公表
しばらく、という言葉がどれくらいの長さを指すのか、
ハイドにはよく分からなかった。
炭鉱では、「しばらく待て」と言われたら、
それは数秒か、数分か、あるいは永遠だった。
待っている間に殴られることもあったし、
忘れられて放置されることもあった。
だが城では、
時間は鐘で区切られる。
朝は鐘で起き、
昼も鐘で知らされ、
夕方にはまた別の音が鳴る。
音は同じなのに、
意味が違う。
鐘で起き、
字を書き、
立ち方を直され、
食器を使い、
床に描かれた図で鉄騎を見る。
それを、何度か繰り返す。
何度、という数え方も、
ハイドには曖昧だった。
昨日と今日の区別はつく。
だが、三日前と五日前の違いは、
身体の疲れ方でしか判断できない。
「前よりは、できるようになっています」
そう言われるようになった。
だが、自分では何も変わった気がしない。
文字は、まだ読めない。
線をなぞれば形になるが、
それが何を意味するのかは、頭に入らない。
椅子に座ると、
時々、無意識に床を探す。
足の裏で、
冷たい石の感触を探してしまう。
食事の匂いを嗅ぐと、
考える前に、口が動きそうになる。
手を伸ばすより先に、
身体が前に出ようとする。
それでも、殴られない。
怒鳴られない。
怒号の代わりに、静かな声が飛んでくるだけだ。
「大丈夫です」
「ゆっくりで構いません」
「今は覚えなくていい」
その言葉が、
逆に、落ち着かなかった。
何かを失敗しても、
代償が来ない。
代わりに、
次の鐘が鳴る。
それだけで、日々は流れていった。
その日も、
朝の教育が終わり、
部屋に戻ろうとしていた時だった。
廊下の向こうが、
やけに騒がしかった。
普段は、
足音は少ない。
人は必要な時しか動かない。
だが今日は違う。
足音が多い。
しかも、重い。
革靴の音。
金属が擦れる音。
鎧が触れ合う、鈍い響き。
抑えきれないざわめきが、
石造りの廊下に反響している。
「……なんか、ある?」
ハイドが呟くと、
すぐ隣を歩くイーリスが答える。
「本日、王都全域に向けた公式発表があります」
「……こうしき?」
言葉の意味が、まだ曖昧だ。
「国としての決定事項です」
それだけで、
空気の重さが伝わってきた。
城の中庭に出ると、
すでに人が集められていた。
貴族。
騎士。
文官。
衣装の違いで、
役割が分かる。
遠巻きに、
城に勤める者たち。
調理係。
書記。
雑務を担う者。
誰もが、
落ち着かない顔をしている。
普段は静かな中庭が、
人の気配で満ちていた。
ハイドは、その端に立たされた。
前に出ろとは言われない。
だが、下がれとも言われない。
視線の置き場に困る。
自分は、
ここにいていいのか。
それとも、
見えない場所に行くべきなのか。
判断できないまま、
立っているしかなかった。
しばらくして、
高台に女王が現れる。
シャルロット女王。
赤い衣装。
装飾は控えめだが、
線が整っている。
背筋を伸ばし、
群衆を見下ろすその姿は、
炭鉱で見た監督官とは、
似ても似つかない。
監督官は、
力で上に立っていた。
女王は、
位置で上に立っている。
女王が手を上げると、
ざわめきが、
まるで布を被せたように引いた。
「皆に告げます」
声は、
遠くまで届く。
怒鳴ってはいない。
だが、逆らう余地がない。
「我が国は、新たな教育機関を設立します」
一瞬の沈黙。
誰もが、
続きを待っている。
「貴族の長子を集め、
文字、計算、歴史、
そして鉄騎の操縦を含む、
体系的な教育を施す学園です」
言葉は、
選ばれていた。
曖昧さがない。
ハイドは、
内容よりも、
その断定の仕方に圧倒された。
これは、
相談ではない。
議論でもない。
決定だ。
「これより先、
鉄騎は血筋や偶然で動かすものではありません」
その一言で、
空気が一段、重くなる。
何人かの貴族が、
無意識に姿勢を変えた。
「量産型鉄騎は、すでに我々の手にあります。
特にサクス型は、
マスタースレイブ式の制御を採用し、
射撃時、腕部は自動制御されます」
専門的な話を、
女王は公の場で語る。
それ自体が、
意思表示だった。
「つまり、操縦者に求められるのは、
力ではなく、判断です」
判断。
その言葉に、
はっきりとした緊張が走る。
「だからこそ、
学びが必要です」
女王の視線が、
一瞬だけ、
ハイドの方へ流れた。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
「生まれによって、
学ぶ者と、学ばされない者を分ける時代は終わります」
ざわめきが、
不満の色を帯びる。
「これは、王命です」
その一言で、
反論は終わった。
ハイドは、
胸の奥が、
わずかにざわつくのを感じた。
自分のことを、
言われている気がした。
だが、分からない。
学園。
教育。
判断。
どれも、
まだ自分には遠い。
発表が終わると、
人々は小声で話しながら散っていく。
「貴族だけだぞ」
「長子限定だ」
「操縦訓練まで含めるのか……」
断片的な言葉が、
耳に残る。
自分は、
そこに含まれていない。
それだけは、
感覚的に分かった。
部屋へ戻る途中、
ハイドはイーリスに聞いた。
「……俺、関係ある?」
イーリスは、
わずかに間を置いた。
「直接的には、ありません」
「……そっか」
胸の中に、
何かが落ちる。
安堵なのか、
落胆なのか、
自分でも分からない。
「ですが」
イーリスは続けた。
「この学園は、
あなたの存在を前提に設計されています」
ハイドは、
足を止めた。
「……俺、何もしてない」
「はい」
即答。
「あなたは、選ばれただけです」
その言い方が、
少しだけ重かった。
部屋に戻り、
ハイドは椅子に座る。
前より、
自然に。
外では、
国が動いている。
学園ができる。
人が集められる。
鉄騎を動かすために。
だが、ハイドはまだ、
字をなぞることしかできない。
「……遠いな」
ぽつりと呟く。
イーリスは、
何も返さなかった。
学園設立は公表された。
それは、
この国が、
元には戻らないという宣言だった。
ハイドはまだ知らない。
この場所が、
やがて彼自身を、
否応なく中心に据えることを。
その日の終わりは、静かに、しかし確実に訪れようとしていた。
学園設立の公表が終わり、
城内には微妙な緊張感と夕刻の光が大きな窓から差し込んでいた。
廊下を歩く人々の足音はいつもより静かで、誰もが言葉を選びながら、ある種の沈黙のルールに従っているようだった。
ハイドは自室にいた。
小さな木の机の前に腰を下ろし、紙と筆を手に、文字の練習を続けていた。
線はまだゆがんでいる。
まっすぐとは程遠く、何度も筆を置き、書き直すたびに手が震えた。
だが、最初に比べれば、確かに進歩していた。
文字の形が紙の上で、わずかに意味を持ち始めている。
「……これ、字なんだよな」
小さな独り言が口から漏れる。自分でも、あまり意味のない言葉だと思った。
しかし、その声は、自室の静けさの中で、確かに響いた。
「はい」
返事は即座だった。声の主は、イーリス。
今日もいつもの場所に、静かに立っている。
姿勢を崩さず、視線だけをこちらに向け、無言の圧を感じさせる。
彼女の存在は、もはや背後の空気の一部のようであり、しかし目の前にある現実の鋭さを示していた。
その瞬間、扉がノックされた。
軽く、だがためらいのない、確信を持った音。
ハイドの胸が一瞬、跳ねる。
「ハイド」
女王シャルロットの声だった。
いつも穏やかさや威厳の混ざった声とは違い、どこか鋭い響きがあった。
胸が、きゅっと縮む。
呼吸が、一瞬止まった気がした。
「……はい」
自然と返事が出る。無意識のうちに背筋が伸びる。
そして、扉が静かに開かれ、女王が一人で入ってきた。
護衛は、いない。
この城で、女王が単身で部屋に入ることは異例中の異例だった。
それだけで、ただ事ではないということが、ハイドには理解できた。
「急で悪いのだけれど」
女王は、淡々と、しかしはっきりと言った。
「今日中に、あなたの立場を決めます」
その言葉の重さに、ハイドは言葉を失った。
「……たちば?」
「ええ」
女王は、迷いなく続ける。
「あなたを、私の近衛騎士とするかどうか」
騎士。
剣を持つ者。
命じる側の人間。
炭鉱で、頭を下げるしかなかった自分とは、まったく逆の存在だ。
「……俺、無理だと思う」
正直な言葉が、口から漏れた。
剣の持ち方も知らない。礼儀もわからない。
文字すら、まだ完全には読めない。
そんな自分に、騎士になる資格などあるはずがなかった。
女王は、その返答を予想していたかのように、表情を変えなかった。
彼女の目は、冷静に、しかし確実にハイドを見据えていた。
「ええ。普通に考えれば、無理でしょう」
否定ではなく、ただ事実を述べるだけ。
だが、その言葉は、不思議と重く、胸にのしかかった。
「だからこそ、反対する者がいます」
女王は窓の外に視線を移す。
夕暮れの光が、彼女の横顔を淡く照らしていた。
「保守派の貴族たちです。
彼らは、あなたが近衛騎士になることにも、学園に関わることにも、強く反対しています」
「……俺のせい?」
「いいえ」
即答された。言葉には迷いも、含みもない。
「彼らが守りたいのは、身分と既得権です」
女王は、淡々と告げる。
その声の中に、怒りや苛立ちはない。ただ、確かな事実としての説明があるだけだった。
「ですが、彼らの言い分も形式上は正しい。
あなたは、身分も教育も、騎士に相応しくない」
胸が、きゅうっと痛む。
分かっていたことだ。
分かっていたことを、改めて口にされただけなのだ。
「……じゃあ、どうするの」
女王は、ここで初めて、わずかに笑った。
その笑みは、楽しげでも、優しげでもない。
どこか冷たく、鋭く、しかし計算された印象を伴っていた。
「決闘です」
その一言で、空気が変わった。
部屋の中の空気が、重く、そして鋭く、静かに波立つ。
「……けっとう?」
「ええ」
女王は、さらりと答える。
言葉の端々に、迷いはない。
「保守派の代表が一人、あなたの近衛騎士化に反対しています」
「その者と、あなたが決闘を行います」
ハイドの思考が、完全に停止した。
「……俺が?」
「はい」
「……剣とか、無理だって」
「安心なさい」
女王は、驚くほどあっさりと言った。
「剣ではありません。
鉄騎同士の決闘です」
その瞬間、心臓が大きく鳴り、喉が乾いた。
炭鉱から逃げたあの日、量産型に追われたあの谷で捕まった時、感じた恐怖が、体の奥から蘇る。
「……勝てない」
「勝てばよいのです」
女王は、条件を告げた。
「あなたが勝てば、正式に私の近衛騎士となり、学園への入学資格を得ます」
「負ければ?」
「あなたは、城を去ることになります」
逃げ場は、存在しない。
「……今日?」
「今日です」
女王の目が、静かに、しかし鋭く、ハイドを射抜く。
「反対派が動き出す前に、既成事実を作ります」
ハイドは、思わず床を見つめる。
逃げたい気持ちはある。しかし、炭鉱に戻る選択肢も、もはや存在しない。
「……俺、操縦とか、分かんない」
女王は、ゆっくりと、しかしはっきりと言った。
「あなたは、すでに一度、鉄騎を動かしています」
「……勝手に動いた」
「それでも、生き延びたのです」
女王の目には、迷いはなく、ただ事実としての評価があるだけだった。
「それは、才能です」
才能――そんな言葉が、口に出されるのは初めてだった。
誰も、炭鉱で、教えてくれなかった言葉。
「……相手は?」
「量産型鉄騎の正規操縦者です。貴族の嫡男。訓練経験もあります」
完全に不利な条件。
ハイドの喉が渇き、手のひらに汗が滲む。
「……俺、やらされてる?」
「はい」
女王は嘘をつかない。
「ですが――」
一拍置いた。
「あなたが拒否するなら、私は別の方法を取ります」
その意味は、聞かなくても分かる。
もっと血なまぐさい、容赦のない方法だ。
ハイドは、深く息を吸った。
炭鉱では選択肢はなかった。ここでも、ない。
だが、違うのは――少なくとも、理由を説明されていることだ。
「……分かった」
小さな声。震えながらも、自分で選んだ意思のように出た言葉。
女王は、満足そうにうなずいた。
「では、今から準備に入ります」
立ち上がり、扉に向かう。
その前に、振り返った。
「ハイド」
「……なに?」
「あなたは、私の賭けです」
それだけ言って、女王は部屋を出た。
残されたのは、夕暮れの光だけが差し込む静かな空間。
ハイドはベッドに座り込んだ。手が、少し震えている。
どうしよう、どうしたらいいのか、わからない。
心臓の音だけが、部屋に響いていた。
「……どうしよう」
イーリスがすぐ横に立つ。
無表情で、しかし存在感は圧倒的だ。
「決闘に向け、必要な情報を提供しますか」
「……助けてくれる?」
イーリスは、一瞬だけ間を置いた。
そして、ゆっくりと答える。
「私は、あなたの道具です。
あなたが望むなら、勝利の確率を最大化します」
ハイドは、窓の外を見る。
沈みかけた夕陽が、城の白い壁を赤く染めていた。
今日のうちに、自分の人生がまた変わる。
逃げ場はない。だが、今度は選ばれる側だ。
「……勝ちたい」
小さく、しかし強く、言葉を絞り出す。
イーリスは、静かにうなずいた。
「了解しました」
決闘は、今夜。
逃げる場所は、もうない。
ただ、鉄騎の上で、選択をするだけだ。




