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風が廻る場所  作者: 飛水一楽
〈鳥籠の章〉
49/116

羽と花 *

挿絵(By みてみん)

illustrated by marry

 


 トコトコトコ……


 どこからか、足音がついてくる。ちらっと後ろを見ると、深鳥が立っていた。

 快晴は息を飲む。視線が合う寸前、とっさに目を逸らし歩調を早めた。深鳥は後を追いかける。しかし快晴が止まる気配はない。


「待って」

 やっとのことで深鳥は快晴の袖を掴む。

「ソアラとけんかしたの?」

「……別に」

「じゃあ、ちゃんと見送ってあげて? このままじゃだめだよ」

「お前に関係ないだろ」

 

 再び歩き出す快晴を再度引き止めようと、深鳥は腕にしがみついた。

「だって、二人はコイビトなんでしょう?」

 その言葉に耳を疑う。快晴は思わず振り返った。

「だから、大切にして……けんかしたまま離れちゃだめ」

 必死な眼を前に、逆に苦笑してしまう自分がいた。そんな快晴の態度に、深鳥は戸惑うばかりだ。

「……お前、意味分かって言ってるのか?」

「意味……」

「恋人って意味だよ」

「お互いに、愛しいと思ってる……て蒔ちゃんが」

「……」

「あと、コイビトはキスをするって」

「……それで?」

「ーー」

「それで、終わり。か?」


 冷えた眼差しが深鳥を射る。深鳥ははっとして、抱いていた腕から離れようとした。すると、今度は快晴が深鳥の腕を掴み、半ば引きずるように連れていく。

「…痛い………快晴」

 




 あっという間にゆらぎを通過し、庭に辿り着くと、大木の下までやって来た。

 幹を背に、深鳥はそのなだらかな根元に座らされる。同時に、両方の手首が幹に固定される。

「!」

「恋人はキス以外にもいろいろするんだ」

 耳元でささやく声は低く、微かな吐息がかかる。深鳥は身を縮め、うつむいた。快晴の顔が近くにある。

「……知りたいか?」


 深鳥は顔を上げる。快晴の眼はまるで誘導するように、深鳥をじっと見つめている。

 深鳥は――何も言えなかった。心が揺れた。知りたいと……言ったらいけない気がした。


 快晴は視線を外し、息をつく。

「教えてやる」

 そう呟いて、快晴は深鳥の両手を解き、今度は無防備な胴に腕を回した。

「!」

 深鳥はふいに引き寄せられ、快晴の膝に座らされる。振り返る間もなく後ろから抱きしめられた。

 

「かい……せい?」

 浸透していく二つの体。重なりあう鼓動。そして……自分の体の奥底で水脈のようにあふれる何か。

 深鳥は目をつぶったまま、両手を口の前でぎゅっとにぎる。


 ーーだ…め……

 


 突然、快晴の目の前にふわりと、一輪の羽根が咲いた。埋めていた顔を上げ、快晴はじっと観察する。

 真白に透きとおっているかと思えば、光の具合で様々な色が浮かび、消える。オパールにも似た、不思議で美しい羽根だ。

 

 好奇心に突き動かされるまま、快晴はためらいもなく深鳥の上着をまくり上げる。そして、下着に指を掛け、その隙間から、羽根が深鳥の肩甲骨の下部、背骨の筋から放射状に伸びているのを確認する。

 ずっと気になっていた疑問が解けて、快晴は小さくうなずいた。


 ーー枝垂(しだ)れてるから羽根みたいだけど、本当は花に近いのか。

 

 思考を止め、再び目の前の羽根に顔を埋めると、まず唇にかかる羽根を食んだ。瞬間、柑橘の芳香が鼻をくすぐる。

 口の中で転がすと仄かな甘さが広がり、やがて舌の上で綿菓子みたいに溶けていく。

 

 快晴は無心でその作業を繰り返した。口に含んでは溶かし、その感覚を楽しむ。そうしていくうちに、やがて、羽根の始点に至る。


 ――カイセイ?


 くすぐったさに深鳥は肩越しに目をやる。

 背中に吸いついているのが快晴の唇だと知り、体が思わず跳ね上がる。


 ――ナニヲ シテルノ?


 胴に絡まる快晴の両腕が、きりきりと深鳥を締めてゆく。羽根がひとひら、ふたひら、快晴の口の端から零れ落ちていく。


 柑橘のような香りは髪だけでなく、羽根にも肌にも全て、深鳥の内側に閉じ込められている。そんな風に、花に頬を寄せ、感覚を研ぎすましている自分は、さながら虫のようだ、と快晴は思った。

 花の中にもぐり込むものもいれば、管を延ばし吸い上げようとするものもいる。様々な手段で、彼らは糧となる蜜を貪っていく。そしてそれを仕組んでいるのは、他ならぬ花自身なのだ。

 

 人なら、どうやってその蜜を得るだろう。人にとっての花とは? その在り処を、快晴は既に心得ている。

「快晴…………やめて…?」

 やっとのことで声になった懇願も虚しく宙に消える。

 逃れようとせり出す体を、力強い腕が引き戻し、深鳥は快晴の膝の上で抱えられた。


「……ぁ、」

 快晴の、その研ぎすまされた、獲物を狙う獣のような眼が、深鳥を金縛りにする。

 

 こわい、と思った。今までそっけなくされたり、叱られたことは何度もある。怒鳴り声を聞いたこともある。でも快晴をそんな風に感じたことはなかった。

 深鳥の顔は冷たく、体は小刻みに震える。息を殺し見上げたまま、逸らすことができなかった。

 

 頭ごと覆うように抱え込まれ、視野が塞がれる。スカートに落ちた快晴の手が、ひだを集め、握りしめる。あらわになった白い腿を、冷たい指先が内側へそっと撫でていく。

 

 深鳥の体がびくりと硬直した。

 真っ白になっていく頭の中、チカチカと目の前を何かが点滅する。頬にかかる快晴の息使いが荒く、熱を帯びてくる。

 深鳥が逃れようと身をよじるほど、疼きが鋭く体を(さいな)んだ。

「……ゃ………あ」

 こぼれる息混じりに、深鳥は快晴を呼び続ける。

「……かぃ…せ…、……かぃ……… ……」


 

 その声もやがては消え入って、互いに息ばかりになった頃――短い吐息が深鳥からこぼれた。ようやく快晴の束縛は緩み、深鳥の体はゆっくりと地面にずり落ちていく。


 深鳥はうずくまり、両手で体を抱えながら震えている。快晴は呆然とその様子を見ながら、指に絡む透明な蜜を吸い取った。

 甘く、瑞々しい酸味がゆっくりと喉を通り、恍惚となって体内へ浸透していく。力が抜けたように膝をつき、快晴は目の前の少女に手を伸ばした。

 

 幼い頃、花の蕾をむいた。むいていくほど花弁の色は薄くなり、小さくなって、中心にあるやくだけになって、捨てる。ただ無性に面白くて、そんなことを繰り返していた。下を見ると、自分のむいた花びらと残骸が散らばっていた。

 

 花びらに触れる時のあの心地良さ。指の腹に吸い付くように柔らかく、繊細でーー深鳥に覚えた感触はそれと似ている。


 深鳥の頬に次々と落ちる涙を、指先でせき止める。

「ソアラは恋人じゃない」

 呆然としながらも深鳥は快晴を見る。濡れた親指が唇に触れた。

「恋人は、キスじゃ終われない……こんな風に」

 崩れるように深鳥に被さると、快晴はそっと想いを告げる。


「こんなんじゃ足りない。もっと欲しいんだ…………深鳥……」


 柔らかな体に顔を埋める。伝わってくる、微かな震え。  

 取り返しのつかないことをした。なのに、どこかで満たされている自分がいる。自己嫌悪が繰り返し押し寄せても、なお手は温もりを離そうとしない。尽きない欲求が未だ体内でくすぶっているのを感じる。 

「……もっと……………深鳥が欲しい…………」

 

 たとえどんなに自分を欺いても、一度生じた乾きはきっと、この行為でしか潤せない。

 そんなこと、初めから分かっていた。自分の気持ちを知ったあの月の夜……深鳥に口付けたあの時から。

 それでも、大切にしたかった。こんな風に欲張ったりせず、ただ側に居られたなら――

 




 いつまでも震えが止まらない深鳥を手に、快晴は急速に自分の内が冷えていくのを感じた。恐ろしいほどの後悔に襲われていた。

 自分は何をした? 深鳥の心を置き去りにむりやり抱いて、こんな恋人まがいなことをして――

 いつだって深鳥が眠る間に触れて、口付けて……それで手に入れたつもりだったのか? 深鳥を、俺は――


『……あなただって気付いてるんでしょ? ミドリはあなたを愛してるわけじゃない』

 頭の中で響くソアラの声に、快晴はようやく返答をした。

 

 ――そう……俺が、深鳥を手中(ここ)に閉じ込めていただけ。


 快晴は深鳥を押し出すように体を離した。

「ここにもう、来るな」

「……?」

「……これ以上、一緒にいられない」

 快晴は声低く言うと、肩を掴む両手に力を込めた。深鳥は弱々しく首を振るう。

「……どう…して? 私……泣いたから?」


 深鳥の方を見ずに快晴はうつむく。気を抜けば揺れ出しそうな振り子の心を必死でこらえ、歯を食いしばる。


 深鳥の眼から溢れる涙を、吸い取ってしまいたかった。涙に濡れる唇を、自分の唇で拭ってしまいたかった。堪え難いほどの欲求が、罪悪感が、交互に快晴の胸元に突き立てられる。

「……分かったろ……これ以上いたら、俺はお前を、もっとめちゃくちゃに――」

 快晴は言葉を失ったまま深鳥の体を押しやった。

 

 立ち上がって快晴は歩き出す。歩みが早くなる。深鳥が何度呼んでも振り返らず、快晴はゆらぎの向こうへ消えた。


 追いかけようとしたのに深鳥の体は動かなかった。しばらくして引きずるように起こすと、体の奥がじんとして、深鳥は再び座り込む。快晴に執拗に探られた感覚が、未だ残っていた。

 

 乱れた服装を直す。その指がカタカタと震えだす。再び涙が溢れだし、頬を伝って手の甲に落ちる。体のあちこちが快晴を覚えている。

「っ…」

 ゆらぎに向かって数歩歩くと、深鳥はうずくまった。体が言うことを聞かない。頭の中が未だに混乱している。

「…快……晴………」


 もう、側にいることは許されないのだろうか?

 

 欲しいと乞われたあの時、深鳥はどうしていいか分からなかった。快晴から伝わるものを全身で受け止め、心が震えた。ただ涙が溢れた。

 それは決して形をなさない。苦しく、悲しくて、そして……火のように温かく、はかなく揺れる。


『そう、愛しい……誰よりも大切な人だよ。深鳥は誰をそう思う?』

 蒔の言葉がよみがえる。深鳥は呆然と頭を上げた。風に乱れた髪が頬の雫をさらう。快晴はどこへ行ったのだろう。胸騒ぎがする。

 このままじゃだめ。快晴を探さなくては――深鳥は懸命に歩き出す。これ以上一緒にいられないと告げた、快晴の手もまた震えていたのだ。


 言わないと……快晴が一番大切だと。快晴が愛おしいと。


 深鳥がゆらぎを抜けて森をさまよっていると、

「ミドリ! どうしてこんなところに。」

「……ソ…アラ…」

「どうしたの?」

「快が……」

「……?」

「………快……晴が……」

 言葉を詰まらせると、深鳥は再び涙をこぼす。ソアラが近くに寄り、肩に手をかけた時。さっとソアラの表情が曇った。

 

 目の前の、泣きじゃくる少女の体から立ち上る、異性の匂い。それが全てを教えていた。彼がどれだけ縋るように彼女を求めたのかを――


 ーーよく、分かったわ…

「ミドリ……泣かないで」

 深鳥はソアラを見つめる。ソアラは優しく微笑んでいる。

「分かったわ、だから………もう、大丈夫よ」

 ソアラの長い指が深鳥の肩を包み込むように抱く。


〝もう、何も悲しくないわ〟


 耳ではなく、心に直接響く不思議な声。


〝悲しみを全て忘れるの。楽になるわ……〟


「ソア……ラ……?」

 ソアラの甘い声の中で渾沌とする。心地がいい。気が遠くなる。


 虚ろな意識のもやの中、深鳥は振り返る。

 立ち尽くす快晴の姿。蒼然とした、悲しみの混じるその眼で、深鳥を見ている。そして背を向け、歩き出す。

 深鳥は後を追った。どこまでも、どこまでも……暗い意識の森の奥へと。


 ーー待って、快晴。待っ…て……






 気がつくと、黒衣に身を包んだ男が見下ろしていた。しゃがみこみ、ソアラの顔に手をかける。その手の温度がまぎれもない実体であることを知り、ソアラの体は小刻みに震えだした。

「どうして………私はたしかに」

「君が泣いているように、思えたんだ」

 慈しむような声が降り注ぐ。ソアラはそっと呼びかけた。

「……レイヴン」


 レイヴンは静かに微笑んだ。そして、ソアラにもたれていたはずの深鳥の体は、いつのまにかレイヴンに抱えられていた。ソアラは急に軽くなった両手を唖然と見る。

「この娘を囮にすればカイセイは必ず我々に従う。shelter、そう伝えるがいい。彼なら分かるはずだ」

「やめて!」

 すがろうとするが、体は動かない。

「レイヴン!!」

「このままでは、君は彼を取り戻せない」

「……!」

「得たいものは一致している。私は彼の記憶。君は彼の体。心は……葬ればいい。この娘と共にね」

 くすくすと笑いながら、レイヴンと深鳥の体は闇に溶けていく。

「私はいつも君の味方だ。ソアラ……」



 *



 20分後、快晴は同じ場所に戻ってきていた。

「……深鳥………」

 しかし、そこには誰もいなかった。引き返した道中、深鳥は見かけなかった。ゆらぎを抜け別のルートで帰ったのだろうか。以前、道はいくつか教えているはずだ。

 快晴は拳をぎゅっと握る。傷つけたまま置いてきてしまったことを悔やみ、しばらく立ちすくんでいたが、やがて顔を上げて踵を返し、再びゆらぎを抜けると、元いた森に深鳥を探しに行った。

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