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第十四話 ノーサンキュー事故

出勤を急ぐ糸岡に、思わぬ事故が……

 通勤ラッシュの時間帯で、片側二車線の道路は上下とも混んでいた。だが、糸岡が月極つきぎめ契約している駐車場に向かうには、コンビニのある角を右折しなければならない。始業時間がせまっているため、糸岡はあせっていた。

(ずっとウインカーを出してるんだから、ちょっとぐらい止まってくれたっていいじゃないか)

 糸岡の願いが届いたのか、対向車線の車がスッ、スッと二車線とも止まった。

(しめた。サンキュー!)

 ハンドルをグッと右に切った瞬間、糸岡の視野のすみっこに、車列の横をすり抜けて直進して来るバイクが見えた。

(あっ、やべっ!)

 急ブレーキをんだ直後、ドン、と衝撃が来た。

 その時になって、こういう状況の時は『サンキュー事故』というのが起きるから気を付けるようにと自動車学校で教わったのを思い出したが、今さらどうしようもない。

 バイクに乗っていた相手は一瞬倒れたが、すぐに起き上がり、フルフェイスのヘルメット越しにこちらをにらんでいる。

 糸岡は、あわてて助手席側のウインドウを下げ、相手に呼びかけた。

「そこのコンビニの駐車場で話をしましょう!」

 糸岡がコンビニに車をめると、相手はバイクを押してその横に付け、ヘルメットを取った。ちょっとイカツイ顔の男で、髪を極端に短く刈り込んでいる。こちらが声を掛ける前に、男が口を開いた。

「いいぜ」

 糸岡は相手が何を言っているのか飲み込めず、聞き返した。

「はい?」

 男は、少しイラだたしそうな顔になった。

「だから、いいぜ、って言ってるんだ。どう見たって、典型的なサンキュー事故だ。過失は五分ごぶ五分ごぶだろう。幸いおれの体は何ともない。お互いの車体に多少キズは付いたが、まあ、見たところ大したことはなさそうだ。だから、念のため電話番号だけ交換して、このままチャラでいいぜ、ってことさ」

「で、でも、警察に連絡しないと」

 男はギリっと奥歯をみしめた。

「こっちは急いでるんだ!」

 それはお互いさまである。糸岡にしても、このまま行っていいなら、まだなんとか始業時間に間に合うだろう。だが、後になって、やはりケガをしていたなどと言ってこられたら、という不安がある。まして、相手の人相や言葉つきから、そうなった場合の恐ろしさが充分予想できた。

「えーっと、すみませんが、一応、百十番しますね」

 有無を言わせず、糸岡は警察に電話をかけ、事故の状況を説明した。

 背後で男が舌打ちするのが聞こえ、どこかに電話をかける気配がした。よく聞こえないが、誰かに遅れそうだと話しているようだ。

 糸岡も警察との通話が終わると、会社に一報を入れた。保険会社にも掛けたかったが、思いのほか早く、自転車に乗った初老の警官が来たため、それは後回あとまわしにせざるを得なかった。

 別件で相棒が来れないことを軽くびると、警官は職務質問を始めた。双方にケガがないことを確認し、型通り免許証・車検証・自賠責じばいせきを記録すると、バイクの男の方にたずねた。

物損ぶっそんでいいね?」

 ケガをしていない以上、普通なら物損事故であるが、男は少し迷っているようだ。

「逆に、この状況でも人身じんしん事故で申請できるのか?」

「保留、という方法があるよ。まあ、その場合、どちらかに決まったら、もう一度交番に来てもらうことになるがね」

 男はさらに迷った。

「一旦物損にしといて、後で何かあったら人身に切り替える、っていうことは?」

「もちろん、できるよ。但し、手続きは保留より、もう少し面倒になる」

 男の迷う気持ちは、糸岡にもよくわかる。交通事故の場合、その時は何ともなくても、後から痛み出す場合があるからだ。自分なら、ひとまず保留にするだろう。

 だが、男は迷いを振り切るように言った。

「物損で、いい」

「じゃ、後は民事だから」

 心なしかホッとしたようにそう言うと、警官は自転車に乗って、その場を去った。

 残された二人は、仕方なく互いに名乗った。バイクの男は新庄という名前だった。海外から帰国したばかりで、まだ名刺を持っていないという新庄に、糸岡は自分もちょうど名刺を切らしているとウソをついて、電話番号だけ伝えあった。

(こんな得体えたいの知れない相手に名刺なんか渡して、会社に押しかけて来られたりしたら、たまったもんじゃないよ)

 糸岡は、新庄の番号を自分の携帯には登録せず、落ちていたコンビニのレシートの裏に走り書きした。恐らく、もう二度と連絡することもないだろうから、二三日したら、そのまま捨てるつもりだ。

 別れぎわ、新庄が不機嫌そうに糸岡に尋ねた。

「で、お宅は保険会社に連絡するのか?」

「はい。一応は」

「ふん、おれはしないぜ。どうせ保険適用なんかしたら、保険料が何万円もハネ上がっちまうだけさ。バカバカしい。約束の時間にも遅れたし、今朝は散々さんざんだ。じゃあな!」

「お気をつけて」

 もう一度「ふん」と鼻をらし、新庄はバイクに乗って行ってしまった。

(まあ、これぐらいで済んで良かったよ。これこそ、サンキュー、だな)

 始業時間に三十分以上遅れて会社に着くと、何だかみんなバタバタしていた。何事だろうと思いながら、糸岡は部長の席に遅刻のびに行った。

「遅れてすみませんでした。事故は大したことなかったです。見かけはヤクザみたいな男でしたが、意外にいいヤツで、すんなり解放してくれましたよ。ところで、何かあったんですか?」

「ああ。今日、ニューヨーク支社からこっちに赴任ふにんして来る予定の新しい本部長が、遅れてるんだよ。電話はあったが、くわしい事情は教えてくれなくてな」

 そこまで言うと、部長は糸岡の後ろに向かって頭を下げた。

「ああ、新庄本部長、おはようございます。大丈夫でございましたか?」

『糸岡氏の日常』は、今回で完結とします。もっとも、モデルとなったご家族はこれからもウオッチしますので、また何か事件があれば、新作をお届けします。

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