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第024話:共生キノコの毒抜きと、関節筋膜の断ち切り

泥濘が四方へ跳ね上がり、紫色の毒霧が大気を濁らせる腐れ沼。

 ティオが大剣の平を陽光に反射させ、大蟹の右目の前でギラリと光を揺らした。

 ガチリッ!と、視界を塞がれた《鎧茸蟹(アーマー・マッシュクラブ)》が怒り狂い、大岩をも粉砕する右の大鋏を頭上高く振り上げる。

 その瞬間、大鋏の付け根――黒鉄の装甲と胴体を繋ぐ関節の薄皮が、ピンと張り詰めて露出した。


「今だ、おっちゃん!」

「よく隙を作った、ティオ!」


 バルツの体が、泥の上を滑るように前進した。

 腰の後ろに引かれていたのは、刃先が鋭角に反り返った【骨割り逆刃刀】。

 力む様子は欠片もない。

 息を細く吐き出し、相手が振り下ろそうとする大鋏の落下の力と、自らの前進の勢いを同調させながら、逆刃の切先を関節の薄皮へとスーッと滑り込ませた。

 グニリ、という鈍い感触。

 刃先が、硬い外骨格には一切触れず、内部で大鋏を動かしていた主筋(屈筋腱)の束を、まるで絹糸を断ち切るようにスッパリと両断した。


 ドスゥゥゥゥンッッッッ!!!!


 地響きが轟いた。

 人間の胴体ほどもある巨大な右の大鋏が、筋肉の制御を失い、自らの重みに耐えかねて泥沼の中へと力なく脱落したのだ。

 右腕を失った大蟹が、ギチギチと悲鳴を上げてバランスを崩す。

 そこへ、背後から音もなく跳躍したニーナの小刀が、大蟹の口元の神経節を一撃で貫いた。

 ピクリ、と八本の歩脚が硬直し、軽ワゴン車ほどの巨体が、泥濘の中へと安らかに沈み込んで絶命した。


「ふ、ふんす……! 仕留めたニャ!」


 ニーナが額の汗を拭い、荒い息を吐いた。

 ティオが大剣の切先を泥から引き抜き、呆気にとられたように巨蟹の死骸を見つめる。


「信じられないよ……。あんな巨大な化け物が、甲羅を割ることもなく、包丁一本で崩れ落ちるなんて……!」

「どんな装甲獣でも、骨と筋肉を繋ぐ腱を切られりゃ、自分の重みで自滅するのさ。……さて、休む暇はねえぞ。背中のキノコが胞子を撒き散らす前に、一番美味い『下処理』を済ませるぞ」


 バルツは解体袋から、幅広の皮剥ぎ刀と、持参してきた寸胴鍋を取り出した。

 大蟹の背甲の上に生え揃っている、大人の頭ほどもある三本の紫色の巨大キノコ。

 シェリルが恐る恐る近づき、杖を胸に抱いて眉をひそめた。


「せ、先生……。このキノコは『紫煙猛毒茸(マイアズマ・マッシュ)』です。触れただけで皮膚がただれ、胞子を吸い込めば呼吸困難に陥る致死性の毒物ですが……これも毒抜きできるのですか……!?」

「毒抜きどころか、最高の『出汁(ダシ)』になるぞ」


 バルツは手袋をつけた手で、キノコの根元――甲羅との結合部に、皮剥ぎ刀の刃先を水平に当てた。

 サクッ、サクッ、と小気味よい音がして、毒キノコが根こそぎ甲羅から削ぎ落とされていく。

 笠の裏から紫色の胞子がポロポロと落ちるが、バルツは素早く寸胴鍋の中にキノコを放り込んだ。


「紫煙猛毒茸の毒の正体は、熱に弱いタンパク質性の『アマトキシン類』だ。生で食えば即死だが、沸騰した熱湯で10分間グラグラと煮沸してやりゃ、毒の分子が完全に熱分解されて、無毒なアミノ酸へと分解されるんだよ」

「熱分解……! 加熱によって、毒が旨味成分に変わるのですか!?」

「そうだ。毒を分解した後のこのキノコはな、乾燥椎茸の10倍もの濃厚なグアニル酸とグルタミン酸を放出する、魔境最強の天然出汁キノコに化ける。シェリル、寸胴鍋に川の水を満たして、お前さんの弱火で沸騰させろ」

「は、はいッ! 喜んで沸騰させます!」


 シェリルが指先から青白い火炎を放ち、寸胴鍋の水を一瞬で沸騰させた。

 刻んだ紫キノコが熱湯の中に投入されると、モワッ!と立ち上っていた紫色の煙が、一瞬にして黄金色の澄んだ湯気へと変わった。

 カビ臭さは完全に消え去り、森の恵みを凝縮したような、信じられないほど深く芳醇なキノコ出汁の香りが立ち上り始めた。


「うわあああ……! すっごく、すっごくお出汁の良い香りがします……!」

「だろ? こいつは後で蟹肉を煮るためのスープのベースにする。……そして、本命はこっちだ」


 バルツは大蟹の巨体に向き直ると、腹側の三角形のふんどし(腹甲)の隙間に、小刀の切先を差し入れた。

 カチリ、と外骨格のロックピンを外す乾いた音。

 バルツが両手で甲羅の縁を掴み、テコの原理でグッと上方へ持ち上げた。


 パカッッッッ!!!!


 分厚い黒鉄の背甲が、まるで鍋の蓋を開けるように外れた。

 その瞬間――。


「「「――っっっ!!!!!!」」」


 その場にいた三人が、同時に息を呑み、目を見開いた。

 甲羅の内側に広がっていたのは、まさに「黄金の海」だった。

 洗面器二杯分はあろうかという、巨大な甲羅の窪み。

 そこに、こぼれ落ちそうなほどタプタプに満たされていたのは、黄金色と深緑色がマーブル模様を描く、超濃厚な【天然カニミソ】だった。

 不純物など一切ない。

 ツヤツヤと輝くその表面からは、磯の清々しい潮気と、ナッツのような香ばしい甘みが、湯気となって立ち上っていた。

 さらに、甲羅の縁や脚の付け根には、雪のように真っ白で分厚い蟹の身が、ぎっしりと隙間なく詰まっていた。


「にゃ……にゃあああああああああっっっ!? 黄金の宝ニャ! 本当に、黄金の宝が山盛り入ってるニャーーーッ!」


 ニーナが叫び、尻尾をブンブンと振り回した。

 ティオも唾をごくりと飲み込み、目を奪われている。


「すげえ……! こんなにミソが入ってるのかよ! 甲羅自体が、そのまま特大の鍋になってるじゃん!」

「だが、食べる前に必ず取り除かなきゃならん部位があるぞ」


 バルツは甲羅の左右の両脇に並んでいる、灰色のビラビラとした羽状の器官を指差した。

 魚のエラに似た、何枚も重なり合う薄い膜だ。


「このビラビラは『ガニ(鰓)』だ。蟹が水中の酸素を取り込み、泥を濾すためのフィルター器官だから、雑菌と泥のアクが溜まりまくってる。これを残したまま煮ると、せっかくのミソが台無しになる。刃物を使わずに、指先で根元からプチプチとむしり取って捨てろ」

「は、はいッ!」


 ティオが手袋をはめ、ガニを丁寧にむしり取っていく。

 左右のガニを取り除くと、甲羅の内側には、純粋なカニミソと、純白の肩肉だけが美しく残された。

 さらにバルツは、切り落としてあった八本の太い歩脚を取り上げた。

 脚の関節の柔らかい節に、小刀の刃先をクルリと一周回す。

 そして、脚の先端をポキリと折って、スーッと手前に引いた。

 スポンッ!

 信じられない快音と共に、硬い殻の中から、大人の前腕ほどもある極太の「棒肉(蟹脚肉)」が、繊維を一本も崩さずに丸ごと一本抜け出てきた!

 半透明の桜色を帯びた、絹のように艶やかな極上の蟹肉。


「うわあああ……! 殻の中から、お肉が丸ごと一本抜けました……!」


 シェリルが感嘆の声を上げる。


「関節の腱を外して引っ張るだけで、殻を割らずに身が綺麗に抜けるのさ。脚肉はあとでミソに絡めてしゃぶしゃぶにするぞ。……そして、この甲羅鍋だ」


 バルツはきれいに処理された巨大な甲羅を両手で持ち上げた。


「この甲羅をそのまま炭火の網の上に乗せて直火で焼く。蟹ミソがフツフツと煮え立ったら、そこにほぐした身と、シェリルが温めてくれた焼きおにぎりを放り込むんだ」


 バルツがニヤリと笑い、甲羅の底の汚れを清流の水でサッと拭き取った。

 悪名高い泥濘の怪物が、世界一贅沢な大鍋へと姿を変えた瞬間だった。

 秋風が吹き抜ける腐れ沼のほとり。

 いよいよ、全員の胃袋を完全に打ちのめす究極の野営飯――『濃厚カニミソ甲羅焼き&焼きおにぎり雑炊』の宴が、始まろうとしていた。

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