交錯
*
びゅん、びゅん、とすぐ側でカラスが飛び立つ気配。その中に一瞬、鈴の音が混じった気がしたが……
聡は目を閉じ耳を澄ませる。少し経って、中年の男が幕を上げ入ってきた。
「片付けご苦労さん。若、鈴が裏に落ちてっけど、これ女手のもんでねえか?」
聡はハッとする。深鳥の舞用の鈴だ。落として気付かないものではない。胸騒ぎがした。お礼を言うと、聡は作業を中断し、深鳥を探しにいった。
境内は全て確認した。しかし残っているのは大人の関係者と、ちらほら老人と幼子がいるくらいである。
集会所の中で休んでいるのかも知れない。きびすを返し、聡は目的地に向かう。
廊下を渡っていた時だった。前方から同様に足早に向かってくる音が聞こえ、聡は顔を上げた。
角を曲がり長い直線を歩いてくる。快晴だった。
はち合うと聡は深鳥の居場所を尋ねた。
「奥の間で寝てる。酒飲んでるから起きないと思う」
顎で示して、快晴はそっけなく通り過ぎる。その背中を聡はしばらく見つめていた。
障子を一寸ほど開け中を覗くと、深鳥が眠っていた。きちんと合わさった布団の中で安らかな寝息を立てている。何も変わった様子は無い。聡はホッと胸を撫で下ろした。
自分の取り越し苦労だった。そう思うと少し罰が悪い心地がする。何かにつけ快晴に疑ってかかってしまう自分がいる。ことさら深鳥のことになると不安で、悪い方に考えが向かってしまう。
ーーあの人が深鳥さんに何もしないと、どうして言える?
正直、分からなかった。快晴が本当はどういう人間で、何を考えているのかも。感情に乏しい表情は常に一切を明らかにしない。
聡は障子をそっと閉めると、元来た道を引き返した。
どこからか唄が聴こえてくる。円もたけなわ、祭の名残りを惜しむように、酔って心地よく、誰かが歌う唄。
「※なつか〜しき〜娘とばかり思ひしを〜いつか哀しき恋人と〜なる……」
祭の中の一段落着いたひととき、酔いしれて歌う老人、寄り掛かりうとうとする子供、大人の談笑。
ちらっと横目で見やり、歩幅の大きいその男は、黙々と前の背中を追いかける。
「待てよ」
篝火を背景に二つのシルエットが浮かぶ。羽織を脱ぐとひらりと肩に担ぎ、那由他は相手の数歩手前で足を止めた。
「戸締まりは、しっかりしろよ」
沈黙を背に、快晴は自分を見下ろす体躯をにらむ。
「悪ぃ、立ち見するつもりはなかったが、これ無くしちまってよ、取りに来た」
那由他は羽織を軽く上げる。
「一足違ってたら聡とかち合ってたぞ」
「……」
頑なな表情のままの快晴に、那由他は困った風に眉根を上げた。
「良く言って道連れ、悪く言えば共倒れか……まぁ、依存するなとは言わないさ。でもあの娘はちゃんとお前の気持ちを――」
風が声を掻き消すように那由他の羽織をはためかし始める。快晴の表情に惑いが浮ぶのを、那由他は見逃さなかった。
羽織を取りにいった時のこと。
集会所の廊下を歩きながら、那由他は思わず身震いする。
「う……さみぃ」
まだ秋の初めとはいえ、北国に位置する千久楽では朝晩は急に冷え込む。おまけに風が吹き荒ぶ土地で、その体感温度はさらに下がる。
確か羽織の予備が奥の間の手前にしまってあったはずだった。数歩歩いて止まる。部屋はまだ先だ。しかし、那由他はしばらくその場に留まり、今度はそろり、と足を運び出す。
ーー風だ。
それはある予感を伴って吹いてくる。通り過ぎる刹那、風が記憶した映像が那由他の脳裏にふわりと、浮かび上がる。
「……」
半信半疑だった。予感は結局、一瞬の映像を判断材料にその先を己が想像しているにすぎない、と思う。
過信などしたことはない。いつでも最後まで疑っているのは、他ならぬ自分自身なのだから。それでも確かめたくなるのが人の性なのか。
那由他は部屋の前に立ち、一寸開いた障子をのぞく。程なく、その場を後にした。
「羽織、宮司に借りるか……」
ふと溜息が漏れた、が、すぐに流される。風がさらさらと森を鳴らしていく。片手が額を覆う。指の合間からちょうど月が見える。だがその月は今、彼の杜若色の眼には映っていない。
風神を見送った後も、娘はその姿を想い舞い続けた。…それから? 娘はどうしたのだろう。舞い疲れて眠ったのだろうか。
続きは誰も知らない。那由他だけは知っている。
夢の中で、娘は風神に抱かれていた。…いや、風神に扮した人間に、だ。
快晴は那由他から視線を逸らし、自分の手のひらを見る。
「……見えてんだろ。風を読めるあんたには、この先も何もかも………知って傍観してんだろ」
何も無いはずのその手には、未だ絡まるうつぶし色の髪が見えた。
「もう………手後れだ」
ーー見えたって、どうにもならないことの方が多いのさ。
那由他は歩きながら舌打ちする。
「先に分かったって人の気持ちは変えられねえ。…ったく、お手上げだよ」
夜空を見上げるソアラの横顔を思い出す。
「一足違いでkiss & cryか。……いや、実際にはもっと離れていたかもしれねえ」
ふと足を止める。はるか上空の風が、星を激しく瞬かせた。
「運命てのは、どこまでも残酷だな」
森の奥には唄が響いていた。夜の空気に溶けるような、静かで幻想的な調べ。星はさんざめき、森は揺れる。世界はレンズの中で干渉し、屈折して、歪んだ像を結んでいた。
その中を誘われるように飛んでくる、黒と白、ニ羽で一対の渡ガラス。
「いい子ね」
左右の手でそれぞれの体を撫でると、ソアラは胸元のネックレスを外した。
『君のためなら、何でもしよう』
あの甘美な声が、耳の側で聴こえた気がした。
ソアラは自分の手が震えているのに気づく。心に忍び寄る影をかき消すように首を振るった。
ーー私は、大丈夫。
自分を見つめるつぶらな眼に微笑む。白いカラスの首にネックレスをかけると、カラス達は大きな羽音と共に飛び去っていった。ソアラは目眩を覚え、側にあった幹にもたれかかった。
「最後のチャンス、だったのにね」
ソアラは力なく笑い、風を防ぐように、那由他から借りた羽織に顔を埋めた。どことなく、彼の匂いが残っている。
『いつでも胸貸すぜ?』
なんだか憎たらしいような、那由他の笑みが浮かぶ。
吐き出すようにソアラも笑う。笑いたいのか、泣きたいのか、自分でも分からない。
『何かあったら私を呼びたまえ……』
耳に再び蘇る声。これは私の問題だ、とソアラは自分に言い聞かせる。黒いカラスなら「助けて」、白いカラスなら「大丈夫」の合図。……これでもう、助けは来ない。
結局、自分は何にもすがれない。でもきっと、これで良かったのだ。これからの行く先にどんな運命が待っていたとしても。
自身の手で終わらせる。それが、破滅への前奏曲だとしてもーー
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※懐かしき…竹久夢二「港屋風景」より




