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部屋の秘密

 「院長先生」と呟いて、フィオナさんは尻込みするように足を半歩だけ下げた。けれどそんな彼女の様子に気づくこともなく、院長はフィオナさんとの距離をグッと縮める。


「フィオナよね?そうなのよね?」


 彼女の頬に手を当てて、視線を合わせて、彼女の名前を呼ぶ。まるで生き別れた親子の再会を見ているような光景だった。

 フィオナさんは少し気まずそうに視線をずらして、


「えぇ。お久しぶり、院長先生」


 と答えた。

 急に小さく、しおらしくなったフィオナさんに、院長を除く私たち三人はまだ少し戸惑っていた。


「今までどこに……いいえ、それよりまず怪我や風邪はひいてない?お腹を空かせていない?……あぁ、これも違うわ。この日を待ち望んでいたはずなのに、こんな時に限って言葉が見つからない」

「……私、もう子供じゃないわ。それに、ここには半年ほどしかいなかったし」


 目尻に涙を滲ませる院長とは対照的に、フィオナさんは再会をあまり喜んでいるようには見えなかった。施設を抜け出した手前、やっぱり気まずいのだろうか。それとも院長に対してさほど親しみを感じていなかったのだろうか。彼女の胸の内を知るには、私たちはまだ出会って日が浅すぎた。


「ここで過ごした時間なんて……あら?フィオナ。それって、」


 院長がそう言って視線を向けた先には、フィオナさんの腕の中に収まる一冊の絵本があった。フィオナさんは突然話の矛先が逸れたことに驚きつつも、院長におずおずと本を差し出した。


「勝手に持ち出してごめんなさい。できれば譲ってほしいのだけど、無理にとは言わないわ」


 院長は一度フィオナさんから本を受け取った。そして目を細めながら懐かしそうに見つめたり、表紙を指でなぞったりしながらしばらく過ごしたあと、フィオナさんの手にそっと本を返した。


「これはあなたにあげるわ。わざわざ取りに来たってことは、あなたにこの本が必要なのでしょう?」

「……いいの?でも私、この本をもらっても大事にできないかもしれない」

「そう。でもいいわ。大事なのは、この本が今のあなたの助けになることだもの」


 院長の言葉を聞いてなお、フィオナの心は晴れないようだった。「でも、」と引き下がろうとする彼女の口元に、院長は人差し指を当てて「しーっ」と小さな子供に言い聞かせるようにフィオナさんの口を閉じさせた。


「この部屋が、どうして物置のようになっているか知っている?」


 フィオナさんは首を振った。当然、ここにいる誰もがその理由を知るはずもない。

 院長は優しく微笑み、まるで絵本を読み聞かせるように私たちにこの部屋の秘密を語ってくれた。


「この部屋はもともと、ただの空き部屋だったの。だけどある時、この施設を巣立つことになった一人がこの部屋に宝物を置いていった。“いつか必ず取りにくる“と言って。次に巣立つことになった子も、それを真似て宝物を置いていった。次の子も、そしてまた次の子も。壊れたピアノを貰ってもいいかと言われた時には、少し困ったりもしたわね」


 そう言って微笑む院長の目元はこの上なく優しげだった。きっと彼女のもとで暮らした子供たちは幸せだっただろう。そう思わせるほどに、彼女の表情はあたたかだった。


「その絵本もそう。とある女の子の宝物だったものよ。そうやって、この部屋はできあがったの。……だけど、大人になった彼らがここを訪ねてくることはなかった。忙しいのかもしれないし、ここでの日々を忘れてしまったのかもしれない。少し淋しいけれど、仕方のないことよ」


 淋しげに視線を下げたあと、院長は「でも、」と言ってフィオナさんを見つめた。


「でも、今日はあなたが来てくれた。それもずっと探していた、とびきりやんちゃな子が」


 そう言って院長がフィオナさんの手をそっと包み込む。


「おかえり。フィオナ」


 そう言われて、フィオナさんはきゅっと唇を結んだあと、ゆるゆると困ったように眉を下げながら


「……うん。ただいま。黙っていなくなっちゃって、ごめんなさい」


 と言った。

 私たちはその様子を見届けてから、そっと部屋を出た。きっとこれからが、彼女たちにとって本当の再会だ。それを邪魔する気にはなれない。

 そして部屋の扉をそっと閉じる時、私は初めて、フィオナさんの心からの笑顔を見た気がした。



◯



「ねぇ、どうしてあの本に彼女の心が隠されてるって気づいたの?」


 帰り道、リロイさんは私に尋ねた。私は「そうですね」と言ってから、ことの次第を話し始めた。


「本当にフィオナさんが心を“いらない”と思ったのであれば、捨ててしまえばよかったんです。だけど彼女は、心は“置いてきた”と言いました。それならきっとフィオナにとって心は、捨てるに捨てられないものだったのでしょう」


 そう言うと、リロイさんは少し納得したように「確かにそうかもしれないね」と答えた。


「だけど、隠した場所が絵本だとは限らないよね何かの箱の中かもしれないし、机の引き出しの中かもしれない」

「そうですね。だけど私なら、適当な場所に自分の大事になものを隠したりしません。絶対に見つからない場所か、見つかっても開けられない丈夫な箱の中、あるいは思い入れのあるもの……」

「思い入れのあるもの?」


 ノアが首を傾げて、私は頷いた。


「ありふれていて、且つ思い入れのあるものです。特別な宝石が手元にあるとして、適当な紙袋の中に入れる人はいないでしょう?特別なものなら、特別な箱を用意するはずです」

「でもあの絵本は、彼女が偶然開いた本に過ぎないだろう?」

「はい。でも偶然開いた本が、彼女を孤児院から飛びだす決意をさせました。人生を変えるきっかけなんて、意外とそんなものなのかもしれませんよ。本の中のたった一行だったり、たった一人との出会いだったり。彼女にとってはそれが、あの絵本だったということです」


 ノアは「ふぅん」と言ってから、「ちょっとだけその気持ちがわかるかも」と言った。実際、本当のところはフィオナさんにしか分からない。あるいは彼女自身、どうしてあの絵本に心を隠したのか分かっていないのかもしれない。


「ところで、フィオナさんの処遇はどうなるんですか?」

「あぁ、うん。それがさ、彼女の言葉を信じるなら被害者にはもう心臓が戻っているわけだろう?だからなのか、誰も被害を訴えていないんだ。唯一被害がはっきりしているリロイは『自分のミスなので』の一点張りだし。被害者が出てこない、証拠もないじゃどうしようもないからね。このまま被害者が名乗り出て来ないのであれば、彼女はこのまま無罪放免だ」


 その言葉を聞いて、私は少しだけホッとした。彼女は悪いことをしたと分かってはいても、できることなら穏便に終わらせたいと願うのは、彼女に少し同情したからなのかもしれない。


(どうか彼女たちの再会の喜びが、末永く続きますように。)


 そんなことを考えながら、私たちは茜色の帰り道を歩いっていった。

四部はここまでにします。

楽しんで読んでもらえていたら嬉しいです。

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