花旋風(はなつむじ)
カラン、カララン……風神の角と黒面が舞庭の上を滑った。止まっていた時間が動きだす。
布のはためく音がして深鳥は目を開けた。視界が薄暗い。
「怪我、ないか?」
その小さく問う声で深鳥は我に返る。そして自分の体が舞庭の隅でしっかりと支えられていることに気付いた。それから快晴の体の重みも。
人々のどよめきが耳に届く。深鳥が起き上がろうとすると快晴がそれを制した。そして再び腕の中に引き込まれる。
「ここからは俺の言う通りにする。……いいか?」
息の温度を感じるほど快晴の顔が近くにあるのを知って、深鳥はなぜか息を潜めてしまう。快晴の言葉に耳を傾ける間に、視界の隅をちらちらと花びらが散っていった。いくつもいくつも。白く……まるで花の雪が降るように。
「何とかする」
耳元で聴く声は落ち着いていた。深鳥にも平常心が戻る。
「……うん」
布がふわぁと目の前に広がったと思うと、深鳥はそのまま布に包まれた。ふいに左肩が重くなる。快晴が崩れるように深鳥の肩に頭を預けたからだ。暗闇の中、時折苦しそうな息の音だけが静かに繰り返される。
「快晴?」
深鳥は心配でそっと尋ねるが、答えは返ってこない。二人は動かないまま一時が過ぎた。
風の過ぎる音が一段と強くなり、いたずらに布をはためかしていく。ふ、と快晴の息つく音が耳の側で聴こえた。
「大風が来る……逃げるぞ」
「あ――」
問いかける間もなく、ふわっと深鳥の体が浮いた。快晴が深鳥を布ごと抱えたのだ。快晴は動かせる手先を使い、視界にかかる布を引き上げた。
深鳥は何が起きているのか知りたくて、目元にかかる布をこっそり上げた。はためく布の隙間からうっすらと光が漏れる。間近に見る快晴の表情は険しく、眼は未明の青い光を含み、煌めいていた。
遠くの方で森が騒ぎ出すのを確かめると、快晴は大きく息を吸い、読み上げた。
「×× ××× ×× ×――」
凛とした声が響き、辺りがしん、と静まった。次の瞬間。ゴオォッという音とともに、疾風が辺りを駆け巡った。砂と花びらが舞い上がり、人々は目を瞑った。
人々がようやく目を開けた時には、二人の姿は舞台から消えていた。
沈黙の後、やがて騒然となり、次第にひゅぅっという口笛や歓声が飛んで、最後は細波のような拍手に変わった。
「いやっ! 見事な神風だった!」
「これで千久楽は安泰だぁ~」
時刻も時刻で、辺りは異様な盛り上がりを見せている。それとは打って変わって、集会所の中は静かで人の気配もしない。
気が付いた時には、拍手を遠くに聞いていた。そこへ鳥の声がピチュ、ピチュと混じる。空の下の方がしらじらと明るくなりだしていた。
抱えていた深鳥を集会所の素木の床に降ろすと、快晴は深鳥の方を見ずに言った。
「悪かったな」
「え?」
「その手、消毒しとけ」
ちらっと深鳥の手元を見て、快晴は足早に部屋を出て行ってしまった。
「あの……」
深鳥は追いかけるように廊下に出たが、そこに人の気配はなかった。桜の花びらだけが一つ、ちるちると舞っていた。
快晴は廊下を降りて外の庭に出ると、建物の裏に回って歩いた。左手を押さえるとそのまましゃがみこんだ。
「……っ」
ズキズキと波打つような痛みに、快晴は思わず目を閉じる。
「大胆不敵、だな」
聞き覚えのある声に顔を上げると、羽織姿のまま那由他が壁にもたれかかっていた。快晴が舞庭に置いていった風神の面を片手に持って。快晴は無言でじっと睨む。
「女手をよく守った。それは誉めてやる。身のこなしは日々の稽古のたまものだな。だがな……あれはどうかと思うぜ?」
那由他が苦笑を浮かべた。
「何が?」
「風の流れが急に変わったが……嫉妬を買ったかもしれねぇ。まぁ、シナリオ変更は仕方ないとして」
那由他は持った黒面を揺らしてみせる。快晴は溜息をついた。
「……分かるように喋れよ」
「神の妻を寝取るなんざいい度胸だ、と言ってる」
「……」
快晴の目が険しくなるのを那由他は見逃さなかった。
「風を挑発した上に、どさくさに紛れていいことしてんじゃねーぞ。風と花の戯れ……お前らはその憑坐にすぎないんだからよ」
快晴は声を抑えて言った。
「あれは……祭を成功させるためだ」
那由他は片眉を上げた。
「へぇ……? それだけか?」
ダンッ! と快晴が右手を木壁に叩きつけた。
「決して祭を壊すな。そのために機転を利かせ。何でもしろ。前にそう言ったのはあんただろ?」
「まあ、言ったっけか。……で、何したんだ?」
那由他はちろー…っと快晴を見る。
「……してねーよ」
「ん?」
「フリに決まってる――」
そう言ってさっと立ち上がると、快晴はザッザッと砂利の中を歩き出す。途中足をとられ少しよろめいた。
「ふっ、口数がいきなり増えやがる」
くっくっくっく……と那由他は背中を丸めて笑い出す。
「あの状況で何もしない――ずいぶんと紳士な奴だなぁ、オイ……俺ならそうはいかないだろうよ」
遠ざかる快晴の背中を見届けながら、那由他はある種の感慨にふけった。快晴はやっと選んだのだ。形代を渡す相手を。自分と運命をともにする者を――それはきっと、千久楽の行く末などよりもっと確かなものだ。
那由他は明け初めの空を仰ぐ。風にさわさわと花が騒ぐ。
『形代を渡すのは継承のためだけじゃない。渡した相手に己が魂を分かつ……半分差し出すことだ。……分かるか? 那由他』
今も耳をくすぐる、忘れたことのない女性の声。
魂を分かつ。それが運命をともにすることなのだと、かつて那由他に教えてくれた女性がいた。
。
「さて……と」
那由他は深呼吸すると大きく伸びをした。
「舞庭に石を置いたのは誰なのか……」
肩を交互にゴキゴキっと鳴らす。
「ったく、俺も甘いぜ」
ふわぁーっとあくびをして、那由他は華やかな宴会の方へと歩いていった。




