エピローグ
彼女が俺のもとにやってきたのは、あれから四年ほど後だった。
相変わらず落ち着いた雰囲気をまとっている彼女は、昔と比べて随分と髪が長くなっている。さらさらと揺れるその髪は、彼女の黒い服に溶けてしまいそうだった。髪や服が黒いせいで、白い肌が浮き立って見える。随分と大人びた表情になった彼女の顔は、まだ化粧っ気がなかった。
乾いたセロファンの音を立てて、ゆっくりと俺に近づく。時間をかけて、ようやくここに辿り着けたことを表現しているかのように。
「――……久しぶり」
初めて聞く彼女の声は、少しくぐもっていた。けれどなぜか澄みきった鈴の音のようにも聞こえる、不思議な声をしている。
彼女は大切そうに抱えていた花束を、ひとつひとつ俺に渡し始めた。白いユリ、黄色とピンクの菊。しばらくそれを無言で繰り返した後、彼女は首を傾げた。
「この花たちは、何か言ってるのかな」
今の私にはもう聞こえないんだと、彼女は笑ってみせる。音も立てずにそよ風が通り過ぎて、俺も少し笑った。
「あの日から人の声も、自分の声も聞こえるようになったの。そうしたら今度は、植物の声が聞こえなくなっちゃった。あれだけお喋りをしていたサボテンも、今は何を言っているのか分からなくて、少し寂しい。――やっぱりこの世界って、そんな都合よくいかないよね」
彼女は笑いながら、一人で話し続ける。――寂しさを和らげるために。
「人の声が聞こえるようになってから、話す訓練をしたの。あなたに、私の声を聴かせたくて。まだまだ聞き取りづらい部分もあると思うし、変な声かもしれないけど……どうかな」
答えられるなら、即答していた。綺麗な声だと思う、と。照れながらでも。
けれど彼女は、俺がもう答えられないことを知っていた。
それでもしばらく俺の返事を待っていた彼女は、溜息を吐くようにして笑うと、黒に近い灰色の墓石にそっと手を当てた。
「――もっと早く、勇気を出しておけばよかった。人の声に、外の世界に、耳を傾けられるようになっていればよかったな……」
怖い言葉もあるけれど、綺麗な言葉もたくさんあったのに。
彼女はそう言うと、小さな鞄から白い携帯電話を取り出した。俺も知っているその携帯は、四年前から使っていたものだ。
彼女は携帯電話を操作すると、耳にあてた。機械的な女性の声が、『録音件数は、一件、です』と前置きする。発信音の後に聞こえてきた音声は、昔の俺が録音したものだった。
『――……好きです』
三秒しかないメッセージには、情けないくらいにひっくり返った声が吹き込まれている。
けれどそれは、最期まで直接言うことのできなかった大切な言葉だった。
彼女は携帯を耳から離すと、正面を向いた。俺の名前が刻まれた墓石に向かって、ふっと笑みを漏らす。
「……私も」
その声は、録音されていた俺の声のように酷く震えていた。
彼女が俺の存在に気付いたのは、帰る間際だった。ゴミの掃除をしているときに、ふと目をやった銀杏の木。生まれて四年しかたっていない俺は、彼女から見てもまだまだ小さくて頼りないものだったと思う。
墓の隣にひっそりと植えられている銀杏に、彼女はふっと笑いかけた。
「また来るね」
今の彼女にはもう、植物の声は聞こえない。
それでも、俺は言うんだ。
『ありがとう』