暗示
*
明け方まで続くという祭を、結局ドクターと最後まで見物し、下宿に戻ったのは日が昇った後だった。
その日は昼から視察の予定が入っていたが、具合が悪いと言って一切をドクターに任せてしまった。汚泥のようなものが頭の中に沈着し、ソアラの思考を滞らせる。
『俺はチクラを離れられない』
『あの子があなたの帰る場所とでも?』
祭の晩の快晴の言葉を、眼差しを何度も反芻しては、涙が頬を伝う。疲れも手伝って微熱はあるかもしれなかった。
そうこうしている内にすっかり喉が渇いて、不本意ながらも起きようとした時。障子の隙間からドクターがひょっこり顔を出した。
視察の途中、様子を見にきたドクターは、まずソアラを座らせ、水を飲ませてくれた。汲んできたばかりの湧き水だと言う。冷たくまろやかで、後味がほんのり甘い。
『……おいしい』
水分が補われた分、なんだかまた泣けそうだった。悲しいのではなく、今度は嬉し涙で。
ソアラは息を吸い、吐いた。朝もやの中を歩いてくると、森の入口に、まだ淡い木漏れ日の当たる、ちょうどいい切株を見つけた。
手で濡れてないことを確認すると、腰を下ろし、しばらく時間をもて余した。
ふと思い立ち、滞在記録をプレビューで確認してみる。一日目の分は後からデータをもらい、ドクターに解説してもらったものだ。
チクラにはブナの原始林があり、ブナが雨水を貯え、浄化し、地上へ送り返す。言わば森全体が自然の浄水施設で、チクラの水が美味しい所以だ。
その水が湧き出て、広く滝状になっている所があり、その落差を利用して水力発電も行われているらしい。
二日目からソアラも加わり、那由他が運転する軽トラックの荷台に乗って、辺りの風景を楽しんだ。
マニュアル車なんてまだ使ってるのかと驚いたが、那由他自身はその操作が気に入っているらしい。昔の型を直し直し使っていて、しかも燃料が廃油。(リユースが徹底してる!)エンジン音はするけど、乗り心地は悪くない。
一番遠い風車から周り、天文台を森の向こうに見、折り返して棚田を見学する。風車は強風を利用した風力発電で、チクラの主な電力をまかなう。
天文台では宇宙観測の他にも、常に気象と外部からの放射線量の計測がされている。大変古い建物で、かつては有形文化財に指定されていたという。
棚田では米の改良に苦心したことや、今ではその苗を都市へ出荷し、利益を上げている話を聞いた。チクラの維持には欠かせない財源の一つだという。
三日目は徒歩でいくつかの家を訪問した。農作業の合間に、麻や木綿で作る民族衣装や、日用品をわらで器用に編む工程を見学する。
最後に下宿先で郷土料理がふるまわれた。ブナの実が特産で、米と一緒にふかしたり、そばという麺に織り込んだりする。
ソアラが気に入ったのは、実を炭火で煎ったもので、ほくほくと香ばしく、地酒にもぴったりと合う。
どこからか聞きつけたのか人が集まってきて、昼間から小さな宴会になってしまった。そこに、下宿先の娘を深鳥が尋ねてきた。顔は合わせていたが、話すのは初めてだった。
たどたどしい、聞き取るのが精一杯のような英語で彼女は尋ねてくる。
『快晴は、子供の頃どんなだった?』
『そうね、今と変わらない。ああ見えて寂しがりやなの。あなたは……どう思うの?』
『私も、そう思う』
そう言ってくったくなく笑う。
不思議な子だ。側にいるだけで心の奥からほぐれていくような、そんな安らぎを感じる。ただ、側にいるだけで……
外は小雨がぱらつき、肌寒かったが、家の中は人の体温で温かった。ソアラは自分がすっかり打ち解けていることに驚いた。ずっと前からここで暮らしているような、そんな気さえしてくるほどに。チクラの人は誰もが皆、良くしてくれた。
那由他も申し分のない案内をしてくれた。言葉の壁も彼のお陰でほとんど感じずに済んだ。
互いのことをもっと話してみたかった。そう思うことが自分でも意外だったけれど…
ーーもう、時間がない。
千久楽を離れる日の朝。ソアラは快晴を一人待っていた。決意を胸に秘めて。
快晴は辺りをうかがいながら現れた。
「悪い、遅くなーー」
言い終わらない内に、ソアラは快晴のシャツの袖を引っぱり、黙々と歩いていく。
二人は元いた場所からさらに奥…鳥の声が降る、入らずの森の中心に来た。すぐそこに進入禁止と思しき太縄が張り巡らされている。
「おい、これ以上は立入り……」
止めようとして、快晴は言葉を失う。ソアラが急に快晴を抱きしめたからだ。
「ソア……」
「あの時の約束、覚えてる?」
「約束?」
「大流星群の夜に交わした……まだ、果たしてないわ」
不可解な表情の快晴に、ソアラは溜息をつく。口を開きかけたその時、ふと移した視線の先に深鳥が見えた。
どうしてこんな所に。そう思った途端、ソアラの中で一つの考えが腑に落ちた。
ーーここで逢っているのね?
わざと快晴の胸に顔を押し付ける。深鳥はきょとんとして、ただ立ち尽くしている。ソアラは一瞬、思いつめた顔をしてーー
背伸びをしたソアラの唇が快晴の唇を塞ぐ。
「……、やめろ…」
絡まる腕を解き、快晴は身を引く。ソアラは悲しげに睨んだ。
「次に会う時はあなたからキスするって……忘れちゃったの?」
「……それは、おでこだろ」
「覚えてたのね?! そうよ、物覚えのいいあなたが忘れるわけないわ。知ってて知らぬ振り? 悪い人!」
目の前の体をニ、三度叩くと、ソアラは再び体を沈めた。
「私なら……あなたを満たしてあげられる」
「……」
「心も……体も」
ソアラのしなやかな腕が腰に回される。
「あの子は、子供よ。あなただって気付いてるんでしょ? ミドリはあなたを愛しているわけじゃない」
ソアラは目を閉じ、深く息を吸い込む。快晴の匂いが胸を満たす。陽射しと風と、朝露の入り混じる、穏やかで清々しい匂い。
「舞の時、あなたの心を垣間見た。……あの子の心も。ミドリはただパートナーとしてあなたを尊敬し、純粋に慕っているだけ」
ソアラは微笑む。快晴の鼓動を聴きながら。涙が頬を伝う。言葉は逆立ちをして一人歩きを始める。ソアラの心も踏みにじりながら。
「あの子は手のひらで大切に育てられた鳥。私たちとは違う。常に他者の温もりが不可欠なの。それをあなたは無償で提供するに過ぎない」
「もういい」
「そう、与えるだけよ。決して返ってはこない」
「離してくれ!」
勢いよく振り解く。快晴は我に返り、罰の悪い表情をする。ソアラは表情を堅くして、快晴を見つめる。
「……あなたは心のどこかで、本当は絶望してるの」
声が震えた。
「可哀想な人。近づくほどあなたは思い知るの。壊せないって。でもあなたの求めるものは、壊さないと手に入らない」
ソアラは強く、快晴の両腕をつかんだ。
「だから、あなたはミドリを閉じ込める。この手籠の中に!」
顔を背けたまま、快晴は動かない。
〝 いつまで…〟
快晴はびくっとする。自分の内側に、細波のように広がる声。
〝いつまで そうしていられる?〟
快晴はかすかに首をふるい、ゆっくりと後ずさる。その言葉は快晴の心、そのものだったのだ。
〝 あなたは怯えてる。あの子を壊してしまいそうなあなた自身に〟
「やめて……くれ…」
快晴は両手で額を覆う。汗が手のひらを濡らした。急速に体から血の気が引いていく。目の前がすぅと暗くなる。快晴は片膝をついた。
何かがおかしかった。自分の体と心が切り離されていくような、言いようのない不安。自分が存在するはずの世界との違和感。それはまるでレイヴンと対峙した時のように……
〝手籠の鳥はいつまでも生きられはしない〟
ソアラの言葉だけが冷たい雫となって、滴り落ちてくる。
〝ミドリを、あなたの手から解き放って…〟
宙を舞う、無数の羽。快晴の手のひらで、雪のように溶けて、消える。初めて深鳥と逢ったあの時、本当の夜が明けたのかもしれない。
差し出した手の中に感じた、確かな温もり。
ーーああ、温かい…
おそるおそる抱きとめる、少女の体。淡い春の陽のように、凍りついた体を溶かしていく。
側にいたいと素直に思った。そう思う度、本当は怖かった。怖くて仕方なかった。自分に向かってくる澄んだ眼差しを、その温もりを、全て失ってしまうかもしれないことを。
だったら求めなければいい。最初から手離せばいい。そうすれば……失うこともない。今までもそうして生きてきたはずなのに。
そんな当たり前のことを、忘れていた。親しい闇の底の冷たさを、深鳥の温もりの中で、忘れていたのだ。
不意に、ひとひらの羽が頬をかすめた。その羽の行く先にうずくまる、小さな影。
〝このままでいられないなら、いっそ…〟
幼いままの自分が、自分を見上げつぶやく。絶望に打ち拉がれた、涙に濡れた眼で。
〝終わらせてしまえばいいのに〟
失う悲しみを知る前に。
悲しいほど優しい夢から覚める前に。
どれくらいの時が経ったのか、ソアラにもよく分からなかった。
目の前で立ち上がる快晴に気づき、ソアラは固唾を飲んだ。
ソアラの方を一瞥もせず、風に背を押されるように、ふらりと快晴は歩き出した。ソアラはとっさに彼の袖を掴む。目が合う。しかし…その眼は何も映してはいなかった。
ーー見えない……!
ソアラはおののき、手を離す。大きく波打つ鼓動。反対に、小さくなっていく快晴の足音。
あの沈黙だった。初めて逢った時、彼を支配していたもの。全てを拒み、孤独にさらされ続けた、闇の色の心。
追いかけなくては。そう思うのに、体に力が入らない。
『心理……操作…?』
『そう、相手を自分の意に従わせる』
『そんなこと……私には』
『出来るよ。人の心を読み取れる君ならば』
いいえ。いいえ。そう呟きながらソアラは何度も首を振るった。耳に残るその声を否定するように。
快晴の心を捕らえ損ねた。それどころか。
ーー見失ってしまった……私は、私はどうして…
ソアラはその場にしゃがみこんだ。
ーー奪うしかできないの。ミドリのように、できないの。




