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偽り咲く花神さまの後宮  作者: 淡雪みさ


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36/39

俺にとっての花嫁



 千夜はすぐに澄珠の手を取り、血に濡れた背を抱き上げる。温かな腕に包まれた途端、澄珠の瞳から涙が溢れた。


「澄珠。禁忌を犯してまで俺を救いに来てくれてありがとう。命をかけて俺が消えるのを止めようとしてくれてありがとう。……君のために花神としての地位を捨てようとした俺なんかを、好きだと言い続けてくれて、ありがとう」

「せん、や、さま」


 ――戻ってきてくれてありがとう。消えないでくれてありがとう。置いていかないでくれてありがとう。お礼を言うのは、私の方です。

 そう伝えたいのに、声が出ない。

 怖かった。不安だった。千夜が別人のようになってしまった時、もう二度と、自分の知る千夜に会えないような気がしていた。

 だから澄珠は、ただそこに千夜が現れてくれただけで、存在してくれているだけで、とてつもなく幸せなのだ。


 千夜が、澄珠の頬の傷を見て顔を顰める。


「君を傷付けた相手を、どうしてほしい?」


 それは甘やかな誘惑だった。


「ねえ、言って。望んで。君が望むなら何でもする」


 きっと千夜は、澄珠が今言えば、本当に何でもしてくれるだろう。それがどんなに残酷な願いだったとしても。

 でも、澄珠は、ゆるく首を横に振った。


「叶うならば……千夜様が許すのならば……何も、しなくていい、です」


 か細い声で言葉を絞り出す。


「また、千夜様を害されたら、困ります。でも、術さえ封じられれば……それでいいです。栗萌様を死罪に、しないでください」

「……どうして」


 千夜の瞳が揺れる。


「千夜様に、人殺しになってほしくないのです。それに彼女は……この後宮で初めて、私のことを友達だと言ってくれた人なのです。死なれたら、寝覚めが悪い、です」


 無数のつるに取り押さえられている栗萌の目がわずかに開かれた。


 同時に、後ろから朝風や琴、夕映が駆け寄ってくる。

 朝風は血に染まった澄珠の腹を見て、顔を引きつらせながらすぐに両手で傷口を押さえ、素早く包帯を取り出して巻き付けてくる。

 琴は今にも泣き出しそうな顔で澄珠を覗き込む。夕映が、「医療班を呼んでくる!」と大声で言って、神殿を飛び出していった。後宮の医療班には、治癒の術を持つ巫女がいる。間に合えば、まだ助かるかもしれない。


「千夜さま」

「澄珠様、今は無理に喋らない方がよろしいかと」


 朝風が必死に制止する。その切羽詰まった顔は、澄珠の容態がいかに危ういかを雄弁に物語っていた。

 治療が間に合うか分からない。命がここで消えるかもしれない。だとすれば、どうしても言っておきたいことがある。


「千夜、さま」


 震える手を伸ばし、千夜の頬に触れる。血で濡れた指先を、彼は痛ましげに受け止めた。


「ずっと昔から好きでした。愛していました。私のことを、あなたの花嫁にしてくださいますか……?」


 勇気がなく、長い間言えずにきた言葉。

 千夜を失いかけて初めて、思い知る。想いは、伝えられる時に伝えなければならないのだと。

 だから今、告げた。


 千夜はふっと、泣きそうな顔で微笑んだ。


「当然だろう。君と出会った時から、俺にとっての、俺の花嫁は君だけだよ」


 その声を耳にした瞬間、澄珠の瞼は重く閉じていく。

 霞んでゆく意識の中で、心はただ安堵に満たされていた。


 悲しい夢は、きっともう見ない。





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