め、心が震えた。ただ涙が溢れた。
それは決して形をなさない。苦しく、悲しくて、そして……火のように温かく、はかなく揺れる。
『そう、愛しい……誰よりも大切な人だよ。深鳥は誰をそう思う?』
蒔の言葉がよみがえる。深鳥は呆然と頭を上げた。風に乱れた髪が頬の雫をさらう。快晴はどこへ行ったのだろう。胸騒ぎがする。
このままじゃだめ。快晴を探さなくては――深鳥は懸命に歩き出す。これ以上一緒にいられないと告げた、快晴の手もまた震えていたのだ。
言わないと……快晴が一番大切だと。快晴が愛おしいと。
深鳥がゆらぎを抜けて森をさまよっていると、
「ミドリ! どうしてこんなところに。」
「……ソ…アラ…」
「どうしたの?」
「快が……」
「……?」
「………快……晴が……」
言葉を詰まらせると、深鳥は再び涙をこぼす。ソアラが近くに寄り、肩に手をかけた時。さっとソアラの表情が曇った。
目の前の、泣きじゃくる少女の体から立ち上る、異性の匂い。それが全てを教えていた。彼がどれだけ縋るように彼女を求めたのかを――
ーーよく、分かったわ…
「ミドリ……泣かないで」
深鳥はソアラを見つめる。ソアラは優しく微笑んでいる。
「分かったわ、だから………もう、大丈夫よ」
ソアラの長い指が深鳥の肩を包み込むように抱く。
〝もう、何も悲しくないわ〟
耳ではなく、心に直接響く不思議な声。
〝悲しみを全て忘れるの。楽になるわ……〟
「ソア……ラ……?」
ソアラの甘い声の中で渾沌とする。心地がいい。気が遠くなる。
虚ろな意識のもやの中、深鳥は振り返る。
立ち尽くす快晴の姿。蒼然とした、悲しみの混じるその眼で、深鳥を見ている。そして背を向け、歩き出す。
深鳥は後を追った。どこまでも、どこまでも……暗い意識の森の奥へと。
ーー待って、快晴。待っ…て……
気がつくと、黒衣に身を包んだ男が見下ろしていた。しゃがみこみ、ソアラの顔に手をかける。その手の温度がまぎれもない実体であることを知り、ソアラの体は小刻みに震えだした。
「どうして………私はたしかに」
「君が泣いているように、思えたんだ」
慈しむような声が降り注ぐ。ソアラはそっと呼びかけた。
「……レイヴン」
レイヴンは静かに微笑んだ。そして、ソアラにもたれていたはずの深鳥の体は、いつのまにかレイヴンに抱えられていた。ソアラは急に軽くなった両手を唖然と見る。
「この娘を囮にすればカイセイは必ず我々に従う。shelter、そう伝えるがいい。彼なら分かるはずだ」
「やめて!」
すがろうとするが、体は動かない。
「レイヴン!!」
「このままでは、君は彼を取り戻せない」
「……!」
「得たいものは一致している。私は彼の記憶。君は彼の体。心は……葬ればいい。この娘と共にね」
くすくすと笑いながら、レイヴンと深鳥の体は闇に溶けていく。
「私はいつも君の味方だ。ソアラ……」
*
20分後、快晴は同じ場所に戻ってきていた。
「……深鳥………」
しかし、そこには誰もいなかった。引き返した道中、深鳥は見かけなかった。ゆらぎを抜け別のルートで帰ったのだろうか。以前、道はいくつか教えているはずだ。
快晴は拳をぎゅっと握る。傷つけたまま置いてきてしまったことを悔やみ、しばらく立ちすくんでいたが、やがて顔を上げて踵を返し、再びゆらぎを抜けると、元いた森に深鳥を探しに行った。




