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百合姉、――前世での名前は荻野百合奈という。…は、とても愛らしい女性だった。その愛らしさとはぱっちりした目や華奢で小柄な身体など単純な容姿の話であったり、仕草だったり、庇護欲を駆り立てる無邪気さだったり…と、まあ、もて要素たっぷりである。
ただ、我が儘で幼く、傲慢な性格も併せ持つ、なんていうギリシャ神話の女神のような人であった。
癇癪持ちで傲慢で我が儘な彼女は、味方も多ければ敵も多い。
現に好きな人をいたずらに寝取られたと嘆き憤る女性を何人も見てきた。
身内として肩身が狭い私とは対称的に、百合姉はといえばそんな彼女らを挑発するかのように鼻で笑い飛ばした。
『付き合ってるわけでもないのに何文句言ってるのかしらね?それに私は何もしてないわ。向こうが勝手に私の魅力にすり寄ってきたの』とのこと。
このとんでも発言は未だに鮮明に思い出せる。ついでに当時の胃の痛みだって思い出せた。
そんな、決して誉められた性格ではない百合姉だが、妹の私に対しては優しくて世話好きな、いいお姉ちゃんであった。
得意のお菓子作りで私に作ったものを振る舞ってくれたし、小さい頃は歌を歌って聞かせてくれた。
『お前って美人だけど二人の姉ちゃんと比べると霞むよな』とからかってきた(というより完全な事実である)クラスの男子を物凄いスピードで殴り飛ばし、愛らしい顔を鬼の形相へと変え、放送禁止ワードでその男子を罵ってトラウマを植え付けたりと、過激ながらも本当にいいお姉ちゃんなのだ。………本来は。
「わあ、貴方騎士なのね?かっこいいわ」
「――恐縮です」
正門から聞こえる、聞き馴染みのある温度差のある男女の声。
そちらを向けば、笑顔全開の百合姉と、先日お会いした前世が同郷のラウル・ブラック様…基、黒田君である。
――――うん黒田君イケメンだしね。本人は鉄仮面の凶悪顔とか嘆いていたが、それだって個性の範疇。むしろそのストイックな感じがいい、という人だっているだろう。その証拠に、百合姉のあの目は確実に『取り巻き要員候補発見!』な目だ。今の百合姉はヒロインというより獲物を狙うハンターだもの。
獲物、否黒田君の表情はといえば、無。
完全なる無。
本人曰く前世に表情筋は落としてきてしまったらしい。言っている内容や声のテンションはまだあどけない高校生ぐらいの少年なのに、表情はまったく動かないのだから最初は驚いた。
相変わらずその無表情を貫いている彼だが、現在のそれは不可抗力のものではなく、強敵にエンカウントした野生動物よろしく警戒していることによるものだろう。だって僅かに後退りしているし。
まあ、ね。
百合姉はたしかに絶世の美少女だけれど、大抵の人は初対面である人にこんなぐいぐいいかれたらよっぽどの肉食系じゃない限り怯むんじゃなかろうか。
つーか百合姉、イケメンに耐性付いてきたのか知らないが、迫り方雑だな。あの百合姉が攻略キャラでないといえどイケメンへの対応が雑とか、乙女ゲームの世界怖い。
「…リノア先輩」
「っ飛鳥!!奇遇ね、こんなところでっ」
私の声に振り向いた彼女はぱあ、と表情を輝かせながら近付き、にこにこと笑っている。可愛い。ちなみに黒田君はまるで縋るような目で私を見てきた。本当ごめんね、うちの元姉が。
「ちょっと話したいことが」
「うんうん、勿論いいわよっ!どこに行く?たしか学園内に素敵な喫茶店が、」
「あ、そうなんですけど……ごきげんよう、ブラック様」
「――ええ、ごきげんよう、オギノ嬢」
「お仕事中ですか?」
「いえ、たった今お嬢様を馬車までお送りするという任務を終えたところです」
ちらちらと私と百合姉を交互に見つめてくる。百合姉といえば、「知り合い?」と言いたげに不思議そうに首を傾げていた。その仕草は可愛い。
「そうでしたか。…よろしければ、お茶にお付き合いいただけませんか?」
「は?」
「……あぁ?」
笑顔で言った私にきょとんとする黒田君。そうなると後者の野太い声は黒田君ではない、百合姉のものだ。
突然の豹変にぎょっと目を剥く黒田君であるが、ギラギラとした殺気の籠もった目で睨まれるその的が自分であることに、まさに開いた口が塞がらない状態となる。おかえり黒田君の表情筋。そして二回目になるけど、本当にごめんね黒田君。
――――――
さて、場所は学園内にあるカフェテラス。
目の前には品の良い香りのする上等な紅茶と美味しそうなフィナンシェ。そしてそして、
「……」
顔色の悪い黒田君と、
「…で?貴方飛鳥とはどういう関係なわけ?」
腕を組み、先程のハンターのような目でも、はたまたいつもの可愛さ全開ヒロインスマイルでもない、まるでどこぞのマフィアのボスのような風格で佇む百合姉がいる。
そういえば、朔姉と二人揃ってイケメン大好きなくせに、私の異性交遊に関しては昭和のお父さん並に厳しかった。
かっこいい人だろうが優しい人だろうが趣味が合う人だろうが、お友達だろうが恋人未満友人以上の関係だろうが恋人だろうが、それはもう当たりがきつい。
この二人はもしかして結束して私を喪女にする計画でも立てているのでは、というくらいに私に男性を近づけさせないのだ。
……ちょうど、今みたいな感じで。
「……百合姉、こちらラウル・ブラックさん。前世は黒田潤君っていって私たちと同じ日本出身の転生者だよ」
ひとまず彼のことを紹介すれば、曲線を描く形のいい眉がぴくりと動いた。
「…へえ、そう。よろしく」
はい、よろしいする気まったくないー。
一瞬驚いたように目を見開いたけれど、先ほどより心なしか温度の下がった眼差しで黒田君を見つめる。
「……黒田君、こちらリノア・トランド先輩。この世界の所謂ヒロインで、前世では私の姉だったので私は百合姉と呼んでます」
それと同時に黒田君は目を見開き、身を構えた。
「…百合姉、彼ね、ラットウィル家に仕えてるの」
「ラットウィル?…なにそれ」
「あんたに親切にしようとしたのに泣かされた貴族のご令嬢だよ…!」
あんまりにも無関心な言い方に、黒田くんが吐き捨てる。
きつく睨みつける彼に、一瞬気圧されはしたが、すぐに応戦するように百合姉も睨み返した。
「……ああ、あの女ね。だってあからさまじゃない?あの女の婚約者も私に尽くすんだもの、私はモブだから興味なかったけど。どうせそれが悔しくて、私にすり寄ろうとしたんでしょ?面倒だから助けないわよ、…あ、それか私に近付いて弱味握ろうとしたとか?」
「っあんたなあ!」
「黒田くん」
立ち上がりかける黒田くんを片手で制する。
……自業自得の節があるといえ、百合姉は女性不信だ。
だからこの発言には悪気がある訳ではない、本心からのものだ。
……まあ、本心だからって許される訳ではないのだが。
「だって荻野さん!あんたは身内だからいいかもしれませんけど、俺は!」
「貴族の学校で君が怒鳴りつけた、なんてあったらメイリー様にもラットウィル家の方々にも申し訳ないよ」
とある貴族に仕える騎士が、貴族の集まる学校の生徒に声を荒げ、無礼な振る舞いをする。それはたとえ百合姉が庶民の出だとしても決して許されるものではないし、主である家の品位さえ疑われる。
それをわかっていたらしい黒田くんは唇を噛み締め、椅子に座る。百合姉はそれを勝ち誇ったように微笑んで見つめている。私はさり気なく、私たちの席一帯に、以前授業で習った防音の結界を張った。これで多少騒ごうが大丈夫なはず、と一度息を吸い込んで、口を開く。
「……あのね、百合姉。私ここにいる彼…黒田くんが好きなの」
「…………は?」
「へっ?」
私の思い切っての言葉に、百合姉は勝ち誇った笑みを打ち消し、信じられないものを見るような目で私を眺め、恐らく私に対して不満と不信を募らせた黒田くんはきょとんと目を見開き、次の瞬間顔を 真っ赤に染めた。
「え、あ、あの荻野さん!?」
「ちょっと飛鳥!なにそれ!初めて聞いたんだけど!そりゃあ多少顔は整ってるけど、こんな地味でつまらなそうな奴…!攻略キャラの方がずっと素敵じゃない!一人くらい貸してあげるから考え直しなさい!あ!でもカイルは駄目だからね!あんななんちゃって腹黒自己陶酔野郎に飛鳥はやれないわ!」
「百合姉やめて。黒田くんは素敵だよ、責任感も強いし、誠実だし、いいこだし、同じ転生者だから話も合う」
「だからってねえ!」
「ただ……黒田くんは好きな子がいるみたい」
「…はああ!?ちょ、何言ってんすか!?」
「ああん…?あんたなに?モブのくせに飛鳥より他の女を取るっていうの?」
「いやいやいや…って、あんたはあんたで俺と荻野さんをくっつけたくないのかくっつけたいのかどっちだよ!」
「あんたと飛鳥の仲は認めないけど、あんたが飛鳥を振るのは許さない。容赦なく無様に振られろ」
「理不尽の極み!つーかカイルってあんたの取り巻きだろ!可哀想!」
……うーん。想像以上にこれは酷い光景だ。
片やピンクやお花が似合いそうな女子力の突き抜けた美少女が瞳孔を開かせ、マフィアの眼光で美少年を見下し、常に無表情のクールビューティーな美少年が顔を真っ青にしつつ力一杯美少女に突っ込んでいる。良かった、防音結界を張っておいて。百合姉の表情は、幸いにもちょうど周囲の死角となっていて見えないし…うんまあ、何やってんだという雰囲気はあるけどしょうがないね!
私はため息を吐いて、更なる爆弾を投下する。
「でもその人、黒田くんのこと別に好きじゃないみたい。…ただ、取り巻きにすると気分がいいからそのままにするって」
「……ああ゛?」
百合姉の地を這うような声に、黒田くんは硬直した。
これは今にでも殺しに行く顔だ。充分だろうと考えて、私はネタばらしをする。
「まあ、嘘なんだけどね」
「嘘…?」
「うん。黒田くんが好きってとこから、最後のとこまで」
「――なあんだ!もう、飛鳥ったら嫌な冗談やめてよっ」
にこにこと笑う百合姉に、私は黒田くんに両手を合わせて頭を下げて謝った。
「黒田くんもごめんね」
「え?あ、いや……年上の女の人って怖い…」
真っ白に燃え尽きたかのように、机に突っ伏す黒田くんに申し訳なくて眉を寄せ、もう一度ごめん、と謝った。
最後の方の百合姉は本当に怖かったもんね。ゲームの主人公?ああ、年齢指定のホラーアクションゲームね、な顔だったもんね。巻き込んで申し訳ない。あと、ご本人がいないとはいえ、副会長にも悪いことをした。
数多くの犠牲を払ったのだから、きちんと百合姉に伝えねば。
「…………で、百合姉。今の話聞いてどう思った?」
「ええ?それは…どうやってその女とそこの男を社会的に抹殺できるかなって」
「怖えよ!」
「うん、要は腹が立ったんだよね?でもね、百合姉。これって私をメイリー様、黒田くんをメイリー様の婚約者様、女の人を百合姉にしただけだから」
しん、と二人が黙り込む。
「っで、でも!飛鳥とあの女じゃ話が違うじゃない!飛鳥は私に媚びたり陥れようとしないもの!」
いやいやと首を左右に振って反論する百合姉にそうだね、と頷く。
「私も百合姉が大好きだからね。でも、メイリー様もそんなことはしなかったはずだよ。昨日、私メイリー様に会ったの。
たしかに婚約者様が百合姉と仲良くしているのを見て心を痛めたけれど、百合姉に優しくしたいと思った気持ちは純粋なものだよ」
「嘘よっ」
「……百合姉、メイリー様は泣いてたよ?ちゃんと謝ろう?」
「いや!」
…首をぶんぶんと振るその姿は、完全に小さい子だ。「飛鳥は騙されてる!」とか「私は悪くない!」などと言っているが、多分本当はわかっているのだ。ただ、それを認めたくないだけだろう。
……本当は、この手は使いたくなかったんだけど。
「……私、自分のした悪いこと認められない人、嫌いだな」
びくっと身体を震わせる百合姉。隣の黒田くんは訝しげに眉を寄せた。
「それできちんと謝れない人も嫌い」
「き、嫌い…?飛鳥、嫌いなの…?」
「うん」
「や、…やだよぉ…!」
ポロポロと目から涙を零す百合姉に、ぎょっとする黒田くん。百合姉は私の手を握りしめ、首を左右に振る。
「あやま、謝るからあ!私か悪かったから、だから飛鳥、嫌いになっちゃやだあ!」
その言葉を聞いて立ち上がり、ひくひくとしゃくりをあげて泣く百合姉の背中をポンポンと撫でる。
「ならないよ」
「…ほ、ほんとに?」
「百合姉は大切な家族だもん、嫌いになんてならないよ。でも…約束してね?ちゃんとメイリー様に謝ること」
謝る、と頷く百合姉の目元の涙をハンカチで拭う。
「……え、まじか」
呆然と呟く黒田くんの言葉に私は頷いた。
まじですよ。私のことを好きでいてくれる百合姉。そんな彼女の一番の弱点は、私の「嫌い」という言葉なんだという。
…そんなことはないと思うのだが、友人や百合姉と一度敵対した方々はみんなそう言って譲らないのだ。――まあたしかに、幼い頃に喧嘩して「お姉ちゃんなんか嫌い」と言ったところ、鼻水を垂らして号泣して謝ってくれたこともあったけど、だからって一番とは大袈裟だ。
これを言うと、まるで百合姉の好意を利用しているみたいなので出来るだけ使いたくなかったのだが、今回は仕方ないだろう。
「ごめんね、びっくりしたね」
「飛鳥のバカぁ!ぎゅってしてくんなきゃ許さないぃ…!」
「はいはい」
…うん、たしかにちょっと百合姉は私に対して甘えたかもしれない。仕方ないんだよ、前世の我が家は共働きで、朔姉とは犬猿の仲、結果甘えられるのは私しかいなかったんだ。だからお願い黒田くん、口パクでシスコン言うのやめて。