歌垣の夜
「あれぇ宮森君、深鳥は?」
蒔が駆け寄ると、聡は虚ろな目で見上げた。
「ひ、ひぃ……どーしたの? 何だか暗雲が立ち込めて――あれ、深鳥は?」
聡は力なく頭を下げて、事情を説明した。
「見失った?!」
「すみません……ほんと、自分が情けない……」
蒔は肩を竦める。
「この混雑じゃね。ま、この狭い敷地ならすぐ見つかるよ。森にでも行かない限り――」
聡の顔が硬直するのを見て、蒔は慌ててフォローした。
「ないない! 心配ないって! ほら、私も一緒に探すからさ~。ね、ね!?」
篝火の向こう、舞庭には黒面の神が舞っている。それを静かな表情で見守る少女がいた。ひときわ艶やかな浴衣姿が誰の目にも留まるのは明らかだ。
「然青姉……」
足を止め、聡は呟く。
然青は昨年までのことを思い出していた。
歌垣があることで参加は任意だった夏の奉納舞。なのに然青が毎年出ていたのは快晴の側にいるためだった。歌垣の場に快晴は決して顔を見せなかったから。
今年は舞庭の外にいる自分。もう近付けないという疎外感が全身を満たしていく。炎に照らされた然青の横顔が憂いを帯びる。
「衣川さん、何だか寂しそうだね」
おもむろに蒔がつぶやくと、聡は声低く答えた。
「然青姉は……代理だけど、あの人のことをいつも側で見守ってた。それさえ何とも思わない……冷たいですよ、幾生さんは」
先程と違い、聡の険しい顔を見て蒔は返す言葉が見つからなかった。
――だいぶ混線してるわ……
舞を終え、快晴は神社の廊下を歩いていた。那由他の言葉が耳を障る。
『名前の禁忌って知ってるか?』
舞が始まる前、幕の裏に来た快晴を那由他が退屈そうに待っていた。快晴は一瞬眉をひそめたが、構わず準備し始める。
『けっ、感じ悪ぃ奴だな。俺は裏方を正式に頼まれてんだ。ったく、神輿にしろ舞台裏にしろ忙しくて仕方ねえ。……で、知ってるのか知らねえのか』
那由他の再三の問いかけに、快晴は面倒そうに応じる。
『本当の名を親しい者以外に明かさない……大昔の話だろ』
『だいぶ緩くなったけど今でもあるんだぜ。クンもチャンもつけないでまんまで呼べる。それだけで互いの距離が近くなるもんだ。参加する意義、あるだろ?』
快晴は手を止め、那由他を睨みつける。
『何が言いたい?』
『後ろ髪引かれる思いのお前に、最後の忠告だよ』
『……』
『放棄するのか? 年に一度のハレの夜を。いい加減にしねえと深鳥ちゃん誰かに取られちまうぞ』
『……もう、舞が始まる』
那由他はフン、と鼻で笑う。
『お前にしちゃ熱心なこった……逸らすなよ。こっちは真面目に言ってんだ。お前を想ってな』
快晴は溜息をついた。
『あほか』
行こうとする快晴の前を、那由他は片足で遮る。
『なぁ、簡単じゃねーか。ただ名を問えばいい。あの娘なら疑うこともなく答えんだろ。あとは……お前が好きなように一人占めしろよ』
那由他の足を乱暴にどけると、快晴は幕の外へ……舞庭へと踏み出した。
廊下の終わりに近付いた時、ぴたと快晴の足が止まる。
「ーー」「ーー」
生垣の向こう、少し離れた所から何か話し声が聞こえる。
――何だ?
歌垣の場所は森の……もっと奥のはずだ。灯りも無く、人のいないこの辺りでは変だ。
「……」
快晴は静かに下へ降りると、生垣の影にそっと身を潜めた。
突然の歌掛けに深鳥は答えられないでいた。がやがやと何人かが笑う。
「おい、お前の歌が下手なんだよ。返したくても返せねーよ、なあ?」
見た目からしておそらく、男子高生のグループの一人が顔を近づける。深鳥は自ずと後ずさる。
「……あの、私こそ歌作るの出来なくて……」
「ふぅん、君優しいねぇ。いーよ、それよりさ、君の名前は?」
「?」
「な・ま・え。それなら答えられるよね?」
深鳥はうなずくと、答えようと口を開きかけた。その時……深鳥の代わりに答える声があった。
×× ××× ××××…
その場にいた全員顔を見合わせた。
「……今、何か言ったか?」
「いや……空耳じゃね?」
「バッカ! みんな聴こえてるのに空耳なわけねーだろ」
「まさか、今の声……君?」
そう聞かれ、深鳥はふるふると首を振る。
××× × ×× × …
次の瞬間、その場にいた全員に木枯らしのような冷たさがよぎる。
「なんで夏なのにこんな風が吹くんだ?」
「何だよ、これ!」
男子高生らが慌てふためく中、ふわふわと淡い光が辺りをかすめていく。夜の闇に舞う螢火のようにも見える――深鳥はそれが綿毛であることを知った。耳にはくすくすと小さなおしゃべりが聴こえてくる。
「タンポポ達……?」
「おい、あれ」
男子高生が指差した先には、ぼんやりと人の姿が浮かび上がる。淡白いヴェールに身を包み、静かにこっちを見ているように。
「……ひっ…」
「出た、出たぁ!」
彼らは深鳥を残して一目散に逃げていった。深鳥も逃げようとしたが体が動かなかった。その人は足音も無く、ゆっくり近付いてくる。深鳥はびくっと体をこわばらせた。
――ユウレイ……?
目を閉じることも、声をあげることも叶わない。怖いものの類いが大の苦手な深鳥にとって、震える以外もはやなす術が無かった。その人がやがて深鳥の前に来ると、おぼろげだった輪郭がはっきりと見えてきた。
不気味とも思える黒面、縁取る朱の刺青……面から生える木枝のような双角、たてがみのような白い簓。……紛れもなく、風花祭で見た風神の装束だ。
「……快晴なの?」
深鳥の問いかけに、目の前の神は無言で面を外した。現れたのは無造作な白銀の髪、深く青い眼。そして……見覚えのある、風貌。
「あなたは――」
呼びかけようとして、その名を失ってしまったことに気づく。
深鳥は吸い込まれるようにその眼を見つめた。記憶に封をされてしまったように、どうしても思い出せない。なのに、ただただその眼差しが懐かしいと思ったのだ。
×× ××× ××××…
深鳥の眼に戸惑いが揺れる。その言葉は、舞の時にうたう古語の響きに似ていると思った。意味は解らないものの、それが歌であることは分かった。
寂しそうに微笑むと、その人は屈んで深鳥の頬に手を延ばした。触れているはずのその手の感触を、どうしてか感じることが出来ない。ただ目を丸くする深鳥に、その人はゆっくりと顔を近づけ、目を閉じる。
ヒュッ、と何かが目の前をかすめる音がした。近くのブナの幹に当って弾け飛ぶと、深鳥の足下に転がった。小枝だった。深鳥が向き直ると、目の前のその顔には傷一つ無かった。小枝はその人をすり抜けたのだ。
「……そいつに触れるな」
深鳥は聴き慣れた声の方を見る。
「快晴!」
ようやく声が出たのと同時に、体の力が抜ける。深鳥はそのままぺたりと座りこんだ。
「お前は――」
快晴の問いかけを遮るように、風が瞬時に駆け抜ける。高みでさわさわとブナがさやいだ。その一瞬の静寂の後、突如嵐のような風が起こる。快晴と深鳥は同時に目をつぶった。
ゆっくりと宙を漂う葉を手で除けながら、快晴はうっすらと片目を開ける。
スローモーションのように流れる時の中、振り向くその顔の頰にはくっきりと浮かぶ流紋があった。忘れかけていた記憶のパズルが快晴の頭の中で一つに合わさる。
――あの時の……
幼い頃に垣間見た……後ろ姿がどこか父さんに似ていた。覚えている。その白銀の髪と澄んだ青い眼を持つ人……いや、人ならぬ者を。
「…せい……快晴?」
「!」
気が付くと、深鳥が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫? 快晴ずっと動かないんだもん。すごい汗……」
快晴は辺りを見渡した。
――いない。
突然、快晴は深鳥の両肩を強く掴んだ。
「お前、あいつの顔見たか?」
コク、コクと頷く深鳥。
「どんな顔だった?」
普段とは違う快晴の様子にたじろぐ深鳥。快晴が眉をひそめると、慌てて首を横に振る。
「……覚えてない。でも、男の人だった気がする」
しゅんとする深鳥をよそに、快晴は再び過去の記憶を辿っていく。
幼い時に見た時もそうだった。後で思い出そうとしても、なぜか顔だけがのっぺらぼうなのだ。それ以外は覚えているのに。美しい白銀の髪と空のような青い眼、そして千久楽の伝統衣装でもある刺繍衣をまとって……
「その方はぁ髪さ真ぁ白で、里のみなこう呼んどった」
急に風の向きが変わったのか、木々の向こうから語り部の老婆の声が流れ込んできた。快晴は深鳥の肩を掴んだままそっちの方を見る。深鳥も目を向けた。
「×……」
語り部が口にひとさし指を当て息を出すのが見える。子供たちも真似をしている。風の音……それが千久楽における風の神の名だったことを、快晴は思い出した。
語り部の声が淡々と、降っては沈んでゆく。夏祭りの夜にまどろみながら聴く神代の物語。その声は不思議といつも眠りを誘う。最後まで聴けた子供など誰一人いない。
「いづも森におってな。その顔さ見ても、だぁれも覚えとらんと……」
快晴は、今度は森の奥深くの闇に目を凝らした。
――あれは…………風の神だったのか?
「ねーねー、なゆた兄は見たことある?」
うつらうつらしていた那由他は、ひざの上に座る子供の問いかけに、ぼんやりとしたままだった。
「もぉ、聞いてなかったでしょ。あのね、」
「バーカ……俺はガキの頃から何十回と聴かされてんだよ。聴いてなくても分かるさ」
那由他は咳払いをする。
「歌垣でな、たっぐさんの若者が集うその片隅で、あの方は若い男子の姿で見初めた女子に妻問うんだ……」
那由他がしわがれた声で真似ると、周囲の子供がきゃっきゃと笑った。
「まぁ、俺がガキの頃は忍び込んだり、大きくなって歌垣にも行ったけど、そんな奴見たことねーな」
「えーー……」
子供達の抗議するような目に那由他はうししと笑う。
「なんなら今から確かめてくっか? ほら、将来役に立つ――」
「那由他! くんだらねえこと言ってねで、宮司さとっとと探してこい!」
語り部の婆さまが後ろからぴしゃりと言い放つ。
へいへい、と言って膝上の子供を下ろし、立ち上がろうとする那由他に、さっきから何する事なく座っていた老人が思いついたように呼び止めた。
「那由他おめえは? 誰かいい娘っこいねえのが?」
那由他はとっさに弁解をした。
「……え? ああ………俺はまあ、しばらく自由でいたいからさ」
半笑いでその場を後にすると、しばらくして那由他は足を止めた。
「……いい風だな」
風は森の奥から吹いてくる。絶えず強く、時に弱く。上空を雲が駆ける今夜の風はやや荒れているが、那由他にとってはこれくらいが心地良い。
妻問い唄……古の言葉で歌われたという。そんな唄、もう誰も歌わない。歌えない。風と語らうことも――語らえた女はもう、ここにはいないのだから。




