世界一危険な「あーん」
七月初旬。
気温三十五度。
暑い。
いや、「暑い」なんて生ぬるい。
クソほど暑いのだ。
人類はもう少し真面目に夏という季節について考えるべきだと思う。
教室のエアコン様はとても頑張っていらっしゃる。
全力稼働中だ。だが、相手が悪い。
外気温三十五度。
四十人分の体温。
そして、天羽ねむり。
この三つを相手にするのは、さすがの文明の利器でも荷が重い。
冷風は出ている。
ちゃんと仕事はしている。
それでも教室は「涼しい」ではなく、「何とか死なずに済んでいる」くらいの温度を維持するのが精一杯だった。
「……超帰りたい」
俺――古賀真尋は、机に突っ伏した。
まだ五時間目。
あと一時間以上ある。
無理だ。
このままじゃ蒸し焼きになって死ぬ。
すると前の席から、俺以上に魂の抜けた声が聞こえてきた。
「わかる……」
天羽ねむりだった。
やめろ。
共感するな。
お前のその「だるい」は普通のだるさじゃない。
世界が影響を受けるんだから。
その瞬間だった。
――ブツッ。
教室中に響いていたエアコンの運転音が、不意に途切れた。
「うおっ!?」
クラス中がざわつく。
冷気が、すうっと消えていく。
嫌な静けさだった。
先生が天井を見上げる。
「もーー! またエアコン故障なのです!?」
違います、先生!
それ故障じゃありません!
ねむりが『今日はもう休みにしない?』って本気で思ったせいです!
世界が「あ、じゃあ休めそうな理由を作っとくね」って余計な気を利かせたんです!
だが!!!その親切心はいらない!
エアコンだけは止めないでくれ!!
マジで死ぬから!!
◇
放課後。
蝉がうるさい。空気が熱い。
アスファルトが今にも溶け出しそうだ。
「真尋」
「なんだ」
「アイス食べたい」
来た。
この一言で察する。
ここから先は、選ぶ言葉一つで運命が決まる。
「……そういえば、コンビニで新作のアイスが出たって聞いたぞ」
「やだ」
即答だった。
0.2秒くらいしか悩んでないだろ。
そして一言。
「駅前のジェラート」
言われた、言われてしまった。
俺がこの夏、一番避けたいイベントが今ここで開幕した。
理由は単純明快。
まず、長蛇の列、そして暑い。駅前は人が多い、さらに暑い。照り返しが暑い。息を吸っても暑い。歩くだけで暑い。何なら「暑い」という漢字まで暑く見えてくる。
歩いて行ける距離?知ってる。15分くらい?知ってる。
だから何だ?
その15分が地獄なんだよ!
この炎天下で駅前まで歩くなんて、自ら焼かれに行くようなものだ。
何としてでも回避しなければ。
俺の平穏な放課後を守るために――!
「こんな暑いんだから、今日はやめとこうぜ!」
「暑いから行くんでしょ」
「……」
たしかに。
言われてみれば、その理屈は正しい。
冷たいジェラートを食べるために暑い中を歩く。
因果としては成立している。
だが、それはそれ、これはこれだ!
くそっ……!
正論というのは、どうしてこうも人を追い詰めるんだ!
このままでは、本当に駅前まで連行される。
いや、まだだ。
交渉は終わっていない。
俺の夏は、まだ終わっていない!!
その時だった。
「やあ、ご機嫌いかがかな?」
後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、月城玲奈がいつもの涼しい笑みを浮かべて立っていた。
救世主だ。
俺は反射的に顔を近づける。
「玲奈!! 助けてくれ!!!」
「うん?」
「駅前のジェラートに連れて行かれそうなんだ! 止めてくれ!」
玲奈は一瞬だけ考える素振りを見せたが……
「アイスだろ? 僕も行っていいかな?」
「ばっかやろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
救世主じゃなかった。
援軍かと思ったら敵の増援だった。
「ん? どうしたのかな?」
「どうしたじゃねぇよ! そこは『暑いからまた今度にしよう』だろ! 空気読め、ほんと読んで!!!」
俺が頭を抱えていると、ねむりが首をこてんと傾げた。
「真尋さっきから空気読めって言ってるけど」
「んん?」
「空気は読むものじゃなくて吸うものだよ?」
「そういうことじゃねぇんだよ!!」
頼むからその天然で俺のツッコミを無効化しないでくれ。
ねむりは「そっかぁ」とでも言いたげに頷くと、玲奈の手を軽く引いた。
「じゃあ、暑いし早く行こ」
「そうだね」
「待て」
二人は歩き出す。
「待てって!」
俺の制止など最初から存在しなかったかのように、二人は駅前へ向かっていく。
……こうして俺は。
灼熱のアスファルトの上をた15分以上歩き、長蛇の列に並び、駅前のジェラートを食べに行くことが決定した。
俺の放課後は、今日も平和ではなかった。
◇
駅前は地獄だった。
人、人、人。
アスファルトから立ち上る照り返し。
まとわりつく熱風。
信号待ちをしているだけで、体力ゲージが音を立てて削られていく。
「……もう帰りたい」
「夏って感じで好き」
隣では、ねむりがご機嫌だった。
「頼むから世界を涼しくしてくれ」
「夏は暑いから夏」
「それは一理ある。暑くないとアイスの美味しさも半減するしね」
玲奈もうんうんと頷く。
「でしょ。だから暑い方がいい」
その瞬間。
駅前の大型ビジョンからニュース速報が流れた。
『本日、東京都心で観測史上最高気温を更新――』
俺はそっと、ねむりを見る。
「…………ねむり?」
「知らない」
即答。
……いや。
目、逸らしたよな?
(こいつ……殺る気か? 暑さで俺を始末する気なのか?)
◇
目当てのジェラート店は案の定、大混雑だった。
店内は長蛇の列。
……なのに。
「窓際、空いてる」
ちょうど一席だけ空いていた。
「……またか」
「運がいいね」
いや、玲奈それは運とは呼ばない。
たぶん今日も、世界がねむりに席を譲っただけだ。
俺たちは窓際へ腰を下ろす。
「ん」
ねむりがスプーンを差し出してくる。
ピスタチオ味。
「いや、自分で食えよ」
「一口交換」
「こういうの普通に恥ずかしいんだけど」
「早く」
無表情なのに圧だけ強い。
「はい!いただきます!」
観念して一口。
……うまい。
濃厚なのに後味はさっぱり。
思わず頬が緩んだ、その瞬間だった。
ふわり。
店内いっぱいに、花のような優しい香りが広がる。
客たちが「いい匂い……」と顔を上げる。
「……ねむり」
「なに」
「今、ちょっと幸せ感じた?」
「感じた」
即答だった。
駄目だこいつ。
感情が世界に漏れてる。
「じゃあ次は、こっちだよ。真尋くん」
玲奈が笑顔でチョコジェラートを差し出してきた。
「……は?」
「はい、あーん」
「ちょ、待っ――」
その瞬間。
店の外が、急に暗くなる。
さっきまで青かった空が、みるみる黒い雲に覆われた。
ゴロゴロゴロ……
雷鳴。
「ねえ、なんで私より喜んでる」
「喜んでねぇよ!? 驚いただけだから!」
真尋がねむりへ言い返そうと、一瞬だけ口を開けた。その隙を逃さず。
「はい、あーん」
「んむっ!?」
ぱくり。
チョコの濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。
「あ、こっちも美味――」
そこまで言いかけて、俺は固まった。
ねむりが。
ものすごく不機嫌そうな顔でこっちを見ていた。
数秒後。
ドシャァァァァァッ!!
空が割れた。
ゲリラ豪雨。
暴風。
雷。
店員が慌てて窓を閉め、店内には悲鳴が響く。
「いや笑えねぇって! ねむり!」
「なに」
本人だけが、窓の外を眺めている。
「やったよな?」
「雨凄い」
完全に他人事だった。
ゴロゴロォォン!!
雷が落ちる。
店内の照明が一瞬消え、客たちが「きゃあっ!」と悲鳴を上げる。
「悪かった!本当に悪かった!」
ねむりはぷいっと顔を背けた。
完全に拗ねている。
……世界の命運が、俺のコミュ力に懸かっている。
しばらく考えた末、俺は自分のバニラジェラートをひとすくいした。
そして、ねむりへ差し出す。
「ほら」
「…………?」
「『あーん』は、ねむりにしかしないから」
「…………」
「だから、機嫌直せ」
数秒の沈黙。
やがて。
「…………はむ」
小さく口を開けて、ねむりはバニラを食べた。
その瞬間。
ザァァァ――
雨が止む。
黒雲が左右へ割れ、黄金色の夕陽が店内へ差し込んだ。
まるで何事もなかったかのような、美しい夕焼けだった。
店中から「おお……」と感嘆の声が漏れる。
俺は深く息を吐く。
(……助かった)
世界は今日も、ギリギリで存続した。
そして俺も今日一日、生き延びた。
ねむりの機嫌を取りながら。
人類代表として。たぶん。




