対決
*
「快晴――」
タッタッと小走りして深鳥はやっと快晴に追いついた。
「悪かったな」
快晴はちらっと深鳥の顔を見て形代を渡すと、またすぐに歩き出した。
スタスタスタ……トコトコトコ……
「何だ?」
ついてくる足音に快晴が振り向くと、深鳥が形代を差し出していた。
「これ」
「……」
「やっぱり私……持ってない方がいい」
快晴は黙ったまま、しばらく深鳥の様子を伺った。
「何か……言われたのか?」
「形代を受け取る意味って?」
深鳥の問いに、快晴は意表をつかれたような表情をする。
「そういう習わしなんだ。俺も那由他からもらった」
「舞手だから?」
「そう」
深鳥は必死な眼差しで見つめた。
「何も分かってないって、衣川さん言ってた」
「……分かってない?」
「資格がないって」
形代を差し出したまま、深鳥が俯いて言った。
「ごめんなさい……私のせいで手を……試合も」
快晴の左手に包帯が巻かれているのを見つけ、深鳥はそれ以上何も言えずに黙り込んでしまう。
少し考えてから、快晴は小さな手のひらから形代を掴み取ると、口と右手をうまく使って、切れたままの糸の両端を揃えて硬く結び、深鳥の首に掛け直した。ぽかんと深鳥は快晴を見上げた。
「心配される程やわじゃねー……試合は自分が力不足だっただけだ。それにもう決めた。資格がこれだ」
快晴の指先が胸元の形代に触れる。光を通さない勾玉は乳白色のままだ。
指を離すと、快晴はまた歩き出した。遠ざかるその背中を見えなくなるまで見守ると、深鳥は勾玉を掬い上げ、光にかざした。
*
田んぼはすっかり苗で埋め尽くされている。まだ短い緑の葉が風にそよぐ。ほとんどの農家が田植えを終え、足並みを揃えたようだ。
夕方、人通りの少ない畦道を老人が一人、腰をかがめて歩いている。奇妙な形の影が足下に突然落ちると、老人は不思議そうに見上げ……たちまちぎょっとして立ち止まった。そしてしばらくの間、珍しそうにその影を見送った。
そんなことには一切気付かずに、影の主はどんどん歩を進める。そして神社の入り口も通り過ぎて、回り込んだその先の林に姿を消した。
とにかく、この辺は木はブナが多い。神社のある高台を中心にブナの原始林が広がる。全て保護林のため、切られる心配もなく、木々は伸び伸びとその葉を広げていた。
影の主は開けた場所に出ると、かついでいた大きな荷物をゆっくり降ろした。目の前には切り立った土の壁があり、何層も重なるきれいな断面が見える。
「お前から呼び出すなんて、どういう風の吹き回しだ?」
那由他はかついだ方の腕をさすりながら言った。
「これでも、今日はお使いの途中なんだ。さっさと頼むぜ」
壁にもたれ待っていた快晴は、カバンを置いたまま那由他の方に歩いて行く。
「聞きたいことがある」
那由他は目を細めた。
「然青か? あいつにいろいろ言って聞かせたから、祭でもうあんないたずらしないだろーが……しょぼんとしてたからな。あとはお前がフォローしろよ」
無表情に見つめてくる眼に那由他はたじろぐ。
「……違うか」
快晴がようやく口を開いた。
「……あんた、形代について何か言い忘れてないか?」
那由他は頬をかく。
「ああ…まあ言いそびれてたんだ。悪気はないぜ。ただ……」
那由他はちらっと横目で快晴を見ると、持て余していた手を頭の後ろで組んだ。
「……言えよ」
微かないらだちが快晴の声にこもる。那由他は首を振った。
「今のお前に言っても分かるかどうか。飲み込めなきゃ、言っても仕方ないーー」
言い終わらないうちに、快晴が勢いよく那由他の胸ぐらを掴んだ。
「見くびるなよ」
互いに睨み合う。那由他がふっと笑った、その瞬間。快晴のシャツを掴んで、那由他は片手でねじり上げた。快晴の足がゆっくりと地面から離れる。
「…………っ」
那由他は不敵な笑みを浮かべる。
「何だ? その口のきき方は?」
「~~~~」
「一応お前より7つ上だぜ。俺から見りゃひよっこだ。かわいい、かわいいな」
快晴はもがくとその勢いで那由他の溝落ちに膝で蹴り込んだ。襟を塞ぐ手が緩んだかと思った途端、快晴は技をかけられて地面に投げられた。ジャッと土が擦れる音がする。腕を庇いながら快晴はなんとか受け身をとった。
「くそ――」
すぐに起き上がろうとしたが、那由他は快晴を押さえ付けて地面に叩き付ける。
「!」
「少しは手応えあるな。身長、伸びて良かったなぁ」
乗りかかってくる巨体はあがいてもびくともしない。
「……っの……どけよ!」
快晴は渾身の力で目の前の頬を殴りつける。勢いでそむいた顔をゆっくりと元に戻す、那由他の冷めた眼差し。
お返しに、那由他は優位な体勢で快晴を殴り返した。口を切ったために、血が気管に入り快晴がむせると、血が地面に飛び散った。
お構いなしに、那由他は快晴の髪を掴むと、持ち上げて自分を見させた。その敵意に満ちた眼差しを見、那由他は口の端に笑みを浮かべた。そして快晴の左手を膝で踏み付けた。
「!!」
声にならない叫びが辺りに響く。快晴の眼が見開く。けらけらと笑いながら、那由他は膝でぐいぐいと体重をかける。快晴の体からみるみる脂汗が吹き出した。
「や、めろ……」
「あーら思ったより重傷じゃない。包帯も取って平気なフリしちゃうなんて、快晴ったら。……あの娘の手前、言えねーよなぁ」
那由他はおかしそうに額を覆う。快晴の表情が苦痛に歪んだ。
「改めて聞こう。どういうつもりだ? なぜあの娘に形代を渡した?」
那由他は間近に快晴を見る。
「別に……ただ」
けほ、けほと咳込みながら、かすれた声で快晴は言った。
「あいつが、あの石を気に入ったから、やった。……あんなの惜しくも何ともない」
那由他はしれっとした顔をする。
「そんな理由か? 然青には渡さなかったのに?」
「……」
「ふぅん」
快晴の体から離れると、那由他は傍らの荷物を立て、紐を解き始めた。快晴は腕を押さえると目を閉じ、息を吐いた。
「言ったはずだ。お前が見い出した者に渡せ、と。代理ならいくらでも立てられる。お前はいい加減な選択はしない。そう知ってたから全てを超短で任せたんだ」
「……」
「答える気、無しか」
紐がほどけると共に包んでいた布が開く。御神刀が現れた。
「心外だな。結果的にお前は深鳥ちゃんを巻き込むことになる。それは俺の責任でもある。まだ来たばかりの、この里のことを何も知らない……知らなくていいはずの娘を」
那由他は柄を掴むと、瞬く間に快晴の眉間にその切っ先を向けた。
「――」
「お前は前から口数が少なかったが……今回ばかりはだんまりは許さねぇ。きちんと答えな」
快晴はふと息をついた。
「巻き込む? あいつはそんなの何も考えちゃいない。舞だって楽しそうにやってる……無邪気な子供だよ。そもそも、子供を尊ぶ小さな里の祭なんだ。それで十分だろ」
「……子供、ねぇ」
繰り返すと、那由他は苦笑した。
「確かに好都合かもしれないな。まぁ、案外お前になついてることだし、面倒みて〈紫の上〉にでもしたら?」
「……訳わかんねー」
「古典、一応勉強しとけ」
ニヤリと笑う那由他を、快晴は強く睨みつける。
「何をそんなにこだわる? 里の祭一つ、……たかがあんな勾玉一つに」
「世の中そう簡単じゃないんだよ。なぁ快晴」
強い風が通り抜ける。葉が渦を巻きながら、空へ舞い上がる。
「この里を、千久楽を維持していくのにどれだけの労力を費やすか……お前は知ってるか? 風を絶やしたくない、その一心なんだ。そのために祭は欠かせない。大人達は少なくともそう思っている。いや、そう思いたい、何かにすがりたいんだ。年寄りになるほど必死なんだ。なまじ、以前の世界を知ってるばかりに。すぐそこまで迫っている現実を恐れてる。どんなに科学が進歩しようが、人は案外進歩しない。古い慣習を捨てられないもんだ」
不意に揺れる切っ先が、快晴の前髪をもて遊ぶ。
「なのに、だ。お前は易々、あの娘に形代を放り投げるような真似をする」
快晴は辛辣に言った。
「大人になると心配事が増えて大変だな」
那由他の目が凄む。
「てめぇって奴は。ったく、いくつになっても……それこそ子供だな。協調性のカケラもない。他人の心の機微も、己のことさえまるで分からない」
「あんたこそ……いつからそんな行儀よくなったんだよ!」
「前にも言ったろ。俺は風の流れに従ってるだけさ。まぁ、縛られてるとも言えるけど」
「……」
「たかが風、されど…さ。恵みもするし祟りもする。この土地を統べる、見えない力にお前も気付いてる。だから祭の時も挑発しただろ? 風を誘うために、あんなことまでして」
快晴は血混じりの唾を吐いた。
「神なんか……もういない。俺は、あんたみたいに怯えてない」
「俺には……俺の守るべきものがある」
そう言った那由他の眼は、思いがけなく真剣だった。
「……へぇ?」
快晴が歪んだ笑みを漏らした時だった。那由他の手が弛んだ。
刀の先が地面に散らばる髪を割き、音も無く土に吸い込まれた。快晴は瞬き一つせずに、那由他を見上げている。
「……と、危ね。修復したばっかの刀がお前の血で汚れちまう」
那由他は突き刺さった刀に手を伸ばそうとする。傍らで快晴がふ、と息を漏らした。
「あんたは手加減しかしないんだな」
「あ? 本気出して欲しいのか? 死ぬぞ」
快晴は口の端だけに笑みを浮かべる。
「出せよ。手加減が要るガキじゃない」
那由他は柄を握る手に力を込める。
「そんなに死にてーなら、これでひと思いに殺してやろうか」
快晴も傍らの刀を見る。
「殺りてーなら、殺れよ」
視線が鋭くぶつかり合う。吸い込まれるように深い。それでいて淀みなく、澄んだ眼差し。だからこそ快晴を選んだ。……そして恐れもした。この眼が秘めるものに。言葉に表せない感覚だった。それでも那由他は言葉を探す。
強いて言うなら〈空間〉かもしれない。冷たく静かな、虚無。その境界を常に渡り歩き、いつでも越えられる。そういう危うさを4年前も感じてはいなかったか。
「前々から気になってたが、お前――」
「……?」
「いや、愚問だ。お前の望みは俺が本気を出すことだったよな」
那由他は刀を地面から引き抜き、再び掲げた。




