工作
*
快晴の住む天文台は、墓地から間もない所にある。
快晴は深鳥を背負うと、夜目を頼りに森を抜けてきた。雲のとぎれとぎれに月の光が射すのがまだ幸いだった。
ひとまず居間のソファーに深鳥を寝かせる。快晴は短く息を吐いて隣のソファーに倒れこんだ。
普段ならなんてことない。しかし、衰弱した後の体は情けないくらい持たない。
これからどうする? と快晴は心の中で自問する。深鳥を帰らせなければならない。
しかし、起きないのだ。どうしたことか、さっきから何度呼びかけてもだめだった。今日に限って深鳥の眠りはあまりに深い。この千久楽の外れから、線路向こうの里まで抱えていけるだろうか? 快晴が眉をしかめた、その時。
リリリリリィン!
黒電話のベルが耳をつんざいた。飛び起きそうになったものの、快晴は再びソファーに沈み、片手で受話器を取った。
「……はい」
「幾生君!? 幾生君よね??」
この時間にしてはあまりの高音だ。しかも耳慣れない声。
「……そう、ですけど」
電話越しに、大きく息を吐き出す音がする。
「私、香芝。同じクラスの。分かるよね?」
「ああ、分かる」
「深鳥、どうしたの?」
「え?」
「一緒に居るんでしょ?」
少し考えて、快晴は答えた。
「俺が、具合悪くなって、あいつを今まで付き添わせた。それで、今眠ってて……全然起きないんだ。あいつの家まで抱えていくかどうか考えてた」
「あ…そうだったんだ……って、幾生くんも大丈夫?? 実はさ、うちに深鳥のお父さんから電話かかってきて、とっさに私のところに居ますって言っちゃったの。深鳥、今寝ちゃってて起きないって」
「……」
「ほら、深鳥って起きないでしょ~……てそうじゃなくて! 幾生君を追いかけるっていうからその…………気を利かせたと言うか……えとぉ…」
蒔の声が上ずっている。快晴は沈黙しながらも耳を少し赤くした。
「音沙汰無いから、昨日から1時間ごとにコールしてたんだよ。その…1時間ていうのは………邪魔…かなぁて……いや、それは置いといて……」
やや取り乱し気味の蒔に、快晴は先に気を取り直して(相手が混乱していると、かえって冷静になるものである)今度ははっきりした声で言った。
「今から、そっちに連れてく。どうすればいい?」
行灯越しに手を振る蒔が見えた。
彼女の家は町の中にある。ちょうど深鳥までの家までの半分の距離だ。町中では一番大きな農家で、高い屋敷林に囲まれ、玄関前だけでも相当広々としている。
立派な松が枝を広げ、果樹が幾つかあり、その向こうに納屋や飼育小屋、トラックが何台か止まっている。
母屋と離れの狭い間を抜け、少し周りこんで縁側に着いた。吠えかかった番犬に手をかざし、んしょ、と言って蒔は慣れた手つきで雨戸を開け始める。快晴も手伝おうとすると、
「ダイジョブ。これ古いからさ、コツ要るんだ」
二人は忍び足で廊下を歩き、数歩先の部屋に入った。
「ウチが平屋で良かったよ。しかも隣、空き部屋だしね」
蒔が小声で言うと、快晴は深鳥をゆっくりと布団に降ろした。深鳥の顔に被さる髪を指でそっとよけ、めくれていた布団を掛け直す。その一連の所作を、蒔はじっと見つめていた。
立ち上がると、快晴は一息ついて柱にもたれかかった。深鳥の感覚がまだ背中と腕に残る。柑橘の香りも――これでいい。これ以上一緒にいたら、きっともっと貪欲になる。
「幾生君、ちゃんと寝た方がいいよ? 深鳥、心配してた」
蒔がちらっと見ると、快晴は分かった、と言って長押の時計を見た。柱を離れ、足早に縁側に向かう。蒔は慌てて追いかけ、先に降りて犬を制した。
「色々……夜分に済まなかった」
「いいって。間人は間人同士、協力し合うのが習わし、でしょ?」
蒔は片目をつぶる。ふと表情を緩める快晴。
「あいつを頼む」
空の下の方が少し明るくなってきている。左耳がお辞儀している忠犬を撫でながら、蒔はほぅ、と溜息をつく。
「テツ、幾生君てあんな顔するんだ……」
蒔は快晴の背中を見送りながら一人呟いた。
「深鳥の魔法、かな……」
コチ、コチ、と規則正しく刻む音。母の菜実は、時計をさっきから気にしてばかりいる。
「あの子、本当に蒔ちゃんのお宅にいるって?」
「僕が聞いた限りだと。……ま、間人達は、大人の目を上手くかわすのが仕事のようなものだけど」
父の草治が肩をすくめる。
「もしも男の子と……あの幾生君て子と一緒にいたら?」
「大丈夫。君も見たろう? あの夜の花櫛を」
菜実はふぅ、と溜息をつく。
「……橘ね。あの子の部屋で一輪揺れてた。とても清々しい香りね」
あの歌垣の夜、帰ってきた深鳥の頭に花が挿してあった。菜実は何も聞かずに、遅いから寝なさいとだけ言った。
歌垣のことをいろいろ詮索するものではない。後で寝顔を見に行くと、深鳥は窓辺で頬杖をつき、小さな花に顔を近づけていた。菜実は急に深鳥を遠く感じ、声を掛けるのをやめて階下へ降りた。
「あの頃は……この子がみんなと同じように友達を作って、遊んで、勉強して……いつか誰かに恋をする、なんて思いもしなかった」
父の草治は肩掛けをそっと菜実にかける。
「いや、僕達は信じていた。でも不安だったし、心配だった。ずっとこのままだったらどうしようって」
「都市で……雨の降らない人工土の上で、ずっと千久楽に帰る日を思い描いていたわね」
雨に濡れる土の匂いも、そよ風に香る花も、触れるとみずみずしい若葉も……教えてあげたかった。
「あの子も大きくなった。僕達の手をそろそろ離れて、別の誰かの元へ行くのかもしれない」
「あなた……」
「深鳥を千久楽に連れていく。僕達の役目は終わった。あとはあの子がここでどう生きていくのか、そっと見守っていこう?」
*
雨の音で深鳥は目が覚ました。壁に叩きつけられ、樋を伝って落ちる、水の音。
――ここは、千久楽。たくさん雨が降る。
休みの日の朝、起きたての深鳥は廊下をそろそろと歩いてきた。居間に居た母と挨拶を交わすと、ガラス戸越しに外の風景を見た。
「深鳥、どうしたの?」
「千久楽ではお花や木に、毎日水をあげなくていいんだね」
菜実も円卓を拭いている手を止め、外を見た。
「そうね、自然の恵みがあるものね。人の管理はささいなものよ」
縁側の先には葉を滴らせ、気持ち良さそうに水浴びをするカキの木が見える。
――何もかも、都市とは違うんだ。
朝食後、深鳥は二階にある自分の部屋に戻ると、窓際の机に座り、頬杖をついて外をじっと見た。窓から見える風景は、日が昇っても薄暗いまま、雲が一面に重く垂れ込めている。風雨に稲穂の波がそよいでいるのが見える。時折、雨粒がパラパラと窓に当る。
この窓が深鳥は好きだった。古い木枠にはめられたガラスは常に、風でカタカタと小さな音を立てるけれど、さして気にならず、逆に風が吹いていることを実感させる。東南の向きで、夜明けの様は素晴らしく、カーテンの隙間から漏れる光で、目覚めることのなんと気持ちの良いことか。
季節の移ろいもありありと分かる。風の匂いが日によって変わることも深鳥には新鮮だった。雨上がりの朝のとびきり美味しい空気を吸うと、心が満たされることも覚えた。
深鳥はよく思い出す。前にいた都市のこと……そこには千久楽のように、無造作に伸びる木も雑草の生い茂る原っぱもない。あるのは粒ぞろいの木々と、中心にそびえ立つ、一つの巨大な世界樹――
一度は壊れかけた世界に再建されたシェルター都市は、整然とデザインされた、美しい街だった。




