FILE No.080 泰平の刻と黄昏の影
大境春の陣の終結をもって、長きに渡る戦国の世が、漸く終わりを告げていた。
そして四ヶ月余り……。
天下には、戦の後始末と新たな秩序を築くための時が流れ、朝廷は元号を改め、景長二十年(西暦1615年)は源和元年となった。
戦乱の世から和の世へ……。
天下は、新たな時代へと歩み始めていた。
--園河国•園府城--
傾きかけた陽射しの下、中庭の青葉を揺らす風にさえ、未だ戦の名残が滲んでいるようだった。
それは、大境の陣で焼き尽くされた照羽家の、残夢の匂いなのか。
或いは、これまで己が足蹴にしてきた、数多の屍の名残か。
豊川家吉は、天下を獲った。
最早、己の前に立ちはだかる者など、この日ノ本には存在しない。
されど、己の肉体は確実に老いてゆく。
それだけは、いかなる力をもってしても抗えぬ現実であった。
「……大御所様。」
召しに応じて伺候した氷御角清鸚は、上段に座す家吉の前で静かに膝を折っていた。
家吉は、目の前に控える清鸚を静かに見つめた。
「世は、漸く泰平へと至った……。」
「御意。これも皆、大御所様の御威光あっての事にございます。されど、泰平を築く事と保つ事は、また別の事にございます。」
「…… そうよな。儂が死ねば、またぞろ腹に一物持つ輩が蠢き出すであろうのう。」
その声には、天下人としての憂いが滲んでいた。
「大御所様。最早、"武"を以て天下を定める時代は、終わり申した。コレより先は、"法"を以て人を治め、"咒"を以て妖異を祓う時代にございます。」
その言葉の通り、清鸚は幕府の諸制度を整え、武家と寺社を統制し、将軍家を中心とした新たな秩序を築いていった。
されど、その秩序が縛るモノは、人の世だけではない。
天に現れる星辰の異変を捉え、地を巡る龍脈を読み、人の世に生じる怪異を見定め、それら天地人の兆しを理の内へと組み込み、天下の秩序を脅かすモノを一つ一つ排してゆき、家吉が身罷った後には、その魂すらも新たな秩序の礎として組み込むという……。
「……ゆえに、江津より北北西の地に大御所様の御霊を祀り、将軍家と江津を護る大結界の核と為しまする。」
「何?死して尚、儂を眠らせぬのか。」
「御意。」
清鸚は深々と平伏した。
「フワハハハッ!恐ろしい男よ……。されど、頼もしい限りじゃ。」
家吉は、満足げに苦笑した。
その後、家吉は清鸚の献策を取り上げ、豊川一門を尾嶺国、紀杜国、水城国へと配し、やがてこれらが将軍家を支える"御三家"として、揺るぎなき地位を築いていった。
この原型となったのは、京洛の焰間家が古くより築いてきた、一党を束ねる家格の仕組みであった。
さらに清鸚は、江津より北北西の瑞光山に家吉を祀る東耀宮の建立に着手した。
清鸚が編み上げた法と結界の網は、源和から寛寧へと至る時代の中で、幕府と将軍家を護る秩序として盤石のモノとなり、戦国の血の匂いは、いつしか世から消えていった。
○☆○☆○☆
やがて、三代将軍•吉光の御代を迎えると、東耀宮では大規模な造替が行われた。
その落成を見届けた清鸚は、久方ぶりに江津城へと登り、吉光の御前に伺候していた。
「上様。東耀宮は無事に成りましてございます。」
「おお、清鸚仲父か。誠、大義であったのう。」
「これにて、東耀大神君家吉公との約定も果たせ申した。この妖幻爺も、そろそろ御役御免でございましょう。」
ゆうに百を越えた清鸚は、冗談めかしてそう笑う。
「仲父よ。何を申すか。これからも、余を助けてくれ。」
「いいえ、上様。御安心くだされ。私がおらずとも、幕府も、豊川家も安泰でございますれば、後は御自らの御世をお築きくださればよいかと。」
しばし清鸚を見つめる吉光の眼差しには、最早、かつてのような若さゆえの危うさはなかった。
清鸚は、ただ静かに頭を垂れていた。
人の世が戦から遠ざかり、泰平の世が深まるにつれ、江津の町には人々の暮らしを彩る新たな文化が芽吹き始めていた。
ーーーーー
「あ〜あ。ホント嫌になるわよねぇ〜。泰平の世って。」
江津の町を見下ろす屋根の上。黒兎を抱いた童女……黒屋敷童子•闇散は、瓦の端に腰を下ろし、宙へ投げ出した脚をぶらぶらと揺らしていた。
「……ならば、どうする?」
闇の中から姿を現したのは、長く青黒い髪を揺らし、黒き嘴の如き面頬をつけた男……。
「そうね〜。あの氷御角のお爺さんのお陰で、人間が泰平を楽しんでるなら……私達も、ソレに付き合ってあげればいいかなぁ〜って思うんだけど。どう思う?霧田朔村……じゃなかった。奇刹那三郎。」
「我が真名を気安く口にするな!」【烈風坊 奇刹那三郎】
「ウフフフ。そんなに怒らないの。ちょっと呼んだくらいで。」
闇散は、黒兎の耳を撫でながら、くすりと笑った。
「それよりも、ほら。近頃、人間は物語や絵なんかを楽しむようになってきたでしょう?」
「……それが何だ?」
「だから〜人間に、私達の事をもっと知ってもらうのよ。私達の姿を絵や物語として見せて、妖幻ってこういうモノなんだ〜って、人間の心に刻みつけるの。それで怖がったり、面白がったりして、心に残れば残るほど、私達はこの世に深く根を下ろし、想いが積もれば、それだけ魂氣も満ちていくわ。」
闇散の目に、強い狂氣が宿る。
「だから、破妖導師が咒で私達妖幻を縛るなら、私達は人間の意識の中へと入り込めばいいのよ。そう、幾千、幾万もの人間の慰みの中に、私達妖幻の姿を刻みつけるのよ。それが貴方の主人の望みをも、後押しする事になるのよ。……三郎。」
ーーーーー
江津の町から北西へ離れた地に、とある湿原が広がっていた。
かつて大河としてこの地を流れていた祓浄川は、家吉によってその流れを埋め立てられ、今ではその跡に湿原が広がるばかりであった。
そんな湿原を一人の女が彷徨っている。
「恨めしい……。豊川の世が恨めしい……。」
長い黒髪を振り乱し、黒く薄汚れた襤褸を纏う、帰る川を失くした女の妖幻。
その身から濃い死臭を漂わせ、ただ湿原を彷徨い続けていた。
そんな濁った水面に、黒い影が差し込んだ。
女がゆっくり顔を上げると、枯れ葦の間に、それは立っていた。
黒い片翼を垂らす妖幻……。
いつからそこにいたのかも分からぬまま、じっと女を見つめている。
「……また、お前か。妾に構うでないわ!!」
女は歯を剥き出し、泥を蹴り上げた。
濁った水が跳ね上がり、枯れ葦が音を立てて揺れる。
それでも、片翼の妖幻は微動だにせず、その場に立ち続けた。
これまで二度も拒まれながら、尚も三度目の手を差し伸べている。
「哀れみか……?妾を哀れむ氣か……!!」
女は、差し伸ばされた手を激しく払いのけ、乾いた音が夜の湿原に響いた。
それでも片翼の妖幻は、ただ女を見つめている。
「……何故だ!妾はもう、龍ではない。川も、社も、信仰すらも……人間どもに奪われた。ただの骸に過ぎぬのじゃぞ!!」
「……それでも、其女が龍である事に変わりはない。」
片翼の妖幻は、初めて口を開く。
「龍の力も、その知恵も、まだ、失われてはいない。」
その言葉に、女は息を呑んだ。
「其女の力を、この私に貸して欲しい。私と同じ“凶星"と相成って……。」
差し伸べられた手が、夜の闇の中に残る。
「……鬱陶しき輩よ。」
女は、まだ自分を龍と呼ぶ片翼の妖幻の手を取ると、濁った水面が大きく揺らいだ。
白骨と化していた身体に血肉が満ち、乱れていた黒髪も艶やかに整い、額からは二本の角が伸び、その中央に一枚の黒き鱗が浮かび……。
身体を纏っていた襤褸も、白き天衣の輝きを取り戻していた。
コレは紛れもなく、かつて祓浄川を司った龍神の姿。
されど、それはもう神ではなく、人間に棲み処を奪われ、祈りを失った果てに、魔性へと堕ちた龍女であった。
赤く染まった瞳には、縦に裂けた瞳孔が浮かび、水面に映る自分の姿を見つめ微笑んだ。
「氣分は、どうかな?世啼姫。」
「その真名で、呼ばれるのも、久しぶりじゃ。───堕天───────師よ。」【白巫骸鯤龍女 伏魔世啼姫】
戦乱の時代は終わっても、その失われた翼の痕より滲み出る瘴氣は、時代、時代の闇の底へと静かに沈み、これより数百年に及ぶ地固めの刻を重ねていく……。
○☆○☆○☆
幾度も元号が改まり、戦乱の記憶もまた、人々の記憶の彼方へと遠ざかり、人の世には新たな賑わいが生まれていった。
商いが栄え、芝居や見世物が人を集め、絵や物語が人々の間に広まる中、文化が次々と花開き、それに伴い、人々が語る妖幻の姿もまた変わっていく。
畏れられるだけの存在が、やがて絵となり、物語となり、笑い話となる。
人々がその姿を描き、語り、畏れ、笑い、そして楽しむ度、妖幻は人の記憶の中へと深く根を下ろしていった。
そしていつしか、誰が言い始めたとも知れぬ一つの名が、人の口から口へと伝わり始める。
その名は、銀妖辯仙 朧沙門掬之丞。
魑魅魍魎の総大将とも呼ばれた妖幻は、やがて一つの怪異として語り継がれていく。
人の家へ何食わぬ顔で入り込み、いつしか主人のように振る舞う怪異として語られ、【ぬらりひょん】と呼ばれるようになる。
その姿が人々の間に広まるほど、人の世と妖幻の境は少しずつ曖昧となり、江津の世に芽吹いた、妖幻を巡る文化は、幾つもの時代を経て受け継がれていった。
そして、妖幻は、人々の心から消えぬ存在へと、その姿を変えていく。
氷御角清鸚が張り巡らせた結界も、闇散が人々の意識に刻んだ影も、大厄が呼び起こした禍根も、そして朧沙門自らが江津から繋いできた裏の脈も……。
それら全てが結実する場所が、現代の東京であった。
ーー中央合同庁舎•地下9階 不可視事案資料特命編纂係ーー
バチチチッ……ドムッ……パラパラ……ッ!!
フカシ係の物置に、不穏な衝撃音とともに、天井から砂塵が舞い落ちる。
「何だ!今の音は!?」
端正な容姿と洗練された物腰を備えた、都会的な若きキャリア、陽無坂正義警部。
「いやぁ……爆発ですかねぇ?」
対して、どこか頼りなげで飄々とした好々爺風の老刑事、磊田主水佑嘱託職員。
この余りに対照的な二人が顔を見合わせる中、デスクから二つの影が弾けるように立ち上がった。
「なぁ……今のんって?」
片眼鏡に赤メッシュの映える黒髪ショートの焰間哪由香警部補。
「ボク等が仕掛けた罠っぽくは、ねぇけど……。」
和装の趣を帯びた服に身を包む、黒髪セミロングの氷御角清良警部補。
「……何ぞ、掛かったえ。」
「とりま行くよ!」
二人は目線を見合わせつつ、物置を飛び出す。
先ほどの衝撃音が響いたのは、留置施設のある区画。
何者かが侵入した可能性を察し、二人は廊下を駆け抜けていった。
だが、二人が現場へ辿り着いた時、そこに残されていたのは、通路の床から発動したと思われる咒法陣から立ち上る、紫煙の残り香だけであった。
「あ〜あ…… 守銭鼠、おらへんやんかぁ。おもんないなぁ〜。」
焰間警部補が裸眼の目を細めると、その視線の先では、鉄扉が大きく押し開けられ、打ち捨てられた鎖が転がる独房が、既にもぬけの殻となっていた。
「うちの留置施設、こんな手際良く破ってくって……。」
氷御角警部補は、独房から数m離れた、破砕された床の痕跡の前へしゃがみ込み、指先を紫煙の残る床面へかざし、残留した魂氣を探った。
煤けたコンクリートの表面には、フカシ係の二人が扱う術式とは明らかに毛色が異なり、武骨で厳めしい幾何学模様を描く咒法陣が浮かび上がっていた。
「……コレ、多分、旧日本軍の憲兵隊に所属してた破妖導師が仕掛けた古咒法陣だわ。どうも、逃げる時に発動させたみたいだけど。」
氷御角警部補の言葉に、焰間警部補も眉を寄せ、煤けた床へ身を屈めた。
「て事はコレ、戦前モンの遺物?」
「みたいね。対妖幻用に、軍属系の破妖導師が残した罠型の迎撃陣だね。しかも、この術式だと…。本来なら発動した瞬間、侵入者ごと、この地下9階の区画を消し飛ばすくらいの威力だったはず……。」
「まだ残っとったやなんてなぁ…。配属された頃、ウチ等で、この辺一帯、散々探し回ったんに……。おかしな話やなぁ。」
少し呆れる焰間警部補とは対照的に、氷御角警部補は、焦げ跡一つない壁を見つめたまま、息を呑んだ。
「まぁ〜見落としは反省すべきだけど……にしても、この規模の爆圧と熱を外に波及させず、完全に相殺したって事は相当な大物妖幻だよね。罠の威力を力ずくで押さえ込んで、無効化させてんだから……」
「そんなんできるん……アイツしか、おらへんやろ?」
「だね……。」
ー霧乃関駅出口ー
薄暗い地下階段を一段ずつ踏み締め、頭上の"A2a出口"という案内表示をくぐる。
地上へ足を踏み出した刹那、目の前に合同庁舎第2号館の無機質で巨大な影が立ちはだかった。
地下の澱んだカビ臭い湿気から一転、夕風の冷気と排気ガスの匂いが、三人の鼻腔を刺激する。
空は既に深く濃い群青色に染まり、ビルの隙間には僅かな朱色が残っている。
路面には街灯が灯り、勤務を終えたスーツ姿の官僚や職員達が行き交っていた。
黄昏時であった。
「ふはぁ〜っ! やっと出られたでやんす〜!」
A2a出口のステンレス製の柵に手をつき、邪獺娘 祭が大きく胸を反らし、外の空気を思いっきり吸い込んだ。
「出られた〜じゃねぇ〜でゲス!祭!お前の所為で、死に掛けたでゲスよ!!この大馬鹿が〜!!」
「ちょっと治郎鉄!大声を出すなでやんす。まだ周りに人がいるでやんすよ!」
祭は周囲へ視線を走らせる。その背後には、合同庁舎第2号館の巨大な壁面が、夕闇の中に聳り立っていた。
「でもまぁ〜地下9階からの脱出なんて、無茶な真似かと思ったが……。いや〜でも、助かったでゲス。朧沙門……いや、朧沙門大先生〜ッ!!」
その声が響く中、朧沙門が地下鉄出口の階段をゆっくりと上がり、最後の一段を踏み越えて、舗道へ足を下ろした。
「今更、感謝など不要じゃ。お主のような厄介者と、何年の付き合いになると思っておる。」
朧沙門は、官庁街を行き交う人波へと歩みを進めていた。
その時だった……。
ピロロン♪ピロロン♪
制服の上着の内ポケットで、どこか呑気で生活感あふれるスマホの着信音が鳴り響く。
画面に浮かび上がっているのは、母親からのRINEの通知メッセージだった。
【今日の晩ご飯、ハンバーグにするけど何時に帰ってくるの?お母さん今日、日勤だから、そろそろ家着くよ〜(^^)v】
「……あ。」
画面を凝視した瞬間、朧沙門の血赤の瞳が僅かに揺れる。
〈今日は、夜勤じゃない日か……。〉
母親の帰宅を知った瞬間、大妖幻として辺りを圧していた重厚な魂氣が、潮が引くように急速に収束していった。
銀糸の髪が根元から薄らと黒髪へと戻り、凝固した血のような赤瞳が、光の失われた無感情な少年の瞳へと塗り替えられていく。
夜の顔である朧沙門の殻が剥がれ落ち、そこに残ったのは、いつものモブ高校生の……闇目読命であった。
「今日は母さん、日勤だったんだ。だから、もう帰るね……。」
抑揚のない、しかしいつもの闇目の声が漏れる。
「えっ?朧……じゃなくて読命先輩?」
「また、いつものでゲスか?」
治郎鉄と祭が戸惑う中、闇目は無表情のまま足早になる。
「治郎鉄、今日の所は回収が完了したから、後は自分でなんとかしてね。祭君も帰るよ。」
「えっ、アチキもでやんすか!?」
「……早くしないと、帰りのバス逃すよ。」
つい数秒前まで、地下9階の古咒法陣を力ずくで粉砕し、フカシ係を震撼させていた大妖幻とは思えない勢いで、闇目は駅前のバス停へと走り出した。
「あ、待ってくださいでヤンス〜〜っ!!」
「おい!俺様を置いていくなでゲス〜〜っ!!」
スーツ姿の官僚達が行き交う黄昏の路上を、三人の影が霧乃関駅前のバス停へと駆けていく。
その喧騒だけを残し、夕暮れの街は何事もなかったかのように、夜へと沈んでいった…。
ー♢第7章-完♢ー




