名を問うこと
深鳥が目の前でそーっと手を揺らす。快晴は我に返ると、肩の手をどけて罰が悪そうに呟いた。
「……悪い」
深鳥が二重に見える。快晴は右手で額をおさえた。さっき飲んだお酒が回ってしまったようだ。
――那由他、何混ぜたんだよ……
「本当に大丈夫? 少し紅い……」
そう言って、深鳥は快晴の頬に触れた。瞬間、快晴の右手は反射的に深鳥の手を払いのけていた。しまったと快晴は深鳥の方を見たが……大丈夫なようである。
「……で、なんでこんな所にいるんだ?」
「聡君を探してて……」
「もっと人の多い道通ればいいだろ。こんな森の近くで……浴衣なんか着てるから余計目につくんだよ」
快晴はムスッとして言った。
「今夜は歌垣だ。野郎達が名前聞き出すのに必死だから、浮かれてないで気をつけろ」
そう念を押してから、前を歩こうとする快晴の手首を深鳥が掴む。
「……どうして名前を言っちゃいけないの? 歌垣って何? 快晴は知ってるの?」
必死な眼をする深鳥に少々面喰らう快晴。
「お前、本当に何も知らないのか……とにかく、今夜はもう名前は口にするな」
スタスタスタ……トコトコトコ……
腑に落ちないのか、深鳥は歩きながら考えを巡らせる。そしてあることに気づき、はたと立ち止まった。
「快晴も?」
「え?」
快晴も止まり、振り返る。
「そしたら私も……快晴の名前も呼んじゃ駄目だよね? ……あ」
深鳥はとっさに両手で自分の口を塞いだ。
「……もう呼んでるだろ」
快晴が呆れたように突っ込む。
そもそも、歌垣に参加していない自分には関係ない、と快晴は思う。
「別に、今さら」
「!」
深鳥はホッと胸をなで下ろしてから言った。
「じゃあ、私も!」
快晴は訝しげに深鳥の顔を見る。
「快晴の名前呼ぶ代わりに、私も名前呼んでね? おあいこ」
「……」
こいつ分かってんのか? と快晴は心の中で呟く。どうも噛み合わない。
快晴は踵を返す。
「そんなことより、早くここを出るぞ」
「でも、私だけ呼ぶなんて……蒔ちゃんだって呼び捨てだし。ね? だから快晴も」
行こうとする快晴の腕を深鳥は再び掴む。しかし――
「誰が呼ぶかよ!」
快晴に強く手を解かれ、深鳥は後ろにバランスを崩した。快晴はとっさにその細い腕を引き戻す。深鳥は動かない。影で表情が見えない。……泣いている?
深鳥の顔にかかる髪を快晴はどけようとした。が、寸前で手が止まる。そしてそのままその手を引っ込めた。さっきからなぜかイライラしている。それは深鳥に対してなのか、それとも自分に対してなのか。いつもと違い冷静でいられない自分がいる。快晴は息を吐いた。
「俺は男だから別に……でもお前は――」
言いかけて、快晴は言葉を失った。目の前にいた深鳥の姿を、今ようやく認識したのだった。
紛れもなく、傍らに立っているのは、今夜一晩のために飾り立てられた少女だった。よそ行きの華やかな衣を重ね、頭には丁寧に手彫られた漆の櫛を挿す。
古の世であれば、歌垣の場に見染めた相手がいた場合、男は女に櫛を贈って名前を問う。――それが妻問いと呼ばれる風習で、女が櫛を受け取って名前を明かすなら、二人は晴れて恋人となり、その後一晩を共に過ごしたりした。
いつの間にか時代が下ると、歌垣に行く者達は事前に約束を交わすようになった。櫛があらかじめ目当ての女に贈られ、当日その女が櫛を付けていれば〈見込みあり〉で、男は意を決し、いよいよ妻問いに臨む。
古と今、多少の違いこそあれ、櫛は〈承諾〉の証と言えるのだ。
「お前は……?」
深鳥が覗き込む。快晴は視線をずらした。
「……お前は、女だろ。男が女に名を問うのが歌垣なんだから、女は安易に名をさらすもんじゃないんだ」
「どうして名を問うの?」
「どうしてって……決まってんだろ」
首をふる深鳥。
「分からない。だって誰も教えてくれない。蒔ちゃんも、お母さんも、聡君のお母さんも。聡君は知ってたの? どうしてみんな教えてくれないの?」
風が髪をかき乱す。木のざわめきが止むと共に、深鳥は快晴の言葉を待つ。
「……口には出せない事だからだよ」
深鳥はきょとんとする。
「暗黙の了解、と言っても通じないよな」
チラっと深鳥を見やり、快晴は一つ溜息をついた。
「男は女を一人占めするために名を問う。名を明かすことはそれを許すことだ。歌垣は一年に一度、その機会を与える」
深鳥はきょとんとした。
「ヒトリ、ジメ……?」
「……」
しばしの沈黙。
「その櫛……」
快晴は深鳥の髪に挿してある櫛に目を向けた。
「これ? 聡君からもらったの。キレイでしょう? でね、この髪は聡君のお母さんが――」
嬉しそうに話す深鳥の髪が、急にするりと解けた。
「あ……」
コン、と櫛が足元の石に当たる音がした。
「どう……して……こんなこと……?」
深鳥の声が弱々しく問い掛ける。その悲しそうな顔を見て、快晴は自分のしたことに気付いた。
「……お前、聡のこと好きなのか?」
深鳥はこくんと頷く。その即答ぶりに快晴はむっとして問い正した。
「じゃあ、あいつと恋人になりたいのか?」
「コイビト……?」
深鳥は驚いたように顔を上げ、快晴を見た。
「私はただ……聡君と祭を回ろうって」
そんなことだろうと、快晴は溜息をついた。
「歌垣も知らないのに着飾って、こんなの付けて……………場違いだ」
快晴は吐き捨てるように言った。
深鳥の眼にじわりと涙がにじむ。深鳥には快晴の言葉の意味がよく分からなかった。けれども、いつものようにそれを尋ねることが出来なかった。
水面のように揺れる世界。涙がぽたぽたと落ちては土に吸い込まれていく。深鳥が涙を拭おうとしたその時――目の前に快晴が立った。
快晴の手がぎこちなく頭に触れる。
「言い過ぎた」
気まずそう呟くと、快晴は深鳥の髪を直し始めた。一つ、また一つ、髪の絡まりが解かれていく。深鳥は動けずにいた。快晴の指が髪を通り抜けていくのを、目を閉じ、ただ感じていた。
*
宮司は快晴を探して森まで来ていた。
「おーい、快せ――&?×%……」
突然、背後から口を塞がれ、宮司は慌てて後ろを見る。
「☆※◇¥@!?」
「シー……今いいところなんだからさ」
那由他の視線の先、木々の隙間から快晴と深鳥の姿を見つけ、宮司の顔が曇った。那由他を見る。
「二人はもしかして……」
「ま……自覚はないかもな」
那由他ははぐらかすように視線を戻した。
快晴が最後の後継かもしれないと宮司は以前、那由他から快晴の抜擢と共に聞いた。
最後――それはつまり、快晴は誰を選ぶこともなく、悠久の時を永らえてきた千久楽が、一つの終焉を迎えることを意味する。那由他はあくまでも予感だからと笑っていたが、彼の予感は予知に匹敵することを周囲の誰もが知っている。
それが本当にやって来るのか、そうであればどういう形で訪れるのかは分からない。ただ、その時に快晴が居合わせるという偶然が、ずっと必然であるように思えてならなかった。
だが宮司は……この千久楽の杜の宮司である以上、その終わりを待つことなど出来ない。快晴の後継探しを静かに、祈るような気持ちで見守ってきた。
快晴はようやく形代を深鳥に渡した。その選出は、宮司にとっていささか意外であった。
なぜ? などといちいち理由を尋ねたりはしない。理由などなく、後継たちは代々直感で相手を選んでいる。自身もかつて後継を務めた時はそうしたと思う。そこにはいかなる理由も、感情も存在しない……はずだ。まして快晴が中途半端に選ぶようなことはしないと宮司自身が一番よく分かっている。なのに、この拭いきれない不安は何なのか。
出逢ったばかりの深鳥に……わずかな鋭ささえ持たないあの花のような少女に、快晴は何を見い出したのだろう。彼は本当に後継を選んだのだろうか?
宮司の不安そうな眼を見て、那由他は言った。
「見守ってくれないかな、あいつらを」
「那由他……」
「一人を選ぶことはそいつが特別な存在ということ。それが……慕うことと紙一重であってもおかしくはない。そうは思わないか?」
宮司は黙って那由他の話に耳を傾けている。
「後継だった時、俺はそう思ってた。紫野は……俺に対してそうはならなかったけど、少なくとも俺は、快晴が男じゃなかったら自分の女にしてたんじゃねーかって思うくらい、実はあいつを見込んでんだ」
宮司の戸惑いの視線を受けて、那由他はコホンと咳払いする。
「それは言葉のあやとして……あ、俺ノーマルね」
申し開きしてから那由他は続ける。
「あいつは何も望まない、掴もうとしない。生きること自体に欲が無いんだ。誰も……俺でさえ手に負えない。けど、あの娘ならあいつを繋ぎ止められるような気がする」
「……そうか」
一言、当たり障りのない返事しか出来なかった。宮司の頭の中には、今朝の嬉しそうな聡の姿が浮かんでいたのだ。
那由他はあくびをしながら背を向け歩き出した。
「行こう宮司。これ以上の見物は野暮だ」




