20 紅玉 Ruby
「…っ!」
頬を打たれ息つく間もなく叱責の嵐。無理矢理視線を合わせられると、息がつまりそうな罪悪感に襲われた。涙がぽろぽろ零れる。ソルの頬がみるみる赤く染まった。痛い。でも痛いのは頬じゃない。グロスに怒られた。あの修道女の老婆と同じだと言われた。グロスに嫌われてしまう。心が…痛い…。
「私…違う。あのお婆ちゃんと一緒じゃないよ。違う…」
違わない。同じだ。言葉では否定はしても、主の怒りに触れて自分が卑劣な行いをした事は実感した。あのシスター、最期は確か撲殺されてた。鬼の形相のグロスに、酷い悪戯をした後の子供のような表情を向ける。後先を考えていなかった。どうしよう、殴り殺されるかも。ヒリヒリと痛む頬をさする事も出来ず、雨の中をグロスに引きずられるようにして走った。途中で転んでも、無理矢理起こされて走った。
グロスは引きずるようにソルを連れ、薬屋を目指す。二人の様子は人並みの中で注目を浴びた。遠巻きに見つめる衆人を掻き分け、走る、走る、走る。薬屋の店主は店先に陳列していた物を店内に運び込み、店仕舞いをしていたところだった。
「店主っ!申し訳ないっ!連れが…店の物に手を付けたっっ!」
店頭でいきなり膝を突き、土下座のグロス。額を地べたにこすりつけながら、ルビーのペンダントを店主に差し出す。呆気にとられながらも、店主はルビーを受け取った。ルビーから離れたグロスの手は、額と同様に地べたに突き、
「品物は返すっ!金も払うっ!こいつにもきちんと謝罪をさせてっ!しっかりと罪を償わせるっ!店主の好きなように使ってもらって構わんっ!だからっ!どうかこいつを…許してやってくれっ!」
ずぶ濡れになって地面に膝をつき、その額さえ地に擦り付けるようにして謝る主の姿を見せつけられて、ソルは硬直したように動けない。王の子なのに頭を下げているの?…下げさせているのは私?と、涙が溢れてきた。
「ごめんなさい。すごく素敵で…このペンダントがあったらマスターが『綺麗だね』って微笑みかけてくれるって思ったの。盗られたおじ様の気持ち、考えてなかった。本当にごめんなさい」
グロスの隣でペタンと座り込み、主よりも低く頭を垂れる。そんな二人を見下ろすように、薬屋の主人は立ち尽くしていたが、やがてソルの肩にそっと手を乗せて、穏やかな微笑みを向けた。
「良い主をお持ちですね…雨の中、ごくろうさまでした。もう顔を上げてください」
店主は優しい笑顔を向けて、グロスとソルを立たせた。立ち上がったグロスはずぶ濡れ。もちろんソルもずぶ濡れ。そんな二人に店主はタオルを差し出す。
「お嬢ちゃん、ちょっとこっち来て」
店主は意味深な笑みを浮かべ、ソルを店の裏手に連れていく。そこには店とは別棟の小さな建物があった。ちょっと立て付けの悪いドアを開けると、薄暗い物置の照明を点ける。
「ここ…物置なんだけどね。掃除…頼んだよ」
掃除をしているソルを見つめている店主に、グロスは金貨の入った袋を渡す。中身を見た店主は「こんなにもらえない」と押し返そうとしたが、グロスは「受け取って欲しい」と一点張り。渋々受け取る店主。ソルはポロポロ涙を零しながら、埃臭い物置の中を掃除し散らかり放題の箱やら紙やらを片付けていく。
どれほど時間がたった事だろう。店主の「もういいよ。綺麗になったね。ありがとう」の一声に、ソルもようやく笑顔を取り戻したようだ。帰ろうとする二人に店主は「忘れものですよ」と声をかける。首を傾げたソルに、先ほどのペンダントを差し出して、
「お金は払ってもらったからね。お買い上げ、ありがとう」
「いいの?私のなの?」
店主が差し出したペンダントを穴のあくほど見てから破顔一笑。でも、グロスの怖い顔を思い出して、お伺いをたてるように見上げると…グロスは黙って頷いた。ソルは嬉しそうにペンダントをつける。
「あの…マスター。マスターは悪くないのに、マスターに頭を下げさせました。恥をかかせました。このような事、二度と…致しません。我が儘なのは解っています。でも、私はマスターのお側以外では生きられません。お許しください」
ソルの下げた頭を、大きな手でクシュクシュと。過ちは誰でも犯すもの。大切なのは、それをどう処理するかだ。もう二度と、ソルはこんな事をしない。ソルがそれを解ってくれれば、それでいい。グロスが床に這いつくばった光景はソルの胸を抉った。主の強い視線を、今度はしっかり受け止め深々と頭を下げる。グロスも改めて店主に頭を下げ、二人は見送られて店を後にした。
「お前…腹減っただろ。さっき、ろくに食わなかったからな。飯、行くぞ。俺はさっきたらふく食ったから、ラム酒だけでいい。お前は好きなだけ食え」
「グロス…。ごめんなさい!本当は…グロスに笑って欲しかったの。あんなおっぱい大きい人が好きなのかなって思ったら、胸が苦しくて。私のはあそこまでは大きくないから、胸元を飾りたくて…」
許された安堵で涙腺が崩壊した。泣きじゃくりながらグロスの背中にしがみつく。しゃくりあげながら入ったレストランでは遠慮なく食べた。泣きながら、時々思い出したように「ごめんなさい」と呟く。そして、ふと思い出したように、泣きすぎて腫れた目のまま笑った。
「女は殴らないって言ったのに、殴ったじゃない」
「それは…主の愛の鞭だ。俺だって…殴りたくて殴ったんじゃない」
ソルはそんな恨み言を零しながら、まだ指の痕の消えない頬を押さえる。確かに、ソルの頬は赤く腫れていた。まだ痛みもあるかもしれない。でも、背中の紫とは違う。時間が経てば…きれいに消える事だろう。
「ソル…ペンダントで飾らなくたって…お前は充分可愛いから。つまらない心配…するな」
「解ってる。殴らせるまでの事をしたって、ちゃんと解った。反省してる」
やはりあの洗濯係が気になっていたのだろう。確かに大きな胸は魅力的だったが、ソルを放り出すほどの価値なんてないと思っていた。今はまだ幼さが抜け切れないが、成長すれば…魅力的になる…はず…。
飯屋を出ると雨は上がっていた。空にはまだ分厚い雲が立ち込めているが、風が出てきたのか結構な速さで流れていく。
「ソル…宿に戻ったら荷物をまとめろ。そのまま…出発するぞ」
「もう、出発?心得ました、マスター!」
元気よく答えると、迷いの吹っ切れた笑顔で頷き、嬉々として荷物をまとめた。ここを出れば洗濯姉ちゃんに会わなくてもいいのも嬉しい。
荷物をまとめてフロントに行けば、洗濯係が目を丸くしている。どうやらフロント係もやっているようだ。まとめた荷物を見れば、チェックアウトは一目瞭然。
「これから…出発ですか?」
「あぁ。雨が止んだんでね。時間を無駄にしたくないんだ。世話になったね。会計を頼む」
「妹さん、そのペンダント…買ってもらったの?良かったわねー」
会いたくなかったし、グロスに会わせたくなかった相手。あのオンナを見てからムシャクシャが止まらなくて、あんな事になったのに。なんで洗濯女がこんなところに?と、ソルは頬を膨らます。おっぱいにばっかり栄養が行って、頭が悪いんじゃないの?心の中で悪態をついた。そんなソルをチラ見しながら、洗濯係はくすくす笑った。洗濯係の口調はまるでソルを見下すような。クスっと笑うのは大人の余裕?そんな洗濯係の嘲笑をぶちのめすような鉄槌を食らわせる。
「この娘は妹じゃない。俺の嫁になる女だ。多分、もう少し先の事になるだろうけどな」
「嫁?そうなの?私?」
目を見開いてグロスを見つめ、直ぐに耳まで紅く染まりながら俯いた。ニヤニヤが止まらない。自信を取り戻したソルは洗濯係りの女を見上げると、勝ち誇ったように宣言した。
「いい事を教えてやろう、人間の女。女の価値はおっぱいの大きさでは計れない。大事なのは感度だ!」
「いつまでニヤニヤしてんだ。馬から落ちても知らんぞ」
どこまで本心なのかは疑問だが、とりあえずソルの機嫌は治ったらしい。強い雨が上がったばかりで、あちこちぬかるみだらけだ。ソルだけがエスペランサの背に跨り、グロリアスは手綱を握りながら、エスペランサと共に歩く。やがて風に流された雲の切れ間から月の光が差し込んで来た。
「休憩は明るくなってからにするからな。もし寝ちゃいそうになったら…ちゃんと言えよ」
「グロスは大丈夫?疲れたら代わるよ?ね、エスペランサ。私が手綱持っても走り出したりしないよね?」
ある村では病人を治療し、ある町では格闘大会で優勝し、ある国では怪物を討伐したりして…日銭を稼いだ。二人の旅はいくつもの山を越え、いくつもの谷を渡り川を渡って、灼熱の季節が終わる頃…東の果ての国ジャポネスへと辿り着く。
そこは神々の国と言われた伝説の地。そして人々の侵入を許さず、それでも足を踏み入れた者を帰す事はないと言われる秘境であった。
「ここから先は…何があるか解らん。危険な事もあるかもしれん。でも…俺はお前の背中の傷を治してやるから。安心してついて来い。いいな?」
「私の居場所はここしかありません。ここで何が起きても、私が貴方をお守りします。我が主、グロリアス」
いつものようにソルの頭をクシュクシュと撫でる。それが一番、ソルを笑顔にすると解っているからだ。ソルの背中の傷は一進一退。毎日のように背中の膿を絞り出し薬を塗ったが、痣が薄くなる事はあっても消える事はない。決して口に出したりはしないが、時には痛みも感じているようで。何としても治してやりたい。目の前にいる患者を、医者として。確たる自信があった訳じゃない。だが患者の前で医者が不安な表情を見せる訳にはいかないのだ。
「じゃあ…ソル、行くぞ」
伝説の地を踏む事に感慨深げに深呼吸。そして、背筋を伸ばすと主の視線をしっかりと受け止め、ソルは大きく頷く。ここにたどり着くまでに、苦しい事も怖かった事もあったが、主は一歩も揺らがず一瞬も見放そうともせず、自分の隣で笑ってくれていた。
背中の傷が治ろうが、上手くいかずにこのまま朽ちようが、旅を始めた事に僅かの後悔もない。この主に会えたから、自分に矢を放った人間さえ許せる。そんなソルの決意を象徴するかのように、ソルの胸元で赤いルビーが揺れていた。




