消えた花庵
「夢を見ていたのではないですか」
後ろから朝風が言う。
澄珠は絶句し、膝から力が抜けた。
「ない……そんなはず……」
花庵が、そこにあったはずなのに。何一つ残っていない。荒れた土と、雑草と、風に揺れるわずかな数の花々が広がるばかりだ。
澄珠は立ち上がり、足をもつれさせながら建物の跡地へ駆け寄る。地面を掻きむしるようにして探した。けれど、そこにあるのは木材の破片や石くれだけで、建物が存在した証拠すら消え失せている。
後ろで腕を組んでいる朝風が告げる。
「申し上げたはずです。花庵は随分前に取り壊されたと」
「でも……でも確かにあったんです。私はそこで千夜様に……花影様に会って……」
必死に言葉を重ねる澄珠の声は震え、涙に掠れる。
朝風はしばし黙していたが、ゆっくりと澄珠に近付き、なだめるように肩に手を置く。
「……けれど事実として、ここにはもう何もないのです。一時の夢など、お忘れください」
冷徹な言葉が、澄珠の胸を深く抉った。
花庵も、花影も、あの時間さえも、幻だったのか。
気持ち悪さがこみ上げ、澄珠は再び地面に蹲った。視界が暗転しそうになる。すぐ後ろから、こちらに駆け寄ってくる足音がした。
「澄珠様、まだ完全に毒が抜けたとは言えません。私が安全な場所へ運びます。どうか室内でお休みください」
朝風に返事をしようとしても、喉がひゅうっと鳴るばかりで声にならない。
何もないと分かっていても、ここから離れたくなかった。
動けずにいる澄珠に、朝風は小さく息を吐いた。その溜め息が彼の忍耐の限界を知らせているように感じられて、澄珠は迷惑をかけまいと、手足に力を込めて立ち上がろうとした。その時。
――さわりと、風もないのに花々が一斉に揺れた。
澄珠ははっと顔を上げる。
澄珠に花の声は聞こえない。それでも、揺れる花弁たちが必死に何かを伝えようとしているように感じた。
よろめきながらも歩み寄る。
「澄珠様……?」
朝風が怪訝そうに背後から追いかけてくる。
花の揺れは、ある一点でぴたりと止まっていた。澄珠も、そこで足を止める。
――地面に、一本の煙管が落ちていた。
見覚えがある。花影が常に口にしていたものだ。
澄珠は息を飲んだまま立ち尽くした。後から追いついた朝風も同じものを目にし、一瞬、言葉を失ったように沈黙する。
そして次の瞬間、深く重たい溜め息を吐き、片手で額を押さえた。
「嗚呼……あの人は、本当に詰めが甘い」
ぽつりと漏れたその声は、呆れと同時に親しみを帯びていた。
「この地で最も尊ばれているお坊ちゃんですからね。幼い頃から身の回りのことを自分でやったことがないから、後片付けをするのは苦手なんでしょう。どうやら煙管までは消し切れなかったらしいです。澄珠様に隠したいと言うのなら、もっと徹底するべきでした」
澄珠の胸の奥が、期待で熱く震えた。
朝風がゆっくりと澄珠に向き直る。そして、硬い表情を崩してふっと微笑む。その顔は、一神官としての仮面を被っておらず、幼い頃から澄珠と千夜の面倒を見てきた父のようだった。
「澄珠様。私は今から初めて、今代花神――千夜様の命に背きます」
その宣言に、澄珠の胸がどくんと鳴る。
朝風の声音はどこまでも穏やかだったが、決意の色を帯びていた。
「内緒にしていただけますか?」
澄珠は、必死にこくこくと頷いた。
すると朝風は一度目を閉じ、言葉を紡ぐ。
「澄珠様には、何も言うなと命じられました。……が、これを見られてしまってはもう駄目でしょう」
彼の視線が、地面に落ちた煙管へと向かう。
「これは、神力を補充するための薬です。神格を失った千夜様は、これを吸うことでしか姿を保つことができませんでした」
「……神格を失った……?」
澄珠の呟きは、風にかき消されそうなほど小さかった。
朝風は静かに頷く。
「花神の本体は、我々が神殿で祀っている大きな花です。我々はそれを〝偽りの花〟と呼んでいます」
その声音は、淡々としているが、重苦しくもあった。
「神は偽りの花から生まれます。花が子に神格を与えることで初めて神となる。つまり、神格、神としての力は、千夜様ご自身が生まれながらに持つものではなく、偽りの花から与えられているのです」
理解が追いつかない。だが、朝風は容赦なく言葉を続けた。
「千夜様は、神格を他人に奪われました。栗萌様……あの術者が、偽りの花の認識をすり替えたのです」
ぞくりと寒気がした。
神ではない人物の姿を神に変え、認識すらも歪ませる。
栗萌の術の恐ろしさを、澄珠は初めて、本当の意味で理解した。彼女には一人で土地を掌握できるほどの力がある。
「神の家系の子供の造りは、人間とは違います。人間は飯を食えば生きていけますが、偽りの花から生まれた子は、花から与えられた神格がなければ存在できません。……だから千夜様は、この煙管の薬を用いて、一時的に姿を保つだけで精一杯だったのです。神格を取り戻さねば、いずれ消えます」
「……消える……?」
嫌な予感がして、澄珠の唇が震えた。
朝風は目を伏せ、淡々と告げる。
「人間の言い方をするならば――死です」




