FILE No.073 大境城の夜
天守を仰ぐ大境城の巨大な甍の波。
夜風に煽られた篝火が爆ぜるたび、赤髪黒装束の影が瓦の上を一直線に奔る。
それを追う馬廻衆の目は、獣じみた金色、血の如く赤、或いは毒々しい燐光に染まっていた。
瓦を掴む指先にも、人ならざる鉤爪が鈍く光っていた。
だが、影が闇を縫うたび、異形どもは一人、また一人と夜に呑まれていく。
刀を抜く暇も、声を上げる猶予もなく、ただ、息を呑むほどの速さで……。
城内を巡る一人の武者が、違和に氣付き振り返る。
さっきまで隣で歩いていた同輩が、膝を突いたまま微動だにしない。
その身体は魂氣を抜かれ、抜け殻となって月下へ崩れた。
その刹那、武者の頬に湿った風が吹き抜けた。
その目に、赤い残像が焼き付く。
時、既に遅し……。
また一人、自らの異形を誇示する間もなく、闇の中へと消えていく。
影もまた、天守へ連なる入母屋の闇に、音もなく消えていった。
-----
高欄を越え、板張りの廊へと舞い降りる影。
そこには生き物の吐息すら拒む、禍々しい邪氣が澱んでいた。
常人ならば、一息ごとに瘴氣が胸の奥を軋ませる。
だが、赤髪黒装束は羽虫でも払うかのように歩を進め、天守最奥に設けられた、天下人の御座所•萬耀御対へと辿り着いた。
その前では、刀を抜いた御側衆が待ち構える。
赤髪黒装束は一瞥し、彼等の意識を音もなく絶っていき、廊は瞬く間に静寂に包まれていた。
最早、行く手を遮る障りは、一枚の襖のみ。
赤髪黒装束は僅かに間を置き、迷いなく開け放った。
その途端、生命の熱を拒むような、底冷えした粘氣が押し寄せる。
「……来おったか。」
奥の段に座す影が陽炎のように揺れ、低い掠れ声が重苦しく空氣を擦る。
対峙する相手は、天下人•照羽徳臣。
赤髪黒装束は、名乗らず一歩踏み込む。
無駄を削ぎ落とした最短の軌道で、徳臣の首を斬り落とす。
確かな手応え……の、はずであった。
斬り落とされた頭部は、断面から鮮血ではなく、黒い煤のような霧を噴き上げ、畳の上に転げ落ちた。
「……ほう。見事な太刀筋じゃ。」
無造作に転がる生首が、事もなげに言葉を発する。
「これほどの手練れ、そうはおるまい。お主は、あの"戒喰"であろう?」
戒喰とは……。
妖幻がその姿を見たが最後、確実に祓魔すると畏怖された破妖導師であった。
だがこの時、戒喰の刀には黒い瘴氣が絡み付き、冷たい鋼の芯をも侵食し始めていた。
その僅かな動揺を突き、徳臣の傍らの影が襲い掛かってくる。
懐刀•磐岐継成。
繰り出す刺突は、一直線に戒喰の喉元へと迫った。
戒喰は紙一重で、その切先を躱す。
だが、継成にとっては、徳臣の前へ立ち塞がるための布石に過ぎなかった。
双方、睨み合う最中…。
静寂を裂く衣擦れと共に、紗々が前へと歩み出た時、畳を転がる徳臣の首は、細い指先にそっと掬い上げられていた。
「殿下、おいたわしや…。」
「……紗々よ。些か、景色が逆さまじゃぞ!」
苦笑いする生首は、内側から崩れるように黒霧へと変わり、紗々の指をすり抜け、胴体へと奔流していった。
「グフフ…。これじゃ!これじゃ〜!!」
悠然と笑う徳臣を前に、戒喰は侵食されゆく刀を見つめ、その正体を低く呟いた。
「……黒羅霧。」
--●恐閤 黒羅霧●------------------------------------------------
煙の妖幻、或いは煙に宿る精霊の類。
その身を自在に変え、大気を漂う。
古くは竈や風呂場から立ち上る煙の中に、不気味な貌を浮かび上がらせる怪異として恐れられた。
斬撃も打撃も意味を成さず、並の鋼では空を切るばかりで、霊的な裏付けを持つ力でなければ、触れる事すら叶わない。
黒羅霧は、周囲の空気すら己と同化させ、触れたモノを内側から侵し、喰らい、溶かす。
また、本質が煙であるがゆえ、強風下では形を保てず、その力を存分に振るう事ができない。
だが、四方を壁に囲われた密室では、絶対的な優位性を保てる。
[※妖文堂書院刊《妖幻大全輯 第二篇》より抜粋]
------------------------------------------------------------------------
「ほう。その名を知っておるか……。」
徳臣の目が愉悦に細まる。
「戒喰は悉く、妖幻を虚空へ還すというが……お主に余を討てるか?」
戒喰は揺るぎない覚悟を宿し、その双眸で徳臣を射抜くように見据えていた。
だが、その視線を割るように、継成の斬撃が迫る。
最短距離で急所を穿つ冷徹な太刀筋。
戒喰がそれを受け流すたび、瘴氣に侵食された刀は軋みを上げ、火花が散り、煤が舞い、乾いた破砕音が静寂を斬り裂く。
継成の一撃が、甲高い破砕音と共に戒喰の刀を粉砕した。
だが、折れた刀身は継成の脇腹を深く斬り裂き、蒼い畳へ鮮血を撒き散らしていた。
「くっ……。」
戒喰は迷わず折れた刀を捨て、この機を逃さず、指に挟んだ三条の銀閃を奔らせた。
しかしそれらは、板のように伸びた紗々の帯に悉く弾かれた。
「これ以上の狼藉、妾が許しませぬ!」
艶やかな絹の帯は逆巻きながら壁と化し、徳臣の身を幾重にも包み込んだ。
戒喰は一瞬で仕留め損ねたと悟ると、無言のまま身を翻し、御簾の裏へと滑り込んでいく。
その内側には、侍女が膳を運ぶための細い通路が隠れていた。
「佑助!逃がすでない!手足を引き千切っても構わん!生かしたまま、余の前へ引き据えよ!!」
徳臣の怒氣が迸り、剥き出しの殺意だけが膨れ上がる。
継成は滴る血も厭わず、その場に深く平伏すると、黙したまま主君の命を拝受したのであった。
「……御意。」
-----
灯りも届かぬ、柱と壁に挟まれた息苦しい暗がり。
その狭い通路を、戒喰は足を止めずに駆け抜けて行く。
そこは正面の廊とは繋がらず、脇へ脇へと折れ曲がる裏導線であった。
奥まった角を抜けた先には、外へ通じる黒漆塗りの板戸が有り、手を掛けて引き開けると、冷たい夜気が流れ込み、視界が開けた。
戒喰は高欄を踏み越え、袖口から鉤縄を放つと、軒下の梁へ絡み付き、弧を描きながら下方へと降っていった。
辺りは既に、鋭い呼子の音が響き渡り、提灯の灯りが次々と闇を押し返していく。
「曲者ぞ〜ッ!」
「逃すな〜ッ!」
静寂を塗り潰す怒号が幾重にも重なり、闇夜を震わせる中、戒喰が目指すのは本丸北端…。
そこには深い空堀を跨ぎ、二の丸へと通じる唯一の架け橋『無常橋』があった。
その橋を渡りきれば、石垣が複雑に重なり合う"腰曲輪"の闇に紛れる事ができる。
だが、橋の袂に辿り着いた時、不自然なほど凪いだ空氣が肌を刺してきた。
月光を背にした橋の入り口には、数十名の精鋭が半円の陣を敷き、静かに待ち構えていたのだ。
「やはり、この道を選んだな。」
陣の中央に立っている継成は、装束の脇腹を赤黒く染めながらも、呼吸一つ乱さず戒喰を見据えていた。
「……殿下の御意である。手足を引き千切っても、殺さず生け取りに致す!」
その声には肉体的な苦悶も感情の起伏もなく、ただ事実を吐き出すだけの無機質な響きでしかなかった。
左右は、深く切り立った空堀…。
前には、生氣を感じさせない継成と数十名の精鋭達…。
最早、退路は断たれ、逃げ道はなかった。
覚悟を決めた戒喰は、緩やかに手を広げ、重心を深く落とすと、両手に手裏剣を構える。
継成の目が、禍々しい月光の如き黄光に包まれ、異変を告げる激しい警鐘が打ち鳴らされていた。
「覚悟いたせ。」
継成の鋭い踏み込みに石畳が砕け、人外を思わせる一閃を、戒喰は手裏剣の刃を冷徹に滑らせながら退けた。
キィィンッ!!
火花が散り、耳を劈く金属音が二人の貌を照らす。
魂氣を両腕に流し込む戒喰の目には、死地に抗う人の光が宿っていた。
だが、精鋭達の刃が容赦なく迫る中、それを既の所で躱す戒喰の頭上へ、夜の底を這い上がるような嘲笑が降り注いだ。
「……無常橋とは、よう言うたものよ。」
誰も、そこへ至る氣配すら感じていない。
気付けば橋の欄干に、一人の男が腰掛けていた。
黒衣を纏い、夜風に銀の髪を棚引かせ、月を背負うその姿は…。
大妖幻 銀妖辯仙 朧沙門掬之丞。
その存在が降り立った刹那、精鋭達は金縛りにあったかのように釘付けとなった。
彼等の湛える殺氣など、朧沙門の纏う底知れぬ"格"の前では、稚拙な羽虫の羽音に等しかった。
継成だけが、焦燥に満ちた怒号を絞り出していた。
「……えぇい!者ども!邪魔立て致す者は排除せよ!!」
だが、朧沙門が欄干から音もなく降り立っただけで、橋の上の空氣が爆ぜた。
衝撃波が石床を舐め、精鋭達は木の葉のように宙を舞い、次々と空堀の闇へ吹き飛ばされていく。
「が……ッ!?」
「あああぁっ!!」
それでも継成だけは刀を杖に踏み止まったが、無理な負荷に耐えかねた肉体から、傷口の血が激しく噴き散った。
朧沙門は、そんな壊れかけた器に一瞥もくれず、煙管を燻らせた。
「興が削げるわ。底の割れてた器で、これ以上、泥を晒すでない。」
不敵な笑みと共に吐き出された白煙は、夜氣を這うように広がり、橋上の篝火を蝋燭の火のように掻き消していった。
-----
「!!?」
戒喰の視界を覆っていた闇が、ふっと霧のように晴れた。
目の前の石畳は夜氣に濡れ、『藤門』手前の"枡形"が広がっている。
しかも周囲には武者達が詰め、櫓の上にも石垣の縁にも見張りの影が並んでいた。
「何を惚けておる。」
傍らから響いた声に、戒喰は我に返って身構えた。
「なんで、お前がココに…?それにココは……?」
「勘違いするな。未だ敵陣の只中じゃ。まだ、あの橋を渡っただけにすぎん。」
朧沙門は煙を輪状に吐き出すと、愉しげに口端を歪めた。
「お主を助ける義理など、ワシにはないが、あの算盤侍を揶揄うのは、面白いからのう(嗤)。」
嗤う朧沙門を尻目に、戒喰は黙したまま、周囲への視線を鋭く走らせる。
武者達は槍を構え、闇へ目を凝らしている。
だが、誰一人としてコチラを見ようとはしていない。
「それにしても、お主、中々に無鉄砲じゃのう。単身、大境城に乗り込み、猩々オヤジの首級まで狙うとはのう。」
あっけらかんと話し掛ける朧沙門に、戒喰は声を潜めて答えた。
「………。」
「は!?何じゃ!?聞こえんぞ!!もっと、ハッキリと話さんか!!」
朧沙門の声が鋭く上がったが、周りの武者達は依然として無反応だった。
戒喰は、その不自然さを試すかのように、声を張って答えた。
「妖幻に、天下の大権を握らせたままの方が禍根やろ。」
それでも周囲の武者達は、眉一つ動かさない。
戒喰は無言のまま、一人の武者に歩み寄り、その脇を抜けてみた。
肩が触れそうな間合いですれ違っても、その視線は微塵も揺らがない。
そこで漸く、違和感の正体が腑に落ちた。
コチラが見えていないのではない。
認識していないのだ。
「……して、それは“廻者衆"の総意か?」
「総意ではある。せやが…。」
「何じゃ、その言いようは?お主等、一党も、中では割れておるようじゃのう。クワハハハハッ!!」
朧沙門は腹の底から哄笑した。
だが、その大声にすら誰も反応しない。
櫓の上の武者も、石垣際の武者も、ただ持ち場を見据えたまま微動だにしなかった。
「クククククッ。呆れるのう。ワシはこのまま帰るが、お主はどうする?ついて来るなら、出口まで送ってやるぞ。」
「……。」
戒喰は、その挑発とも取れる言葉に一瞬足を止める。
朧沙門は振り返り、牙を覗かせて嗤った。
「おい!戒喰という異名は、無謀な上に無能な輩の事ではあるまい?のう、焔橋琥慈郎……。」
「……せやな。」
朧沙門は何事もなかったように歩みを進め、戒喰も静かにその背を追った。
二人が藤門を潜っても、咎める者は誰一人としていない。
二つの影はやがて、夜の底へと溶けていった。
大境城は今、一人の刺客と、一柱の大妖幻を、余りにも無防備に解き放っていた。
-----
萬耀御対の中は、空氣を圧し潰したかのような、重苦しい沈黙に支配されていた。
額を畳に擦り付け平伏する継成の脇腹からは、ドス黒い血が絶え間なく流れ、御対の畳をジワリジワリと穢し続けている。
上座に座す徳臣の目には、煮え滾る怒りが宿り、その視線は抜き身の刃の如く、ただ継成に向かって突き立てられていた。
鉄壁を誇る大境城が、易々と賊の侵入を許し、あまつさえ取り逃している。
その事実こそが、徳臣の胸底で怒りを静かに沸き返らせていた。
「……とことん、してやられたのう。」
低く落ちたその一言に、継成の背は、さらに畳へ沈み込む。
「佑助、戒喰の素性を洗え。ヤツが何者で、どこより出で、誰と繋がっておるのか……その全てをじゃ。」
その声に、感情の起伏は感じられない。
だが、却って底知れぬ凄味を帯びていた。
「この件に関わる輩は、例外なく皆殺しにしてくれるわ!」
徳臣は静かに立ち上がり、継成の傍らへ歩み寄ると、襟元をむんずと掴み、顔を引き上げながら告げた。
「分かったのう。」
継成の顔は恐怖に強張り、唇は細かく震えている。
徳臣は僅かに嗤いながら、継成の鼻先に顔を寄せ、口奥からドロリとした黒い息を吐き掛けると、不氣味な黄色に発光した。
継成は拳を固く握り締め、弾かれたバネのように、額を再び、畳に擦り付けて言った。
「御意!!」
-----
戒喰こと焔橋琥慈郎は、朧沙門に導かれるまま、大境城の外れへと抜けていた。
背後には尚、大境城内の喧騒が微かに燻っている。
されど、追手が迫る氣配は微塵も感じない。
「ククク……。ココまで来ても、まだ聞こえるのう。」
朧沙門は愉しげに嗤い、闇へ溶け込むように歩を進めていた。
琥慈郎は黙したまま朧沙門の後を追うが、胸中に残るのは寧ろ、鋭い違和感だけであった。
それは何故、この大妖幻は自分に手を貸しているのか……。
だが、その沈黙を見透かしたかのように、朧沙門が肩越しに口を開く。
「お主は、まだ捨てるには惜しい駒というだけじゃ。」
「一体、誰の差し金や?」
琥慈郎の問いを背中で受け流し、朧沙門は愉悦を隠しきれぬ様子で口角を吊り上げた。
「ククク……世にはのう。表で天下人を支え、裏で天下の行く末を量る者もおるんじゃ。」
琥慈郎の眉が僅かに動く。
「……それ、何者や?まさか、帝…? いや、考え難いか…。」
「当然じゃ。帝室にも、そんな輩はおらぬ。じゃが、ワシが唯一認める"人間"ではあるのう。」
歩みを止めぬ朧沙門の背後では、大境城が闇の中で黒々と聳えている。
その威容は尚も揺るがず、己が不落である事を誇るかのようであった。
だが今宵、その"妖城"にて初めて刃が突き立てられた。
「クククククッ。猩々オヤジには、過ぎたる女よ。」
徳臣の胸底に煮え滾る怒り。
何者かの底の見えぬ思惑。
そして、朧沙門の歪んだ愉悦。
これらは、琥慈郎の放った一撃を契機に、重なり合う事すら無かった巨大な闇の歯車となって、噛み合い回り始めていた。
この狂った連動は、次に誰が、何を、どこまで蹂躙していくのか。
大境の夜は、まだ、明ける氣配すら見せてはいない…。




