第102話:灼熱の黒曜峡谷! 溶岩大地とバルツ流・耐熱ブッシュクラフト
木漏れ日の街を南西に向けて発ってから三日後。
一行を乗せた頑丈な四輪馬車は、緩やかな緑の丘陵地帯を抜け、突如として視界が開けた巨大な断崖の縁へと到達した。
御者が青ざめた顔で手綱を引き、馬の鼻息が荒く乱れる。
眼下に広がっていたのは、白銀の霊峰とは対極に位置する、見渡す限りの漆黒と紅蓮に染まった灼熱の地獄絵図であった。
「……ひどい熱気ですわ。肌がチリチリと痛むようです」
「うにゃ〜……! 息を吸うだけで、喉の奥がカラカラに干からびそうニャ……!」
馬車から降り立ったシェリルとニーナが、思わず眉をひそめて息を詰まらせた。
眼前に横たわるのは、大陸最大級の溶岩地帯――『黒曜峡谷』。
かつて古代の火山噴火によって大地が引き裂かれ、冷え固まった漆黒の黒曜石が、刃のように鋭く切り立った奇岩となって何千何万と連なっている。
気温は優に摂氏を超えており、地表の黒い岩肌からは立ち上る陽炎が空間を激しく歪ませていた。
谷の底を覗き込めば、幾筋ものドロドロとした赤熱の溶岩流が、まるで大地の血管のように脈打ちながら、低い轟音と共に流れているのが見える。
「ふん……やはり辺境の田舎者どもは、この程度の熱気で音を上げるのか。軟弱極まりないな」
冷笑を含んだ、慇懃無礼な男の声が馬車の後方から響いた。
歩み出てきたのは、王都中央ギルド『黄金の天秤』の特務監査官――ルキウスであった。
細身の仕立ての良い黒い高級コートを羽織り、銀縁の眼鏡の奥から冷たい蛇のような視線をティオたちへと注いでいる。
その隣には、純白の豪奢なコックコートを着込み、両手に薄手の高価な革手袋をはめた筋骨隆々の中年男――王都筆頭宮廷料理長ジャン・マルセルが、気難しげに腕を組んで仁王立ちしていた。
「ルキウス監査官の言う通りだ。私は王都で至高の料理を追求する身。なぜこんな辺境の解体屋風情や、ギルドの落ちこぼれ小僧どもと行動を共にせねばならんのだ。時間の無駄以外の何物でもない」
ジャンがフンと鼻を鳴らし、バルツの薄汚れた外套を一瞥して吐き捨てた。
その右の手袋の奥には、過去の調理事故で負ったとされる重度の火傷の痕跡が、微かに引き攣れるように隠されていた。
「おいおい、おっさんたち。文句を言うなら王都へお帰り願おうか。俺たちはお前らの護衛でここに来たんじゃねえんだぞ」
ティオが大剣の柄に手をかけて睨みつけると、ルキウスは嘲笑を浮かべ、胸ポケットから一枚の羊皮紙をちらつかせた。
「威勢がいいですね、新米冒険者。ですが忘れないでいただきたい。これは王都ギルド本部と王室の命による正式な特務調査。貴方方の昇格や辺境支部の存続は、私の調査報告書一枚にかかっているのですからね。……さあ、愚鈍な解体屋。先導しなさい。火山の深部にある『黒曜熱魔石』の群生地まで、最短ルートで案内するのです」
ルキウスが尊大に顎をしゃくった。
だが、バルツはそんな中央の官僚の脅し文句など完全に無視し、足元の黒曜石の地面を無造作に解体包丁の柄でトントンと叩いた。
「おい、王都の先生方。その上着を脱ぐなよ。暑いからって薄着になった瞬間、お前らは1時間も経たずに干物になってぶっ倒れるぞ」
「はあ? 何を馬鹿なことを言っているんだ、この田舎者が」
ジャンが鬱陶しそうにコートのボタンを外そうとした。
額からは玉のような汗が滝のように噴き出し、喉が渇ききっているのが傍目にも明らかだった。
「この灼熱の地獄で服を着込めだと? 熱がこもって熱中症になるに決まっているだろう! これだから無学な野蛮人は……」
「馬鹿はお前だ、料理長先生」
バルツが冷ややかに言い放ち、荷車から四角い布の束を取り出した。
「黒曜石の地表温度は、今まさに摂氏を超えてる。放射熱と強烈な紫外線が、地面から照り返しとなって下から皮膚を焼くんだ。素肌を晒せば、体温調整機能が破綻して一気に体内水分が気化し、血液がドロドロになって意識を失う。……生き残りたきゃ、この通気性の高い白樺リネンを二重に重ね着しろ。布の隙間に空気の層を作り、外の熱波を遮断しながら、かいた汗の気化熱で体温を下げるんだ」
バルツは手際よくティオたちに白樺リネンの耐熱外套を羽織らせていく。
それは、外の熱気を遮断しつつ、内部の風通しを維持する『砂漠の民と狩人の生体熱力学ブッシュクラフト』であった。
さらにバルツは、小瓶からトロリとした半透明の軟膏を取り出した。
「シェリル、ニーナ、顔と首筋にこれを塗れ。雪山で採取した雪鼬の不凍オイルと、温感生姜の油分を調合した特製の日焼け止め軟膏だ。エレナからもらった氷晶石の冷気を通気孔に忍ばせてある」
「ひんやりして、すっごく気持ちいいですわ……! 熱風が肌に触れても、全然チリチリしません!」
「肌がスースーして、頭がシャキッとするニャ!」
シェリルとニーナが顔を綻ばせる。
一方のジャンは、プライドが邪魔をしてバルツの忠告を無視し、コートを脱ぎ捨てて薄手のシャツ一枚で黒曜峡谷の坂道を歩き出していた。
「ふん! 田舎者のオカルトじみたサバイバル術など聞いていられるか! 私は絶対味覚と屈強な肉体を誇る宮廷料理長だ、この程度の――っぐ!?」
歩き始めてわずか100メートル。
ジャンの足取りが突如としてふらつき、その巨体がガクリと膝をついた。
顔面は土気色に染まり、呼吸は浅く荒く乱れ、唇は紫色に変色して痙攣している。
地面からの凄まじい放射熱に直に晒されたことで、急激な脱水症状と熱射病を引き起こしたのだ。
「じ、息が……っ! 視界が……回る……っ!?」
「ジャン殿!? しっかりなさい!」
ルキウスが狼狽して叫ぶが、自分自身も熱気でふらついており、介抱どころではない。
そこへ、すたすたと平然とした足取りで歩み寄ってきたのは、白樺リネンを纏ったティオとバルツだった。
バルツは水筒を取り出すと、ジャンの口元へ差し出した。
「ほら、飲め。ただの水じゃねえぞ。霊峰の湧き水に、雪山の岩塩と温感生姜の絞り汁、そして極微量の不凍糖分を黄金比で溶かした『経口補水液』だ。一気に飲むな、口に含んで舌の下の血管からゆっくり吸収させろ」
「なっ……田舎者の施しなど……っ、ごくっ……ごくっ、ぷはっ……!」
ジャンは拒絶しようとしたが、極限まで渇いた身体の本能が抗えなかった。
一口含んだ瞬間、ジャンの瞳が見開かれた。
「こ、これは……!? 塩分と糖分の浸透圧が……完璧に計算されている……!? 生姜の成分が胃壁の血流を瞬時に刺激し、失われた水分と電解質が、細胞の隅々まで電撃のように染み渡っていく……!?」
絶対味覚を持つジャンだからこそ、その水に込められた驚異的な調合技術と熱力学の真理が一瞬で理解できた。
みるみるうちに顔に血色が戻り、荒れていた呼吸が整っていく。
バルツは立ち上がったジャンの肩に、無造作に白樺リネンの外套を放り投げた。
「職人が自分の身体のメンテナンスもできねえで、何が宮廷料理長だ。死にたくなきゃ、つまらねえプライドは谷底に捨ててきな」
「くっ……! お、おのれ……!」
ジャンは悔しげに唇を噛み締めながらも、命を救われた事実を否定できず、無言で外套を羽織った。
その背中を見つめるルキウスの眼鏡の奥で、冷徹な計算の光が妖しく明滅していた。
その時だった。
「おっちゃん、地面の様子が変だぜ!」
先頭を歩いていたティオが、背中の黒鉄の大剣を抜き放ち、地面の黒曜石の亀裂へと突き立てた。
大剣の刃を通じて伝わってくる、尋常ではない高周波の振動。
ティオは柄に巻かれた巨角鹿の革の感触を確かめながら、鋭い視線を頭上の溶岩棚へと向けた。
「熱の振動が、上から降ってきてる……! 何か来るぞ!」
「ニーナも匂いでわかるニャ! 焦げた羽毛と、火薬みたいなツンとする火花の匂いニャ!」
カチッ、カチッ、カチカチカチッ――!!
頭上の切り立った黒曜石の断崖から、まるで火打ち石を激しく打ち合わせるような、硬質で不気味な金属音が連続して鳴り響いた。
見上げれば、赤黒い溶岩棚の頂に、二対の爛々と燃え盛る紅蓮の双眸。
体長2メートルを超える猛禽の影。
その嘴は鋼鉄のように黒光りし、羽毛を擦り合わせるたびに、バチバチと凄まじい火花を周囲に撒き散らしていた。
「あれは……黒曜峡谷の凶鳥、《火打ち石鳥》だ!」
ルキウスが悲鳴のような声を上げた。
火花の閃光と共に、猛禽が鋭利な爪を剥き出しにして、時速を超える猛スピードで頭上から急降下してきた!
過酷な灼熱の峡谷で、命を喰らう新たな解体劇が、今まさに幕を開けようとしていた!




