君と話がしてみたい
この本屋に入るのは初めてだった。
広場の前にある小さなお店。店の中は薄暗く、所々に設置されているランプが、オレンジ色の光を灯しながらやさしく手元を照らしている。専門書のような難しい本もあれば、奥のほうには子ども向けの童話集もあった。小さな店に、たくさんの世界が詰まっている。たとえ関心のない本であったとしても、ただ何となく背表紙を眺めたり、手にとってはじめの数行に目を通したり、そういう時間が私は好きだった。
とはいえ、今日はここへ依頼のためにやって来たのだ。
本がたくさんあるし、店主が猫を飼っているらしい。何よりこの店の前は広場なので、午後の日差しをたっぷり吸い込んだ魔女の木の緑がよく見えた。私が占った内容と重なる場所として、まず頭に浮かんだのがこの店だった。
「失礼。尋ねたいことがあるんだが、いいかな?」
先に店の奥に進んで行ったのは、ノア王子の方だった。彼は私が思っていたよりもずっと世話焼きだったらしい。彼の頭の中では、先日の教会での出来事が浮かんでいるに違いない。そんなこと、私は今さら気にしてなんていないのに。
声をかけられた店主は、カウンターに山積みにされた本の隙間からひょっこりと顔を出した。小さな丸めがねを掛けた、白髪のおじいさんだった。彼は話しかけたノア王子よりも、反射的にローブのフードを深く被った私の方に興味が向いたらしく、カウンターから出て来たかと思うとずんずんと私の方へ歩いてくる。顔を覗き込まれて、私は後ずさった。
「予言の魔女のところの娘だね?」
「……え?」
私はポカンとした。とても間抜けな顔だったと思う。ついでにすっかり無視されてしまったノア王子も同じようにポカンとしていたので、私たちは二人そろってすっかりこのおじいさんのペースに巻き込まれてしまっていた。
予言の魔女というのは、一緒に暮らしていたおばあさんのことだ。占いが得意で、かつてあの店で占いの店を開いていたことから予言の魔女と呼ばれるようになった。
「……どうして、おばあさんのことを?」
「おばあさん?あっはっは。君は騙されていたんだね。彼女は父の代だった頃からこの店の常連だったが、ずっと若々しい娘のままだったよ。燃えるような赤い髪がとても美しかった」
「赤い髪……」
驚いたというより、何から驚けばいいのか分からなかった。
私の知るおばあさんは豊かな白髪をいつも緩い三つ編みにして後ろに下げていたし、骨ばった皮膚の薄い、細い手をしていた。何もかもが白いおばあさんの宝石のように輝く緑だけが、彼女に色を与えていた。私の中のおばあさんは、そういう人だった。
「予言の魔女は、自分がこの世を去ったあと弟子の魔女がこの店へ来るだろうと言っていたよ」
「おばあさん……いえ、予言の魔女が?」
「あぁ。……彼女は、亡くなったんだね」
「はい。一昨年の春に」
おじいさんは少し淋しそうに微笑んだあと、「少し待っていなさい」と一言残してから一度店の奥へ引っ込んで行った。しばらくして再び戻って来たおじいさんの手には何かが握られていた。……手紙だ。おじいさんはそのシンプルな白い便箋をそっと私へ差し出した。私はおじいさんの目が少しだけ赤くなっているのに気づかないふりをして、その手紙を受け取った。便箋の裏側には「エマへ」と、おばあさんの字で書かれている。
「預かりものだよ。君が来たら渡してほしいと言って置いていったんだ。彼女はよくこの店に来たけれど、世間話の一つもしたことがなかった。そんな彼女からの初めての頼まれごとだったから、内心、少し嬉しくてね。でも後から考えてみたら、自分が死んだらなんて物騒な話だろう?だから、ちゃんと話を聞いてみようと思ったんだ。次この店に来たら、って。……彼女は来なかった。馬鹿だなぁ。話をする機会なら、今までたくさんあったはずなのに」
おじいさんの瞳は、他人の背中を見つめる誰かのまなざしに似ていた。そこには淋しさと、茹だるような熱と、形になり損ねた情だけが静かに横たわっている。
たとえおじいさんがその一歩をもう少し早く踏み出したところで、きっと結果は変わらない。おばあさんは変わらず同じ日の、同じ時刻に天国へ旅立っただろうし、二人の間に今さら友情が芽生えたとも思えない。それでも、もう二度と取り戻せないその瞬間を、私は切なく思った。
「予言の魔女からの手紙は、弟子のエマが確かに受け取りました。手紙を届けてくれて、どうもありがとう」
おじいさんは笑った。
そして目尻に滲んだ滴をそっと拭ったあと、「あぁ、そういえば」と口を開いた。
「そういえば、君たちは何か用があったんじゃないのかな」
◯
「結局、この店は関係ありませんでしたね」
店の外に出て、広場に大きく構える魔女の木を眺めながら私は呟くように言った。おじいさんに話を聞いたものの、リロイという名前の青年のことは何も知らず、依頼は何も進展しないまま時間だけが過ぎていった。きっとこのまま当てもなく歩き回ったところで、依頼が解決するとも思えない。今日のところはお店に戻りましょう、そうノア王子に声をかけようとしたとき、今まで何かを考えていた様子だったノア王子が何か閃いたようにパッと顔を明るくした。
「占いで分かったのは確か、猫とたくさんの本、それから緑だったね?」
「はい。思い当たるところがありましたか?」
「あるとも。それって君の店のことじゃないか?」
まさか。
そう思いつつ、気になってしまうのが人間の…ではなく、魔女としての性だ。確かに私の店、もとい家には、それこそ小さな本屋が開けるほどの本がある。占いのひとつは当たっているようだった。
緑、は言わずもがな。もし占いの結果が私の店を指しているなら、これは間違いなく私の瞳の色を表している。
「猫は?私は猫を飼っていません」
「いるだろう?いつも店先で日向ぼっこしているねこが」
「あぁ…。それは盲点でした」
まだ確証はないけれど、私は彼の推理が当たっている気がしてしょうがなかった。
……でも、どうして?今、リロイさんに必要なものが私の店にあったとして、どうして彼は嘘をつく必要なんてあったんだろう。最初から、それが欲しいと依頼すればすべては解決できたはずなのに。
「あれ、エマ?」
その時だった。名前を呼ばれた私がほとんど反射的に顔を上げると、少し向こうのほうで今まさに頭の中で思い描いていた人がそこに立っていた。
リロイさんの夜を表したような黒い髪が、夕方の涼しい風にさらされて、そよそよと揺れている。駆け足でこちらに向かってくる彼の姿が、思い出のなかの何かと重なった。
「やぁ。私には挨拶はなしかな?」
「!……これは、失礼しました。ノ、」
「冗談だよ。ここで名前は控えてくれ」
「……すみません」
リロイさんが困ったような顔をしながら笑って、それからちらりとこちらを覗いた。彼の表情はいつも夏のレモネードのようにきりっと爽やかだ。それなのに、どこか影を感じる青い瞳が私はどうしても気になった。
「‥‥私たち、どこかでお会いしたことがありますか?」
それは考えるより先に、ぽろっと出てしまった言葉だった。リロイさんは目を丸くしていた。恥ずかしくなって慌てて撤回しようとすると、彼は花が開いたように顔を明るくさせて、そして私の二つの手を自分の手で包み込んだ。ごつごつとした、騎士の手だった。
「ある!俺たちは、ここで会ったんだよ!ずっと昔、子どもの頃に、ここで!」
興奮気味に言われて驚いてる私に彼はいち早く気づいて、ぱっと手を離してから「ごめん」と小さく謝った。
「嬉しくて、つい。……あのさ、俺、嘘ついたんだ」
「依頼のことですね」
「知ってたんだね……そう、あの依頼は嘘だ。家の長男が継ぐのは指輪じゃなくて短剣。なくしてないし、ちゃんと部屋に置いてあるよ」
「それはよかったです。でも、どうして?」
私の言葉に、リロイさんは笑った。瞳の影が濃くなったような気がした。
「子どもの頃、俺は友達とよくこの広場で遊んでいたんだ。君も、よく来てた。帽子を深くかぶって、離れたところでつまらなさそうに俺たちを眺めてた。その頃の俺は、魔女のこととか何も知らなくて、君に声をかけたんだ。一緒に遊ぼうって。そしたら、驚いた君の瞳が帽子からのぞいて、きれいな緑色が見えた。俺は緑の瞳なんて初めて見たから、『緑の瞳なんて珍しいね』って言っちゃったんだ。……そしたら、周りの目が一気に君に向いた。君はすぐに走って、どこかへ行ってしまった。謝ろうと思ったんだ。次会ったときに。だけど君は、もうあの広場に来なかった」
似たような話を、私はついさっき聞いた気がした。
本屋のおじいさんと、予言の魔女。リロイさんと、私。人間と魔女は言葉こそ同じなのに、いつもすれ違ってばかりだ。
そもそも、私は彼のことを覚えていなかった。そういうハプニングは昔から私の生活の一部で、一つ一つ覚えていたらそれこそ私の心はもたない。だから、私が切り捨ててしまった思い出を、彼が大事にしていたなんてことがちょっと信じられないくらいだった。
「最近、君のこと街で見かけたんだ。だけどどうしても声をかけられなくて、君が立ち寄った店の人に『この辺りに魔女はいないか』と聞いたら、店のことを教えてもらった」
「つまり、話すきっかけを作りたくて嘘の依頼をしたということだね?」
ノア王子に言葉に、リロイさんは黙って頷いた。それから申し訳なさそうに私に向き直って頭を下げた。
「すまなかった」
「いえ、気にしていません。今も、それに昔のことも。貴方はずっと私に話しかけようとしてくれただけでした。私はそれがとても嬉しいです」
彼は笑って、私も笑った。ノア王子だけがちょっと納得いかなさそうにしていたけれど、結局は「仕方がないな」と笑っていた。
こういう穏やかな日が来ることを、この広場で退屈していたあの頃の私は知らないのだろう。少し離れたところから、近づくことも、遠ざかることもできずに、ただじっと一緒に遊んでいる自分を想像している自分。決して不幸ではなかったけれど、望んでいるものは手に入らなかった。ずっと物足りなさだけを持て余していた日々。私はやっと、欲しかったものの欠片を手にしたような気がした。
きっと私も、リロイさんも、おじいさんも、たった一言でよかった。ただ──
「君と話がしてみたい」
「え?」
「……そう言えばよかったな、って」
私はふっと笑った。夕日を受けて大きな影をつくる魔女の木が、まるで母のように私たちを見守っていた。




