8対1
ルートヴィヒは、天井を見つめたまま、ぴくりとも動かなかった。
白い。
ただ白いだけの天井。
学園医務室のそれは、異様なほど均一だった。塗りムラも、ひびも、過去に何かをぶつけた痕もない。まるで最初から「何も起こらない場所」として設計されたかのように、完璧に整っている。
その整いすぎた平面が、逆に腹立たしかった。
ここには敗北の跡がない。
ここには焦げも、歪みも、衝撃の痕跡も残っていない。
自分の中で起きた崩壊だけが、どこにも記録されずに浮いている。
――話が違う。
その言葉が、何度も何度も、頭の中で反芻される。
五機。
父はそう言った。
「五機で取り押さえた機体だ。
近衛が数を揃えてようやく制圧した」
誇張でもなく、淡々とした口調だった。
そこに不安はなかった。
分析は終わっている、という確信の響きがあった。
だから、八機にした。
三機多い。
余裕を持った。
過剰戦力と言われても構わなかった。
それも、実戦装備。
演習という名目はあくまで表向きで、実態は私戦だった。
だが、勝てない理由はないはずだった。
包囲。
連携。
奇襲。
理論上、負ける要素は存在しなかった。
それなのに。
「……負けた」
口に出すと、喉がひくりと鳴った。
その二文字は、想像よりも軽かった。
だが、その軽さが余計に現実味を帯びていた。
理解が、追いつかない。
⸻
目を閉じる。
すると、決闘場の光景が、あまりに鮮明に蘇る。
砂塵。
熱。
金属の軋む音。
囲んだはずだった。
完璧な包囲だった。
逃げ場はなかった。
退路も、隙間も、死角もない。
八機が円を描き、中心にあの鉄騎――デュークを閉じ込めた。
勝利は確定したはずだった。
なのに。
止まらなかった。
速いわけではない。
突出して重武装でもない。
新型特有の奇抜な機構もない。
だが、倒れない。
一機が崩れる。
次の瞬間、その空いた位置を利用して間合いを変える。
二機が機能停止する。
動きが乱れるどころか、むしろ無駄が削ぎ落ちる。
数が減るほど、洗練される。
あり得ない現象だった。
「……おかしいだろ」
ルートヴィヒは、ベッドの縁を強く握る。
指先が白くなる。
八機だ。
八機で負ける理由がない。
戦術は正しかった。
指示も的確だった。
機体性能も劣っていない。
それなのに、結果だけが理屈を裏切った。
⸻
「五機で抑えた」
父の言葉が、今になって異様な重みを帯びる。
抑えた。
倒した、ではない。
破壊した、でもない。
その差を、今さらになって思い知る。
「……拘束しただけか?」
五機で押さえつけただけ。
動きを止めただけ。
勝ったわけではない。
だが父は、それを勝利のように語った。
いや。
父だけではない。
保守派全体が、そうだった。
「あれは数で抑え込める遺物だ」
「操縦者が特別なわけじゃない」
「炭鉱奴隷に扱えるものなど、たかが知れている」
その言葉は、分析ではなかった。
願望だった。
信じたい物語だった。
自分たちの優位を保証するための、都合のいい解釈。
ルートヴィヒは、それを疑わなかった。
疑う必要がなかった。
自分は貴族であり、正統であり、訓練を受けている側なのだから。
⸻
「……違った」
歯を食いしばる。
あの機体は、数で抑える対象ではない。
戦場に出た瞬間、構図そのものを塗り替える存在だ。
包囲は意味を失い、
優位は錯覚になる。
しかも。
「……あの女」
もう一つの違和感が、記憶の奥から浮かび上がる。
イーリス。
戦闘中、明確な変化があった。
デュークの動きが、一段、洗練された瞬間。
軌道の選択が速くなり、
無駄が消え、
予測が外れ始めた。
あれは、操縦者一人の変化ではない。
「……二人で一機、か?」
その可能性に、初めて正面から向き合う。
鉄騎は、一人で動かすもの。
それが常識だ。
操縦桿は一つ。
判断は一つ。
意思も一つ。
だが、あの戦いには、明らかに“二つの意思”があった。
操縦者の直感と、
別の何かの計算。
それが噛み合った時、
あの機体は別の存在になる。
⸻
父の顔が浮かぶ。
余裕のある笑み。
「安心しろ。
あれは、力を揃えれば止まる」
断言だった。
迷いはなかった。
ルートヴィヒは、その言葉を信じた。
父は間違えない。
父は戦を知っている。
父は歴史を知っている。
そう思っていた。
「……俺は、正しかったはずだ」
自分は間違っていない。
戦術は合理的だった。
だが、結果は否定する。
敗北。
完膚なきまでの敗北。
言い訳ができないほど、明確な差。
力の差ではない。
理解の差だ。
⸻
「……報告書は、どうなる」
学園側は正式な発表をしていない。
処分も未定。
だが、噂は回る。
八機で負けた。
奪われた武装で倒された。
演習の枠を超えても、止められなかった。
それらは、すべて事実だ。
ルートヴィヒは、笑えない。
「……父は、どう言う」
想像はつく。
「運が悪かった」
「相手が卑怯だった」
「女王の差し金だ」
どれも、責任を外に置く言葉だ。
だが――
ルートヴィヒは、もう気づいている。
⸻
「……五機で抑えた、か」
それは勝利ではない。
ただの応急処置。
危険物を、とりあえず縛っただけ。
それを、保守派は“勝ったこと”にした。
そして、自分も信じた。
その結果が、これだ。
「……次は」
言いかけて、止まる。
次があると思っていること自体が、甘い。
あの機体は、対策を立てれば立てるほど、
こちらの常識を破壊してくる。
包囲が通じない。
数が優位にならない。
恐怖が連鎖しない。
戦場の前提が、崩れる。
ルートヴィヒは、初めて、はっきりと認識した。
恐怖。
敗北ではない。
理解できない存在への恐怖。
「あれは……怪物だ」
操縦者だけではない。
機体だけでもない。
組み合わさった存在そのものが。
⸻
医務室の扉の向こうで、足音が止まる。
見舞いか。
監視か。
様子見か。
ルートヴィヒは、目を閉じたまま動かない。
まだ、整理がつかない。
ただ一つ、確かなことがある。
父の話は、正しくなかった。
そして、その誤りを信じた自分は――
次に同じ前提で挑めば、確実に死ぬ。
それは理屈ではなく、直感だった。
白い天井の下で、ルートヴィヒは初めて、自分の世界が揺らいでいることを理解していた




