FILE No.074 洛耀第
京洛の中心に君臨する『洛耀第』。
黄金と朱で飾り立てられたその威容は、天下人•照羽徳臣が、都人へ己が権勢を誇示するために築かせた、京におけるもう一つの覇府である。
武威の象徴たる大境城と並び、政を司る中枢として、覇と治の両輪を天下へ知らしめていた。
だが今、その表門の静寂は、都の喧騒を断ち切るように響く、不穏な足音によって踏み荒らされた。
地を這うような歩みが迫るにつれ、門衛達の背筋に冷たい戦慄が走り、門前は見る間に無縁の殺氣へと染め替えられていった。
先頭を行く男の顔色は死人のように白く、伏せた瞼の奥には、獣じみた黄色い光が微かに燻っている。
背後に従う部下達もまた、肉体だけをこの世に縫い留められたかの如く、生氣の欠片すら感じさせなかった。
「……太閤様の御用にて参った。澄政所様へ、至急取次げ。」
抑揚の無い声が、喉奥で砂を擦るように響く。
門衛の一人は、男から放たれる死の氣配に、氷の刃を突き付けられたような錯覚に陥り、握り締めた槍の穂先が、隠しようもなく小刻みに震えた。
門衛は辛うじて震える喉を鳴らし、声を絞り出す。
「し…失礼ながら御名を……。」
男はゆるりと顔を上げると、呆れた顔で詰め寄った。
「某が誰か分からぬのか?……磐岐治部少輔継成である。」
その名が落ちた刹那、門前の空氣は一段と冷えた。
天下人の懐刀たる名を都で知らぬ者はなく、その名の前で平静を保てる者など、いるはずもなかった。
門衛達は弾かれたように門扉を開くと、逃げるように路を空け、その場に平伏した。
継成は一瞥もくれず、その脇を通り抜け、従う部下達もまた、影のように無言で連なっていった。
敷居を跨いだ先は、白木の廊に柔らかな陽光が差し込み、池泉を巡る回廊には香が静かに満ち、俗世から切り離された別世界であった。
何もかもが華やかでありながら、不思議と俗悪さが無く、金銀を散らした襖の奥には、この御殿の女主人の気質が沁み込んでいるかのようだった。
庭の池を静かに眺めるのは、天下人•徳臣の正室•郁々である。
世に澄政所と称される女人であり、徳臣が天下人となるずっと以前から、その傍らに立ち続け、年を重ねても尚美しく、凛とした静けさを纏っていた。
彼女は、池の水面に走った僅かな揺らぎを、その目で捉えた。
「……来たか。」
独り言のように呟く彼女の下へ、侍女が現れ膝をつく。
「澄政所様。大境より、磐岐治部少輔殿がお見えにございます。」
郁々は小さく息を吐いた。
「……東書院へ、通しなされ。」
継成が通された東書院には、流水の音だけが静かに響いていた。
室内には一切の無駄がなく、磨き上げられた床が淡く光を返している。
上座の襖がそっと開き、郁々が姿を現した刹那、継成は戦場とは別種の圧を受けた。
「久しいのう、継成殿。」
「……御前にて、恐れながら。」
平伏する所作に、乱れは無い。
だが、その身に宿る氣配は、最早、人のそれではない。
郁々は一目でそれを悟った。
この男も既に、人の道を踏み越えているのだと……。
「して、妾に何用か。」
「実は澄政所様に、帝へ御取次願いたき儀がございまして、参上仕りました。」
郁々の伏せた睫毛が、一つ揺れる。
「ほう。帝へ…。何事か。」
「先日、賊が大境城に侵入致しまして、殿下の御首が狙われ申した。」
「何?殿下が……?」
書院の中が、音を失った。
「賊は赤髪。人外の身のこなしにて、妖幻を屠る術を持つ輩にございます…。」
継成の瞼の奥で、黄色い光が鈍く燃えた。
「天下に、その業を成せる者など、限られておりますれば、帝家直属の廻者衆•焰間一党の手の者と見る他ございませぬ。」
廻者衆とは、帝に仕える秘匿の官職。それゆえ本来、その名を軽々しく口にする事すら憚られた。
「確証は?」
「ございませぬ。」
「ならば邪推じゃな。」
「されど、他に在り得ませぬ。」
迷い無く言い切る声音に、狂氣にも似た確信が滲む。
「そうか……。そこまで申すのなら、妾の出る幕ではない。殿下へ直に奏し、帝へ御目通り願えばよかろう。」
郁々はそれだけ告げると、衣擦れの音を残し、早々に継成に背を向けた。
人に仇なす存在と、言葉を交わす価値など無いからである。
「……澄政所様。」
呼び止める継成の声にも、郁々の歩みが止まる事はなかった。
「……ヤレヤレ。昔より、そういう所が可愛げございませぬな。」
背中越しに投げられた不遜な言葉に、郁々の足が一瞬だけ止まる。
「佑助…。其方にはもう、人の匂いがせぬな。」
郁々は振り返る事なく、一言だけ静かに落とすと、そのまま書院を後にした。
残された継成は、人気の消えた書院で、ゆっくり口端を吊り上げる。
「フッ。意地を張らず、コチラ側へ来ればよいモノを……。」
低い嗤い声は流水の音に紛れ、いつまでも書院の中で木霊していた。
--大境城--
日没を過ぎた大境城は、その輪郭を闇の底へ溶かしていた。
石垣は黒く沈み、天守だけが夜氣の中に鈍く浮かび上がる。
城下の往来は既に絶え、残るは松明の火影と、堀を渡る風の音のみ。
巨大な城は、動きを止めた獣の骸のように沈黙し、都の喧騒を寄せ付けぬ威容でそこに在った。
継成が御座所•萬耀御対へ至ると、そこは沈黙のさらに深奥、音そのものが凍り付いたかのような深淵であった。
逃げ場を失った香煙は、重苦しい湿り氣を帯びて足元に沈殿すると、主従の輪郭を濁らせるように低く揺らめき、闇の奥から低く掠れた声を響かせた。
「……佑助。委細を報告せい。」
上座に鎮座するは、天下を震撼させた威厳をそのままに、肌はどこか硬質な光を帯び、呼吸の一つ一つが城全体の空氣をも震わせる存在……。
それは、照羽徳臣であった。
「戒喰は恐らく、廻者衆•焰間一党の手の者に相違ございませぬ。」
下座に跪く継成は、面を上げぬまま答えた。
「廻者衆…?帝家直属の隠密か……。」
「はっ。ゆえに澄政所様に、帝への御取次を願い出ましたが、"太閤様へ直に奏し、御目通り願え"と、撥ね退けられましてございます。」
「余に直に、か。」
「はっ。最早、殿下を身内としては扱わぬとの、一線を引かれた御様子にございました。」
その報告を聞いた徳臣は、一瞬の沈黙の後、喉の奥を鳴らして嗤った。
「ハッ……彼奴らしい。己の正しさにしか殉じぬ、その潔癖こそが郁々よ。最早、妖幻に堕ちた余に肩を貸す気は無い、か……。」
月の光さえ届かぬ闇の中、徳臣の赤く光る双眸だけが、獣のように揺らいでいた。
「……ならば、それでよい。余と郁々の関わりが断たれれば、洛耀第は正妻が守る都の屋敷という名分すら剥がれ落ちる。そうなれば、奴等も遠慮はすまい。余の首級を狙い、より大胆に喰らい付いてこようて。」
「左様に。……澄政所様が殿下との縁を断たれた今、洛耀第は最早、殿下の牙城ではございませぬ。……されど、帝の影に隠れる焰間を引き摺り出し、大境城を襲った報復を果たすには、洛耀第を“あちら側が仕掛けざるを得ぬ撒き餌”に致す他、手はございますまい。」
継成の瞼の奥で、闇に溶け込む事のない黄色い光が、鈍く脈打っていく。
「フ……佑助よ。随分と冷酷になったものよのう。かつては、彼奴の身を誰よりも案じておったはずがのう。」
継成の肩が僅かに震えたが、すぐに冷徹な声を返すと、自嘲氣味に口端を吊り上げる。
「……申し上げたはずにございます。その名で呼ぶべき男は、疾うに殺し申した。今、ココに在るのは、殿下の覇道を阻む者を喰らう、磐岐治部少輔継成という名の牙にございまする。」
「……良かろう。ならば、その牙、研いでおけ。」
徳臣は、深い闇が凝固したように鎮座したまま、爛々と赤い目を光らせた。
継成が影に溶けるように退こうとした、その時……。
闇の奥から、しどけない寝衣を纏った紗々が、香煙を割って現れた。
彼女は跪く継成を一瞥だにせず、真っ直ぐに徳臣の傍らへと赴くと、その背中に白い指先を這わせる。
「殿下……今宵は一段と、その牙が疼いておいででございますの?」
徳臣は拒む事なく、悦楽とも威嚇とも取れる唸りを喉の奥で鳴らした。
「ぐぬぬぬッ。余の渇きは……血だけでは、到底癒えぬ!」
「ええ……ですから妾が、骨の髄まで宥めて差し上げますわ。うふふふ。」
首筋に絡みつく白い腕が、闇の中では一際際立ち、徳臣の背に寄り添い、その腕で喉元を包み込むように抱き締めた。
継成は、主君の重い呼吸と、愛妾の艶やかな笑いを背に、無言のまま闇の中へと消えていった。
大境城の夜は、まだ終わりではない……。
--洛耀第•奥御殿--
同時刻───
大境城が魔の氣配に沈む最中、洛耀第には澄み切った静謐が、音もなく張り詰めていた。
月光は白磁の庭を青白く照らし、奥に座す郁々の姿を、凛とした静けさの中に浮かび上がらせる。
その膝元には書状が整然と並べられ、その中で、家中の報せと外の動きが静かに選別されていた。
声なき言葉が積み上がり、明日へ下すべき判断だけが、淡く研ぎ澄まされていく。
不意に、風もない庭の竹が微かに騒めき、影が一つ、縁側に落ちた。
「何用か。昼間に大境の使い魔を、追い返したばかりだというに……。」
郁々は視線を上げる事なく、影に向かって問い掛けた。
「戯けが。心外な事を申すな!あんな算盤侍と、ワシを一緒にするでないわ!ワシは、風流を解する妖幻じゃぞ(怒)!!」
闇の中から染み出すように現れた影は、不機嫌そうに煙管の雁首を掌で軽く叩き、灰を池に落とした。
月明かりから浮かぶのは、銀髪を棚引かせ、乱して纏う黒い着流しに派手な羽織を重ねる大妖幻……。
朧沙門であった。
彼は縁側から畳の上へ音もなく上がると、郁々に敬意とも嘲ともつかぬ薄い笑みを向けた。
「…… 漸く、時が満ちようとしておるな。」
郁々は書簡に目を落としたまま、独り言のように呟く。
「猩々を討つ手筈か?それとも、豊川鈴羅守に天下を取らせる手筈か?」
だが、朧沙門の返答には、思わず目を細める。
「両方に決まっておろう…。アレは最早、妾の知る徳臣ではない。アレは……。」
言い淀む郁々に、朧沙門が冷ややかに言葉を継ぐ。
「そうじゃ。アレは"魔転生"を果たし、人ならざる者へと堕ちた存在じゃからのう。」
朧沙門は紫煙を細く吐き出し、凍てつくような双眸で郁々を射抜いた。
「分かっておる。最早、記憶も慈愛も魔に喰い尽くされ、破壊と殺戮を貪るだけの恐閤。そんな奴を討たずして、天下の安寧などありえぬ!」
郁々の手が静かに握られ、指の節が白く浮き上がる。
「郁々、お主は昔と変わらず、高潔よのう。ゆえにワシは、お主を人の中で、唯一信じるのじゃ。」
朧沙門の言葉に、郁々は一度大きく息を吐き、そのまま向き直ると、両手を畳に着けて深く頭を垂れた。
「すまぬ。妖幻である其方に、妖幻と化した、妾の夫を討つ事を頼むなど…。」
「構わぬ。黒羅霧 とワシは相容れぬ。いずれぶつかる運命……。じゃが、阿房一家に留まらず、豊川鈴羅守を担ぎ上げ、氷御角清是、焔橋琥慈郎という破妖導師まで見出すとは……。お主、どこまで見通しておるのじゃ?」
「妾は何も、見通してはおらぬ。ただ…夢路を辿る吉凶の兆しを、僅かに一瞥しただけに過ぎぬ……。」
顔を上げた郁々の目には、重い責任と覚悟が交錯し、朧沙門の冷たい双眸を真っ向から見据えるだけだった。
その後、ほどなくして……。
徳臣の名において、破格の大茶会を催すとの布告がなされた。
表向きは、後照玄天帝の御成を奉じ、天下の序列を白日の下に示し、風流を愛で、茶を喫するという体裁を装った、権力の狂宴に過ぎなかった。
参列するは、天帝を筆頭に、帝族、公家衆、照羽一族、さらには諸大名にまで及び、供奉や従者をも含めれば、その総数は万に迫る規模となった。
諸国より都へ至る道という道は、絢爛たる行列と夥しい警護の兵で埋め尽くされ、その華やぎの裏では、戦支度にも似た殺気が蠢いていた。
この空前の催行は、天下の視線と思惑、さらには叛意の牙までもを洛耀第へと集め、その全てを呑み込み、選別する罠へと仕立て上げていった。
郁々は、それを目の当たりにしながらも、苦々しく見ている事しかできなかった。
「……見事なものよ。誰一人、それが地獄とも気付かぬまま整っていく。」
大茶会前夜───
豊川家吉の前には、届けられた茶器が静かに並び、その銘に一瞥を落とし、無造作に手に取った。
指先に伝わる微かな重みが、彼の目を僅かに細めさせる。
「……ふむ。些か、軽いか。」
これでは天下は持たぬと、家吉は静かに見定めた……。
その頃、洛耀第の廊を別の視線がなぞっていた。
家吉の供奉の末席に名を連ねた氷御角清是は、歩みを緩めながら周囲へ目を配る。
人の流れ、灯りの配置、影の溜まり…。
夜に露わになる綻びは、そのまま昼には死角へと化ける。
それらは既に彼の内で一つの図として結ばれ、洛耀第を埋め尽くす熱気の揺らぎが、いつ悲鳴へ転じるかを静かに計算していた。
一方で、焔橋琥慈郎は喧騒から切り離された暗がりに身を置き、伝家の宝刀の感触を確かめていた。
彼にとってこの大茶会は、ただ獲物を仕留めるための狩場に過ぎない。
「……次は、折らせん。」
家吉、清是、琥慈郎。三人が何を見、何を奪おうとしているのか、その真意を知る術はなかった。
たが、この洛耀第の全てを、底知れぬ深淵のような眼差しで見据える影があった。
「……咲き乱れ、散り急ぐがいい。茶の湯はやがて、因果の果てを綴る墨となろう。」
朧沙門の呟きは誰に届く事もなく、洛耀第の闇へと深く溶け、洛中の大路を埋め尽くした篝火もまた、白々とした夜明けに呑み込まれていった。
地を鳴らす足音、高らかに響く先触れの声。
黄金の門をくぐる帝家の輿を筆頭に、虚飾を纏った行列が、次々と洛耀第へと吸い込まれていく。
笑い合う公家衆、恭しく頭を垂れる諸大名。
それらの合間を縫うように、清是の冷徹な視線と、琥慈郎の殺気が紛れ込み、郁々は回廊の陰からその光景を凝視した。
「……ついに、始まったか。」
その呟きは、渦巻く喧騒に呑まれて消えた。
空前絶後の狂宴は、一服の茶に天下の命運と怨嗟を溶かし込み、黄金に彩られた地獄の蓋を今、完全に閉じたのだった…。




