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FILE No.072 歴史の闇

 夜明け前の京は、未だ深い眠りの底にあった。


 だが、寺のイラカが連なるその向こうからは、闇を焦がすように一条の火が立ち上り、風に煽られた煙は屋根を這い、火の粉が瓦を叩く音は、寝静まった街に騒めきをモタラしていた。


 朱雀大路の南端にソビえる、都の正門……『朱雀楼門』。


 このトウうに打ち捨てられたはずの楼門に、甍の波を埋め尽くす百鬼の群れがウゴメき、邪氣と熱氣をヨドませていた。


 ある者は獣の如く四肢を震わせ、ある者は羽音を立てて空を舞い、ある者は影そのモノとなって瓦に溶け込み、その視線は遠く立ち上る火の手へと向けられていた。


「……オイオイ、ありゃあただの火事じゃねぇぞ。」


 小綺麗で胡散臭い商人風の男が、帯に差した銭差しと膨れた巾着を携え、曲がった背を伸ばして、遠くの火の手を覗き込む。【守銭鼠 シュセンソ 治郎鉄ジロテツ


「ありゃ〜かなりの勢いでやんすよ。誰か、とびっきりの油でも撒いたでやんすかねぇ。」


 破れた笠帽を斜めに被り、古びた縞模様の上衣をだらしなく纏った細身の若党も、好奇心いっぱいに火の手を眺める。【邪獺(ジャダツ) 濡吉ヌレキチ


「何を暢気な事を言ってんだい!火の粉がココまで飛んできそうだよ!」


 老婆の顔をした浮遊する提灯が、ぶらぶらと揺れながらベロリと舌を出し、毒づくようにワラう。【提灯御婆チョウチンオバア 呵落呵落(ケラケラ)


「あ…明るいのは、勘弁してくれんか…。」


 黒一色の体躯に、嘴のように尖った口と鋏の指を持つ鬼が闇に潜む。【髪切鬼カミキリオニ 黒鋏クロヤトコ


「でも、あれ、人間の仕業なんだろ?全然興味ないけど…。」


 中性的な顔立ちに、ひねくれた笑みを浮かべた童が、紐の輪を弄り結んでは、無造作に崩して遊ぶ。【小捻鬼コヒネオニ 惹々丸(ジャジャマル)


「ぁ………。」


 青白い肌を布で覆い、顔から覗くお歯黒だけが生き物のように揺れ、無言で屋根を漂う。【悪絹醜女アシギヌシコメ 異織(イオリ)


「でも、これじゃあ、今日の百鬼夜行はヒャッキヤギョウは、ココで仕舞いよねぇ。」


 丸々と肥えた巨躯を黒い小袖に押し込み、帯で締め上げたその姿は、動かずとも場を圧している。【黒鬼姥クロオニウバ 嵐瀬(アラセ)


「………。」


 破れた法衣の下で青緑の肌をうねらせ、巨大な一つ目で周囲を竦ませている。【一眼大怪漢イチガンダイカイカン 座空ザクウ入道(ニュウドウ)


 等々……他にも数えきれぬ奇怪な影が、群れを成して朱雀楼門の屋根を覆い尽くしていた。


 この百鬼ヒャッキ夜行ヤギョウは当時、『阿房アボウ一家』を名乗り、その群れが集う一段高い棟瓦の上には、一際異質な影が悠然と鎮座していた。


 黒紋付の羽織を纏い、腰まで届く銀髪を夜風に棚引かせる青年の姿をした妖幻アヤカシ


 彼は煙管キセルを手に、燃え上がる火の手をただ、冷徹に見つめていた。【大妖幻(オオアヤカシ) 銀妖辯仙ギンヨウベンセン 朧沙門掬之丞(オボロシャモンキクノジョウ)


 吊り上がった細く鋭い二重の双眸の奥で、赤い瞳が妖しく揺れ、端整な鼻梁ビリョウと薄い唇が織りなす顔立ちは、一見して麗しく、その笑みは獲物を値踏みする冷たさを帯び、視線は針のように相手の心臓を射抜いていた。


 まるで夜そのモノを擬人化したように、つかみどころのない禍々しい魂氣コンキを宿す彼を、妖幻アヤカシ達は畏敬の念を込め、こう呼んだ。


 "魑魅魍魎の総大将"と…。

 

「……朧の旦那。あの火元は、どこでやんすかね?」


 濡吉の問いに、朧沙門は燃え上がる空を見据えたまま、人の寿命を読み取るかのように低く呟いた。


「……ありゃ〜理性寺リショウジじゃな。」


 その一言が落ちた瞬間、屋根の上に犇く妖幻アヤカシ達が一斉に騒めき、不氣味な咆哮が夜の底に響き渡った。


 時は、天章十年(1582年)六月二日、未明……。


 理性寺にて、戦乱の覇者•熾出オキイズ馗統ミチツナは家臣•理森オサモリ影家カゲイエに叛旗を翻された。


 僅かな手勢の馗統は、応戦するも多勢に無勢…。


 やがて寺に放たれた火が、瞬く間に燃え広がると、逃れ得ぬ事を悟った馗統は、本堂にて自ら最期を選んだのだ。


 これが後世、『理性寺の変』と呼ばれる一夜であった。


「また夜が、騒がしくなって来るのう。」


 朧沙門は腰の太刀の鯉口を、親指で僅かに弾く。


 乾いた金属音が一時代の終わりを告げる鐘のように、紅蓮に染まる京の空に響き渡った。


 それを合図とするかのように、歴史は濁流の如く流れだす……。


 ーーーーー


 逸早く、主君•馗統の死を察知したのは、西国を統べる雄•八握ヤツカ氏と対峙していた宿老•柴国シバクニ徳臣トクオミであった。


 彼は即座に八握氏と和議を結ぶと、驚異的な速さで軍を京へと返し、逆臣•理森影家を『観月峠カンゲツトウゲの戦い』にて撃破していた。


 謀叛の徒は、僅か数日で歴史の露と消えたのである。


 その後、覇者の後継を巡る『天和テンナ評議』においては、他の宿老達を圧倒した徳臣が、熾出家の実権を掌握する。


 しかし、天章十一年(1583年)には、かつての熾出家筆頭家老•鋼塚カネヅカ虎村トラムラを『標ヶ峰シルベガミネの戦い』で破り、天下人への道を揺るぎなきモノとしていた。


 そして翌年、徳臣は本拠を大境オオザカへと遷し、空前絶後の巨城を築き上げるや、朝廷へと急速に接近し、官位の極みへと手を掛けた。


 天章十三年(1585年)、徳臣は朝廷より"照羽テルワ"の賜姓シセイを受け、名実ともに朝臣アソンとして関白の座に就く。


 かつての覇者•馗統が武力によって切り拓いた荒野を、徳臣は権謀術数と圧倒的な物量に加え、“照羽”という至高の権威によって塗りつぶし、戦乱の世を力ずくで終焉へと導いたのであった。


 だが、天下を掌中に収めた徳臣の治世は、やがて黄金の輝きを失い、どす黒い狂氣へと変貌していく事となる……。


 ーーーーー


 天章十八年(1590年)、九州にて苛烈なる武を誇った鴉島アジマ氏を従えた徳臣は、東国で最後まで抗い続けた不落の雄•醐代ゴダイ氏を降すと、完全に日ノ本の静謐を成し遂げていた。


 四海の波は静まり返り、彼の視界から"敵"は消え失せたのである。


 だが、それは終わりではなく、暴走の始まりに過ぎなかった…。


 敵を失った徳臣の野心は行き場を失い、やがてその牙を大陸へと向け始める。


 それでも肥大し続ける彼の野望は、人の世の境をも踏み越え、ついには神仏や妖幻アヤカシさえも跪かせようとするに至ったのだ。


 尊大にして傲岸不遜な怪物へと成り果てた徳臣を人々やがては、その苛烈さと予測不能の狂氣への畏怖を込め『恐閤キョウコウ』と呼び、民草はおろか諸大名に至るまで、彼の影を踏む事すら死に等しい所業として、恐れ慄いたのである。


 だが、その引き金は、皮肉にも彼が最も切望した血脈にこそあった。


 それは側室•紗々シャシャとの間に、漸く授かった幼き命…。


 徳臣は、この幼子を掌中の珠として溺愛したが、天は余りにも無慈悲であった。


 僅か三歳で、その命が指の間からコボれ落ちた時、徳臣の中で"人“としての何かが、決定的に音を立てて砕け散ったのだ。

 

 彼の中で絶望は凄絶な猜疑心へと反転し、咒詛を疑い、罪なき者達を次々と処断していったのである……。


 --天章十八年(1590年) 武樫ムカシノクニ江津エヅ城仮本丸ーー


 遠く、寒空に響く石切の音が、新領地の普請フシンが道半ばである事を告げていた。


 急造とはいえ、豊川家吉が座す奥書院は、大大名に相応しい体裁を整えてはいるものの、かつての居城•駿州スンシュウ城の陽だまりのような温かみは、この仮城には根付いていなかった。


 家吉は、火鉢の炭が爆ぜる音さえ耳に入らぬほど、目の前の密書に没頭していた。


 小柄な体躯に無駄のない筋肉を締め、日に焼けた顔には深いシワが刻まれ、剃り上げた月代サカヤキに、鋭く細めた目が常に周囲を窺い、口元を固く結んでいる。


 飾り気のない質実な直垂ヒタタレを隙なく着込み、静かに座していても、容易に崩れぬ重みと威圧を漂わせ、節くれ立った指先で、大境から届いた断罪のフミを静かになぞっていた。


『諫言に及んだ重臣、一族郎党悉く族滅。』


『大境城下に溢出する異形の被害、数知れず。』


『亡き愛児を追う余り、天をも咒い始めた狂態。』


 国替えという名の実質的な根切りで、先祖代々の土地と民草との絆を断たれた家吉は、武樫250万石という巨大な枷に封じ込められた上、この機を見計らったかのように届く西からの報せは、心の芯まで凍えさせられるほど常軌を逸したモノだった。


「最早、殿下はもう……。」


 家吉は低く呟き、深く重い溜息を吐く。


 かつては、同じ戦場をくぐり、理想を語り合った事もあった男の面影など、今はもう、どこにもない…。


 今、魔境と化した大境城に鎮座しているのは、権力の頂で腐り果て、人である事すら辞めた、名ばかりの天下人。


 放置すれば日ノ本は、徳臣の狂氣で自壊の一途を辿るだろう。


 だが、相手は人のコトワリをも超えた異形なる存在…。


 戦場で磨き上げた武の刃を以てしても、その深淵なる闇を祓う事は叶わないのだ。


「儂などの力では、この理不尽を裁く事も叶わぬのか……。」


 握り締めた拳が微かに震え、その無力感に呼応するかのように、奥書院の灯火がふらりと揺れた。


「そうじゃな。お主等、人の身では到底無理じゃろうのう。」


 突然、家吉の背後から声が響く。


「ハッ…!何奴!?」


 家吉は反射的に、傍らの刀掛けに置かれた太刀へと手を伸ばすが、指先は凍り付いたように動かなかった。


 しかも、奥書院の闇に呑まれるような錯覚が走る。


 戦乱の世を潜り抜けてきた家吉の身体が、本能的に"この存在には抗えぬ“と警鐘を鳴らしているのだ。


 それは奥書院の隅に、いつから居たのか…。


 全く氣配すら感じさせず、闇が溜まる柱に背を預けつつ、くつろいだ様子で家吉を見つめてた。


「お主が、豊川鈴羅守スズラノカミ家吉か…?」


「い…いかにも…その方、何者じゃ…?」


「ワシか?ワシは朧沙門じゃ。」


 闇のように黒い羽織を纏う朧沙門は、家吉の驚きなど意にも介さず、煙管で煙を燻らせながら、笑みを浮かべて赤く妖しい瞳で、彼の顔を覗き込んでいた。


「オ…朧沙門!?まさか、殿下の配下の妖幻アヤカシ……!?」


「何…?ワシがあの猩々ヒヒオヤジの配下の妖幻アヤカシじゃと…?この戯けがッ!!」


「で…では、儂の元に何しに参った!?」


 家吉は喉の奥から、声を絞り出すように発するのが、精一杯だった。


「何しにじゃと…?お主、本当にあの猩々オヤジが最も疎み、かつその首を欲してやまぬ男か?……これでは案外、底が見えるのう。」


 朧沙門はくつくつと喉を鳴らした。


「いや、人の身であれば、この程度の闇など、ただの夜風としか思えぬか……。それがお主の限界じゃな。」


 奥書院の空氣が一層冷たさを増し、家吉の肌を刺した途端、畳に落ちる朧沙門の影が、肺腑を掴むような濃厚な死の氣配へと変わり、ジワリと足元から侵食していった。


「お主は、この押し付けられた泥濘ヌカルミの地を、白龍の怒りをねじ伏せてまで、ヒラこうという気概を持っておるのじゃろう?」


「白龍……!?」


 その言葉が、家吉の記憶の澱を揺らす ───



 江津を流れる祓浄フツジョウ川の普請は、開始以来、咒われたかのように頓挫を繰り返していた。


 築いたそばから土手は崩され、水は逆巻き、人足は次々と無慈悲に呑み込まれていった。


 まさしく、そこにあったのは、抗いようのない災厄……否、川の神の怒りたる白き龍の影であった。


 そんな折、家中でも閑職として扱われていた占卜センボクマジナイガタトモガラより、余りに素っ気ない言上が届いていた。


【白龍を鎮め申し候也】


 それは余りに簡素で、如何なる秘術を振る舞い、如何ほどの代償を支払ったのかさえ、記されてはいなかった。


 だが、その日を境に祓浄川は嘘のように静まり返り、普請は滞りなく進み始めたのである。


 家吉は、この一報の書を無言で折りたたむと、ただ一度だけ、深く息を吐いた。


〈アレを討たせた以上、儂が祀らねば筋が通るまい……。〉


 それは一国の主君として当然の処置であり、同時に、己の預かり知らぬ異能が配下に在る事を、恐怖と共に認めた瞬間でもあった───



「……アレは、我が配下の術師の一党が成した事。それが何だと言うのだ!」


「一党の働きのう。ククク、左様か……。」


 朧沙門は愉しげに目を細める。


「鈴羅守、お主は懐に"龍を捻り潰す毒"を飼っておきながら、そのカオすら知らぬと申すか?猩々オヤジが恐れたのは、その胆力か?それとも、底知れぬ強運か?ククク……これは全く、見物じゃのう。」


 その言葉が落ちた刹那……。


 障子が音もなく、吸い込まれるようにスッと開いた。


「嫌がらせも、その辺にしておかれては…?」


 それは余りに静かで低い声であったが、その一言が差し込まれただけで、凍り付いていた奥書院の空氣が僅かに軋み、家吉の視線も自然とそちらに走った。


「な…何者!?」


 障子の隙間から覗くのは、一人の若い男の姿であった。


 男は敷居の外で深く頭を垂れ、静かに内へと進み、畳に膝をついた。


 白地の狩衣、淡い氷の紋。無駄のない所作で背を正すその姿に、一切の隙がなかった。


「御前にてのご無礼、失礼仕ります。」


 男は家吉に平伏すると、そのまま視線だけを朧沙門へと向けた。


 真っ直ぐ、逸らさずに…。


「白龍を退けたという破妖ハヨウ導師ドウシは、お主じゃな?」


 男は僅かに目を伏せると、否定も肯定もしなかった。


「……やはり、気付かれておりましたか。」


「ククク……人の身で龍を退けるか。しかも鈴羅守、お主も知らぬうちにのう。」


 家吉は動けぬまま、ただ静かに、その男を見据えていた。


「お主、氷御角ヒミカド宗家の者じゃな?」


「ヒ…氷御角……!?」


 その名を聞いた刹那、家吉の眼が僅かに見開かれた。


 関東の鎮護と江津の普請……その停滞を破るべく、氷御角宗家•第20世家元との縁を、幾度となく求めてきた。 


 だが、八方手を尽くせど、その行方は常に雲を掴むが如しであった。


 その一族の末裔が今、己の前に膝をつき、言葉一つで大妖幻オオアヤカシを御している。


 家吉は喉の奥に込み上げる武者震いを殺し、この危うくも強烈な機縁を、ただ静かに眼に焼き付けていた。


「ククク……お主、よい器と刃を揃えておるのう。さては次期、家元か?」


「いえ、家督は兄が継ぎまする。私は単なる風来坊、しがない咒師マジナイシ清是キヨマサと申す者。」


「ほ〜う、単なる風来坊のう。ならば話が早い。お主であれば、恐閤•照羽徳臣を祓えるであろう。最早、奴は人ではない。理を外れ、国や秩序を侵し、形あるモノ全てを崩し始めた災厄じゃ。」 


「さて……。私なら或いは……。試されますかな?今この場で。」


 家吉は黙して、二人の問答を見据えていた。

 

 心中では、徳臣が変質しつつある事を理解していたが、異形の影を纏う天下人を討てる刃がない事を言い訳にしていたのだ。


 だが、その唯一の刃が、今、目の前に現れたのである。


「朧沙門…。其方、清是をけしかけておるようだが……して、其方自身は何を為すのか?」


 低く問う家吉に、朧沙門は薄く笑った。


「ワシか?ワシは何もせぬ。手も貸さぬし、口も出さぬ。ただ、その"毒"がどこまで、天下に効くかを見届けるだけじゃ。……()()()は、鈴羅守、お主の身を案じておったゆえにのう。」


 アヤツという言葉に、家吉の眉が動く。


 それは一人、心当たりのある人物の貌が浮かんだからだ。


 徳臣の正室……澄政所スミノマンドコロである。


 彼女は、未来を予知する事のできる妖能力者にして、表立って家吉を支援をする事はない。


 だが、語らずして利を分かつ間柄ではあった。


 それゆえ、人知れず、夫の"毒"となる者を家吉の元へ差し向けていたのだ。


「毒が効いたとならば、その先は……誰の世かのう。ワシは、それを見物したいだけじゃ。」


 奥書院の空氣が張り詰め、火鉢の炭がパチリと爆ぜる。


 朧沙門の赤い双眸が、狂氣と好奇で妖しい光を増す中、唯一確かなのは、目の前の者が、これからの日ノ本を左右する存在であるという事だけだった。


 ――摂戸セットノクニ•大境城本丸ーー


 大境城は、遠目には以前と何一つ変わらぬ姿を保っていた。


 黒漆の壁は陽光を撥ね鈍く光り、幾重にも重なる櫓の端々には、天下の富を集めた黄金の意匠が、眩いばかりに走っていた。


 その威容な佇まいは、まさしく日ノ本の頂に君臨する天下人の居城に相応しいモノであった。


 だが、城全体の空氣には、得体の知れない違和が形を持って現れている。


 遠景では光を放つ黄金の装飾も、近景では鈍く濁り、古びた血を塗り込めたかのように、内側から穢れを滲み出していた。


 しかも、ひとたび城内へ足を踏み入れれば、その印象はさらに禍々しさを増していく。


 絢爛であるはずの廊は、見た目以上に長く感じ、歩を進めるほどに、足裏に伝わる感覚が狂い、見知った角を曲がったとしても、目的の場所には辿り着けず。


 壁や襖に描かれた金絵は、まるで意思を持つかの如く蠢き、視線を絡め取り、奥へ奥へと引き摺り込むかのような錯覚を覚えさせ。


 昨日までは、そこにあったはずの扉が消え、代わりに見覚えのない、深い闇へと続く階段が口を開け。


 本丸の深淵に近づくほど、空氣は重く澱み、死に損なった獣の吐息のような湿り氣が肌に纏わり付き。


 磨き上げられた漆の床に映る影は、一拍遅れて別の動きをし、夜が深まるにつれて、その歪みはさらに濃く顕れていった。


 威容と恐怖が渾然一体となった大境城は、今や巨大な魔窟と化して訪れる者の五感を圧倒し、天を衝く天守は下界の喧噪を悉く呑み込み、宛ら巨大な墓標のごとき沈黙を湛えていた。


 その本丸の最奥、萬耀マンヨウ御対ノオツイは、天下の贅を尽くした極楽の象徴と謳われる場所であった。


 だが、その空間も今や、死の胎内を思わせるほどに生温く、粘つく瘴氣に支配されていてた。


「……佑助ウスケ、そこに居るか。」


 人の喉から出たとは思えない、低く感情を排した掠れ声が、御対の闇から響いてくる。


 一段高い座に鎮座する影は奇怪に歪み、微かな灯明に照らされ、ドロリと浮かび上がっていた。


 太閤•照羽徳臣……その小柄な体躯には、かつての温和な面影が辛うじて残りつつも、赤ら顔の猩々ショウジョウを思わせるその相貌が狂氣に染まり、剥き出しの禿頭トクトウが鈍い光沢を放ち、禍々しい威圧感をより一層際立たせていた。


 しかも全身からは、絶えず黒い煤のような霧が立ち昇り、御対の設えに施された黄金の障子を内側からどす黒く侵食させていた。


 その佇まいは、天下人の絶対的な権威と、内に潜む異形の心根とを併せて体現させ、まさしく恐閤という名の畏怖そのモノであった。


磐岐イワキ淡湖守アワミノカミ継成ツグナリ、御前に。」 


 低く、感情を排した声が応じる。


 懐刀として徳臣に仕える継成は、床に影のように張り付き、指先を微動させず床に平伏していた。


 顔には感情の影一つ浮かべず、双眸には薄明の中でも万事を見通すが如き冷徹な神算を宿し、主君•徳臣の吐く黒い霧に静かに呼応していた。


 その沈黙は、ただ従う者の静けさではない。


 あらゆる動きを先読みし、恐閤•徳臣の意思を補完する存在である事を示していた。


「江津の方はどうなっておる?家吉めは、まだ死なぬのか?あぁ、見えてアヤツは意外にしぶといからのう。」


 黒い霧を吐きながら、徳臣はほくそ笑んだ。


「殿下、御案じには及びませぬ。江津の地は、龍の咒詛と泥濘に沈む死地にございまする。家吉殿は我等と異なる人の身なれば、いかに抗おうともいずれ厄災に絡め取られ、野に屍を晒す他ありますまい。」


 継成は顔を少し上げ、不敵な笑みを浮かべる。


「……左様、左様か。日ノ本の天下を統べるは、この余一人。家吉め、アレは見誤れば必ず牙を剥く。ゆえにこそ、余が授けた泥濘に沈め、二度と浮かび上がらせはせぬ。ただ無様に、溺れ死ねばよいのじゃ!!」


 徳臣は枯れた喉の奥でくつくつと嗤い、その音はやがて甲高く歪み、壊れた鐘のように御対の闇へ反響していく。


「カ、カカッ……カカカカッ……!!」


 その余韻と重なるように、背後の闇からは絹の擦れる音が忍び寄ってきた。


「あら、殿下。あのような男に心を煩わせておられては、折角の御顔が台無しにございまする。」


 闇を裂いて現れたのは、側室の紗々。


 深夜の寝所に相応しく、薄紅の小袖一枚に、燃えるような緋の掻取カイドリを肩も露わに羽織り、ややはだけた肩口から覗く白肌は、無造作を装いながらも、隙なく計られた危うさを孕んでいた。


 彼女が身じろぐたび、掻取に刺繍された黄金の糸が灯明を弾き、蛇のように妖しく光を走らせる。


 扇を広げ、口元を隠すその微笑み一つで、御対に満ちる腐臭めいた空氣は、たちまち甘い蜜の香りへと変じ、徳臣の放つ黒い霧さえも幻惑するかのように、ゆるやかに掻き乱していった。


「殿下、家吉などという古狸の事、心に掛けるには及びませぬ。殿下は最早、日ノ本の理そのもの。……それより、佑助。江津に仕向けた“アレ”は、まさか手違いなど、ございませんわね?」


 紗々の瞳が、妖しく三日月の形に細められ、その指先が徳臣の肩に優しく触れると、黒い霧は快楽に震えるように一際激しく渦巻いていった。


「ハッ。抜かりございません。」


 そう短く答えた刹那……。


 廊の彼方で、裂けるような怒号と喧噪が巻き起こった。


 徳臣が醜く眉を跳ね上げ、紗々の扇がピタリと止まり、継成の眉間には、彫刻のような深いシワが刻まれた。


「おい、何事じゃ!」


 障子の外、徳臣の怒声に弾き出されたかのように、一人の家臣が転がり込み、平伏した。


「も…申し上げます!賊にございます!単身、城内への侵入を許しましてございます!!」


 -----


 天守を仰ぐ大屋根の上では、松明の灯が狂ったように乱れ走っていた。


 追う影の先で、一つの影が翻る。


 夜風を裂き、燃えるような赤髪を棚引かせた黒装束が躍動している。


 その者が刀を一閃するたび、天下人の身辺を固める馬廻衆ウママワリシュウが、声もなく糸の切れた人形のように、次々と崩れ落ちていく。


 その刃は、最早、人の理を外れ、一太刀ごとに命を奪い、闇へと溶けては、静かに死を撒き散らしていた。


 天下人の絶対的な聖域は今、たった一人の賊の侵入によって、無惨にもその尊厳を侵されたのだった…。

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