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第001話:腰痛持ちの老狩人と、破れた毛皮で泣く猫耳少女

大陸の最北端、切り立った灰色の断崖にへばりつくように築かれた要塞都市「竜哭(ドラケン)の砦」。

 秋の乾いた風が吹き抜けるたび、冒険者ギルドの裏庭には、乾いた革の匂いと、燻製小屋から漏れ出る燻煙草(スモークハーブ)の苦い煙が漂っていた。

 庭の隅に置かれた分厚い樫の木の解体台。

 使い古された厚手の革エプロンを身にまとった男、バルツ(四十一歳)は、無精髭の顎を撫でながら、ふうと短いため息をこぼした。


「よっこらしょ、と……あたた。冷たい風が吹くと、腰の芯に響くなあ」


 腰の後ろをとんとんと叩きながら、手入れの行き届いた砥石に水を垂らす。

 シャッ、シャッ、シャッ。

 規則正しい心地よい金属音が、秋の午後の裏庭に響いていた。

 バルツの腰の道具差しには、長さや刃の反りが異なる七本の解体小刀が整然と収まっている。皮を裂かずに肉から外すための丸刃、骨と骨の関節に滑り込ませる逆刃、内臓を傷つけずに薄膜だけを断つ極細の細工刀。どれも二十年以上の酷使に耐え、柄の木肌が手の油で飴色に光っていた。

 そして道具差しの中心、もっとも抜きやすい位置にある一本だけが、異様な存在感を放っている。

 黒く煤けたような鞘に収まった、銘のない無骨な短刀《黒喰(クロバミ)》。

 20年前、魔境の深淵から生きて持ち帰った、唯一の私物だ。


「おい、クズ獣人! こんなズタズタの毛皮、銅貨一枚にもならねえよ! ギルドの手数料でむしろ赤字だ、さっさと消えな!」


 正面の荷捌き場から、甲高い怒声が響いてきた。

 同時に、乾いた板畳の上に何かが放り出されるバサリという音。

 バルツが手を止め、のんびりと視線を向けると、荷受け窓口の前で一人の少女がへたり込んでいた。

 大きなフェネックの三角耳と、砂色のふさふさした尻尾。十四歳ほどの華奢な獣人の少女、ニーナだった。

 粗末な麻の貫頭衣に、擦り切れた小刀を一丁だけ腰に下げている。

 少女の足元には、全身の毛皮が無残に引き裂かれ、血と泥にまみれた小動物の死骸が転がっていた。魔境の浅瀬に生息する《跳ね棘兎(ニードル・ラビット)》だ。


「で、でも……っ! あたし、朝から沼のふちで4時間も待って、やっと仕留めた獲物ニャ……! ギルド長さん、買い取ってくれないと、今日の宿代も払えないニャ……!」

「知るかよ! 毛皮の裏を見てみろ! 刃先を力任せに突き立てたせいで、肉の脂が毛の根元にこびりついて腐りかけてるじゃねえか! 傷だらけの毛皮なんて、王都の工房が引き取るわけねえだろ! ほら、持って帰って自分で食うか、ゴミ箱に捨てちまいな!」


 肥満体のギルド査定員は唾を飛ばして吐き捨てると、窓口の木戸をピシャリと閉めてしまった。

 静まり返る荷捌き場。

 ニーナは泥にまみれた兎の死骸を胸にかき抱き、耳をぺたりと伏せて、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。

 ぐうううう……と、彼女の小さなお腹が、情けない音を立てて鳴る。


「……ううっ、ぐすっ……。あたし、やっぱり何をやってもダメな落ちこぼれニャ……。解体もできないし、獲物も売れない……。お腹すいたニャあ……」


 しゃくりあげる少女の頭上に、ぽすん、と温かい影が落ちた。


「泣くと余計に腹が減るぞ、小娘」


「……ふぇ?」


 涙で濡れた大きな瞳を見上げると、そこには無精髭を生やし、腰に手を当てたバルツが立っていた。

 使い古された革エプロンからは、ほのかに乾燥ハーブと研ぎ澄まされた鉄の匂いが漂っている。


「お、おじちゃん……誰ニャ?」

「裏庭で解体屋の真似事をしてる、ただのロートルだよ。ほら、その兎、ちょっと貸してみな」

「で、でも、もうズタズタでゴミだって……」

「獲物はな、息絶えた瞬間から職人を試してくるんだ。『お前は俺をどう活かすんだ』ってな。ゴミにするか宝にするかは、刃を持つ人間の腕次第だ」


 バルツはしゃがみ込むと、ニーナの手から泥だらけの兎をひょいと受け取った。

 解体台へ運ぶと、桶に汲んであった清流の冷水で、獲物の泥と血を素早く洗い流す。

 濡れて毛が張り付いた兎の体。あちこちに素人が無理やり小刀を突き立てた切り傷が刻まれていた。


「いいか、よく見とけ。これが基本だ」


 バルツは腰の道具差しから、刃渡り10センチほどの細身の小刀を抜いた。

 力む様子は微塵もない。肩の力を完全に抜き、息を細く吐き出しながら、刃先を兎の喉元に当てる。

 スーッ。

 まるで熟した果物の薄皮をなぞるような、軽やかな音が響いた。

 ニーナが息を呑む。

 バルツの手首が、まるで生き物のように滑らかに動いていた。刃先は肉の繊維に触れることなく、皮と肉の境界にある半透明の結合組織(薄膜)だけを、正確になぞり割っていく。


「獲物の皮ってのはな、力任せに引っ張るもんじゃない。骨と肉の丸みに合わせて、刃を『滑らせる』んだ。刃が通るべき道は、最初から生き物の体が教えてくれてる」


 指先で皮を軽く引っ張りながら、刃先をミリ単位で動かす。

 血の一滴すら飛び散らない。

 喉元から胸、腹、そして四肢の関節へ。流れるような三呼吸の動作の後、バルツが兎の尾の付け根を指先でクイと跳ね上げた。

 パサリ。

 まるで衣服を脱ぎ捨てるように、傷だらけだったはずの毛皮が、裏返しの綺麗な筒状になってツルリと剥け落ちた。

 残された肉の表面には、傷一つない。淡い桜色の瑞々しい赤身が、秋の木漏れ日を浴びて宝石のように輝いていた。


「……にゃ、にゃああっ!? 毛皮が、脱げたニャ……!?」


 ニーナが目を丸くして飛び上がった。

 それだけではない。剥がされた毛皮の内側は、脂の付着も変色もなく、真っ白で均一なめらかな革肌を晒していた。素人がつけた表面の傷は、外側の針毛を梳かせばほとんど目立たない、最高等級の「完全剥ぎ」だった。


「ほらよ。これならギルドの査定員も文句は言えん。持っていって金に換えてきな」

「えっ、あ、あたしが貰っていいのニャ!? おじちゃんがやったのに……!」

「俺は頼まれて手本を見せただけだ。獲物を仕留めたのはお前だろ。自分の獲物の対価は、胸張って受け取れ」


 バルツはひらひらと手を振り、解体台に残された兎の肉に目を戻した。

 骨格の周り、特に肋骨と背骨の隙間には、剥ぎ残された少量の赤身がついていた。いわゆる「中落ち」だ。

 バルツは小さなスプーン状の掻き出し刀を取り出すと、肋骨の間の肉をサッサッと手際よくこそぎ落とした。小皿一杯分ほどの、鮮やかな赤身の小間肉が集まる。


「さて……手伝い賃として、この中落ちだけ貰うぞ」

「そのお肉、食べるのニャ?」

「当たり前だ。命をいただいたんだ、骨についた一欠片の肉まで美味しく食ってやるのが、解体士の仁義ってもんさ」


 バルツは裏庭の隅にある小さな炉に、乾燥させた薪を放り込んだ。

 火打ち石をカチリと打つと、乾いた枝に赤い火が宿る。パチパチと爆ぜる心地よい音。

 竹串に中落ちの肉を波打つように刺し、野営袋から取り出した天然の岩塩の塊を、小刀の背でガリガリと削って振りかける。

 さらに、炉の周りに生えていた野生のローズマリーに似た香草を一本ちぎり、指で揉んで香りを立たせてから肉に添えた。

 ジュウウウウウッ……!

 炭火の熱に乗って、肉汁が滴り落ちた瞬間、猛烈な香気が裏庭を満たした。

 脂の焦げる香ばしい匂いと、爽やかなハーブの香り、そして肉の純粋な甘い湯気が、秋の澄んだ空気に溶けていく。


「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ……っ!」


 ニーナのお腹が、さっきの3倍の音量で悲鳴を上げた。

 フェネックの大きな耳がピーンと直立し、尻尾がブンブンとプロペラのように回転する。口元からは、いまにも涎が決壊しそうだった。


「ほら、焼けちまうぞ。熱いうちに食え」


 バルツが差し出した二本の串焼き。

 一本を自分で口に運び、もう一本をニーナの小さな手のひらに握らせる。


「えっ……あたしも、食べていいのニャ……?」

「腹が減ってちゃ、次の狩りもできねえだろ。冷めると脂が固まる。一気にいけ」


 ニーナは両手で串を握りしめると、ハフハフと湯気を立てる肉を、おそるおそる前歯でかじり取った。

 シャクッ。

 表面の香ばしい焦げ目が裂け、中から閉じ込められていた熱々の肉汁が、じゅわっと口いっぱいに弾け飛んだ。


「――っっっ!!!!!!」


 ニーナの金色の瞳が、カッと見開かれた。

 野山を駆け回る小動物特有の、力強い赤身の旨味。それでいて臭みは微塵もない。清流の水で血を抜き、自生のハーブで香りを引き立てた肉は、噛めば噛むほど暴力的なまでの甘みと肉汁を溢れ出させる。

 塩の粒が肉の甘みを極限まで際立たせ、喉を通るたびに、冷え切っていた胃袋がポカポカと温まっていく。


「う……うみゃああああああああああっっっっ!!!!」


 ニーナは串にかぶりついた。

 ハフハフ、モグモグ、ゴクン!

 獣人の本能を剥き出しにして、夢中で串を貪る。最後の一欠片を飲み込み、串についた焦げ目までペロペロと舐め尽くすと、彼女は胸を押さえてぽわんと息を吐き出した。


「な、なんニャこれ……! あたし、こんなに美味しいお肉、生まれて初めて食べたニャ……! あんな泥まみれだった兎が、なんでこんなに柔らかくて甘いニャ!?」

「泥を落として、血を抜いて、筋を切ってやったからさ。どんな硬い肉でも、身体の仕組みを理解してやれば、天上の味になる。それが『解体』ってやつだ」


 バルツは自分の串をあっさりと食べ終えると、竹串を炉の火にくべて、満足そうにお茶をすすった。


「さて、小娘。毛皮を持って窓口へ行ってきな。さっきの査定員の鼻を明かしてやれ」

「う、うんニャ! ……あ、あのっ!」


 立ち去りかけたニーナが、くるりと振り返った。

 その大きな瞳には、先ほどまでの絶望と涙は欠片もなく、満天の星空のような輝きが宿っていた。


「おじちゃん、名前なんて言うのニャ!?」

「バルツだ。しがない解体指導員さ」

「バルツおじちゃん! あたし、ニーナって言うニャ! 決めたニャ……あたし、おじちゃんに弟子入りするニャ!」

「は? 弟子?」

「うん! おじちゃんの解体、すっごくかっこよかったニャ! あたし、もっともっと獲物の仕組みを知って、あんな美味しいお肉を自分で作れるようになりたいニャ! 明日も絶対ここに来るから、待っててニャーーー!」


 ニーナは上等な毛皮を両手で抱え、尻尾を弾ませながら、風のように荷捌き場へ走っていった。

 直後、窓口の木戸の向こうから、「な、なんだこの特級の完全剥ぎはぁぁぁ!? 銀貨……いや十枚だ!!」という査定員の絶叫が木霊した。


 裏庭の樫の解体台。

 バルツは呆気にとられたようにぽりぽりと頬を掻き、やがて苦笑いを浮かべて腰をとんとんと叩いた。


「弟子、ねえ……。やれやれ、これだから若者は元気で困る。腰が痛むってのに、また騒がしくなりそうだなあ」


 秋の空はどこまでも高く青く澄み渡っていた。

 これが、後に大陸全土の攻略常識を根底から覆す「魔境の落ちこぼれカルテット」の、小さくて温かい最初の一歩だった。

お読みいただきありがとうございます。

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