第三話 ワザとじゃないからさ
床屋の駐車場から車を出そうとした糸岡は……
メキッ、というイヤな音がした。車体の左後ろだ。
糸岡はあわてて車を少しバックさせ、降りて見てみた。
ちょうど後部車輪の前辺りのボディーが凹み、赤い塗料が付いている。見るのが怖かったが、相手の車のバンパーの右側にも、糸岡の車の白い塗料が薄く付いている。キズの程度は糸岡の車の方がひどい。
だが、問題は、相手の車は止まっていた、ということだ。責任は百パーセント糸岡の側にある。
血の気の引いた真っ青な顔で、糸岡は改めて相手の車を見た。誰も乗っていない。でっかい外車で、真っ赤で、ピカピカだ。奥の車輪止めまで着けず、浅く駐車しているため、手前側の線よりハミ出している。
横に駐車するのはイヤだなと思ったのだが、そこがいつも行く床屋の駐車場だったのだ。車を出す時に、なるべく大きく回ったのだが、あと数センチ足りなかったようだ。自動車学校で散々言われた内輪差というやつだ。
散髪が終わってスッキリした気分が、一気に吹き飛んだ。
糸岡は平日にも休める仕事をしているため、いつも床屋には予約を入れず、フラリと行く。行くのは駅近マンションの隣にある床屋で、駐車場はマンション側の一階にある。いわゆる下駄ばきマンションというもので、一階の大部分を駐車場にしているのだ。
今日はこの後寄り合いがあるから早仕舞いしたいと床屋のオヤジが渋ったが、常連の強みで刈ってもらった。そのためか、終わると同時にシャッターを下ろされたのだった。
この真っ赤な外車の持ち主がオヤジなら良かったが、いつもチャリに乗っているのを思い出した。念の為、駐車場を出て、マンション入口横から床屋を覗いてみたが、人の気配がない。急いで出かけたのだろう。
床屋と反対側に、管理人室があるにはある。古いマンションで、オートロックではないから、管理人が常駐すべきなのに、いつ来ても居たためしがない。
どうしたらいいのだろう。
糸岡はもう一度戻って、相手の車を見てみた。丈夫な外車のせいか、キズはほとんどない。白っぽくなっているのは、ほぼ、糸岡の車の剥がれたペンキだ。これくらいなら、いいんじゃないだろうか。
糸岡は周囲を見回した。他に二台駐車しているが、誰も乗っていない。糸岡に、ふと、魔が差した。
(今のうちに、逃げてしまおう)
糸岡が大変なことを思い出したのは、最初の交差点で信号待ちをしていた時だ。
(駐車場の入口の天井に付いていた、あの丸いガラス玉は。あれは、もしかして)
よく、胃が痛くなる、などと言うが、その時の糸岡は、脇腹から背中にかけて鈍痛が走った。あれは、間違いなく監視カメラであろう。自分の一挙手一投足は、バッチリ全部丸ごと撮られていたのだ。
(どうしよう、どうしよう)
糸岡は後悔した。脳裏に、警察に追われる自分の姿が浮かんだ。
そもそも、被害者もいない物損事故なのだから、素直に届け出ていれば、保険対応で簡単にすむ話なのである。
気が動転したあまり、単なる事故を、事件にしてしまった。今日から犯罪者の仲間入りである。
(そんなのイヤだ。戻ろう。戻って110番しよう)
動揺を抑え、なんとか駐車場に戻った。まだ、管理人もおらず、真っ赤な車を含め、三台とも動いていない。間に合ったようだ。
糸岡はすぐに警察に通報した。状況と住所を説明すると、最寄りの駐在所から警官が二人やって来た。いかにもベテラン風の中年と、一目で新人とわかる若者だ。
訓練を兼ねているのだろう、主に新人が聞き取りをやり、ベテランが横からアドバイスしている。糸岡は免許証・車検証・自賠責保険などを提出した。
「大体の状況はわかりました。相手の方と話されましたか?」
「いえ、わたしはここの住人じゃないんで、相手がどういう人かわかりません」
新人がベテランの方を振り返り、「どうしましょう?」と尋ねた。
「おまえはナンバーを照会してくれ。おれはマンションの管理会社に聞いてみる」
二人がそれぞれ電話をかけたが、なかなかわからないようだ。
やがて、ベテランが「こうしましょう」と言った。
「いつまでもあなたを引き留めておくわけにもいかないし、我々も一旦戻らないといけない。車に張り紙をして、持ち主から警察に連絡してもらうようにします。あなたも保険屋さんへの連絡などあるでしょう。先方から連絡があり次第、お知らせしますよ」
「あ、ありがとうございます」
ホッとして糸岡が戻ろうとした時、背後から新人警官の声が聞こえた。
「先輩、監視カメラがあるようなので、これも一応チェックしますか?」
(ああ、終わりだ。犯罪者の仲間入りだ)
その場に崩れ落ちそうになっている糸岡の耳に、ベテランの返事が届いた。
「ああ、それか。さっき電話で管理人に聞いたよ。何日も前から故障していて、何も映らないらしい」




