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アート&マネー  作者: Zoo
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# 最終話 世界

# 第二十九話 世界


---


## 一


 画面のなかに、確定の、表示が、灯っていた。


 ——ロットNo.202:小日向鈴愛『超克』

 ——落札額:¥25,000,000

 ——落札者:Bidder #49


 部屋に、しばらく——誰の声も、なかった。


 薫と鈴愛は、画面を、見ていた。

 二人とも、目を、瞬きすら、しなかった。

 俺は——息を、止めて、その表示を、見ていた。


「二千五百万円で——落札……」


 俺の口から、ようやく、声が、漏れた。


「牧人さん——」


 鷹村が、震える声で、訊いた。


「収支は——」


 俺は——頭のなかで、最後の電卓を、回した。


 五百万+六百二十万+六百四十万+五百八十万+二千五百万——

 四千八百四十万円。

 オークション手数料、二〇パーセント、引いて——三千八百七十二万円。

 いや、ちがう。

 すでに、入金済みのプロモーション費の戻り分が、あって——もう少し、ある。


「……これで——」


 俺は、ゆっくり、答えた。


「四千八百九十万円」


 鷹村の口元が、わずかに、緩んだ。


 目標額の、五千万円には——届かなかった。

 わずかに、百十万、足りなかった。

 しかし——

 ほぼ、目標、だった。

 とりあえず、一息、つける、額、だった。


「……まじか」


 俺は、ぽつり、と、つぶやいた。


「生き延びた、ぜ……」


 俺は——椅子の背もたれに、深く、身体を、預けた。

 預けた、瞬間に、力が、抜けた。

 力が、抜けたあとに——汗が、滝のように、こめかみを、伝った。


 鈴愛と薫は、まだ、しばらく——画面を、見ていた。

 二人の表情には、勝った、という、興奮は、なかった。

 ただ——自分たちの、絵に、二千五百万の値段が、ついた、という事実を、ゆっくり、噛みしめていた。


---


## 二


 俺の、知らない場所、で。


 港区の、天草のオフィス。

 彼は、画面の前で、しばらく、動かなかった。


「まさか——」


 ようやく、彼は、口を、開いた。


「この、私が——競り負けるとはね」


 彼の指は、デスクを、こつこつ、と、叩いた。


「小日向鈴愛の作品が——」

「これほど、注目されるとは……」


「天草様」


 秘書が、訊いた。


「今回、五百万で、落札した、一作目は——」

「どちらに、販売しましょうか」


 彼は——しばらく、考えた。


 彼は、二次流通権を——失った。

 第二十一話の、薫の頭突きで、俺たちとの契約が、消えた。

 いま、彼の手元にあるのは、ただ、五百万で、落札した、『誕生』の、一作目、だけ。

 市場で、再販する、自由は、彼に、ある。

 いま、二千五百万円で、別の客が、最後の作品を、落札したばかり、だった。

 市場の、熱は——最高潮、だった。

 いま、彼が、『誕生』を、売りに出せば——少なくとも、千五百万。

 もしかしたら、もっと、出る、かもしれなかった。


「二次流通は——」


 秘書は、続けた。


「加賀谷ギャラリーに、なっていますが……」


「……」


 天草は、しばらく、答えなかった。

 答えずに——フッ、と、笑った。


「いや」


 彼は、ゆっくり、首を、振った。


「やっぱり、売らなくて、良い」


「!」


 秘書の眉が、上がった。


「この部屋に、飾ってくれ」


 彼は、空のほうを、見た。


 窓の外には、東京湾が、広がっていた。

 その湾の、水平線の、いちばん遠い、ところに——

 彼が、まだ「ボンボン」だった頃の、何かが、いた、ような気が、した。


---


## 三


 数日後、俺は——前田の、オフィスに、いた。


 社長室の、机の上に——百万円の、束が、十、並べられていた。

 帯封のかかった、銀行の、新券。

 千万円。

 今月の、前田への、返済金、だった。


 俺は、机の前で、頭を、下げていた。

 俺の、半歩、後ろに——薫が、立っていた。

 第四話、第五話の、屋上以来——俺と、薫が、二人で、この社長室に、来るのは、初めて、だった。


「前田さん——」


 俺は、頭を、下げた、ままで、言った。


「今月の、返済です」


「おう」


 前田は、ゆっくり、頷いた。


「なんか、現金で、悪いな」


「いえ」


「しっかし——」


 彼は、机の上の札束を、軽く、撫でた。


「オークション、上手くいったんだって?」


「いや」


 俺は、頭を、上げた。


「なんとか、かんとか、ですよ」

「カツカツ、です」


「まあ——」


 彼は、頷いた。


「しっかり、返済に、励め」


「へえ」


 俺は、手揉みを、しながら、答えた。


「薫の、ほうは、どうだ?」


 彼は、薫の方を、見た。


「今度——」


 俺は、答えた。


「薫の、初作品を、ギャラリーで、展示するんです」

「力作なので——話題に、なるかと……」


「社長——」


 その時、薫が、口を、開いた。


 俺は、振り返った。


「二人で——話したいんだけど」


 薫の声は、低かった。


 俺と、前田の、両方が——一瞬、止まった。


「……」


 前田は、しばらく、答えなかった。


「牧人は——」


 薫は、続けた。


「先に、帰ってて、くれ」


 俺は——頷くしか、なかった。


「お、おう」


 俺は、扉に、向かった。

 扉のところで、振り返った。

 薫は、もう、こちらを、見ていなかった。

 彼は、机の前の、前田を、まっすぐ、見ていた。


 扉を、閉めた。


 扉を、閉めた、その瞬間——

 部屋の中に、二人が、何を、話しているか。

 俺は、知らない。

 知らなかったが、後から、薫が、ぼそりと、教えてくれた。

 その短い、教え方は——たぶん、彼が、人生で、いちばん、誰かに何かを、開示した、瞬間だった。

 その内容を、俺は、できるだけ、忠実に、記録しておく。


---


## 四


「あの——」


 扉が、閉まったのを、確認してから、薫は、口を、開いた。


「四十九番、なんですけど」


 前田は、答えなかった。


「落札したの——」


 薫は、彼を、まっすぐ、見た。


「社長じゃ、ないですか?」


 前田の、口角が、わずかに、止まった。


「……なんで、そう、思う?」


「なんとなく……」


 薫は、ゆっくり、答えた。


「いや」


 彼は、首を、振った。


 部屋に、しばらく、沈黙が、降りた。

 壁の、巨大な、魚拓が、その沈黙のなかで、無音で、こちらを、見ていた。


「兄弟——だから、かな」


 前田は——答えなかった。

 答えなかったが、彼の口元に、わずかに、別の表情が、灯った。

 怒り、では、なかった。

 驚き、でも、なかった。

 ただ、長く、待っていた、何かに、ようやく、扉が、開いた、ときの——

 穏やかな、表情、だった。


 二人が、その後、どんな話を、したか——

 俺は、知らない。

 ただ、薫が、社長室から、出てきたとき——

 彼の、襟元のボタンは、ふだん通りに、首まで、きっちり、留まっていた。

 ただし、その下の、彼の背中は——わずかに、軽く、なっていた、ような気が、した。


---


## 五


 数日後——

 KAGAYA Galleryで、ある展示が、始まった。


 ギャラリーには、客が、ひっきりなしに、入っていた。

 二千五百万円の、ニュースは——大きな話題に、なっていた。

 結果として、共作者の、薫の名前も、世間に、伝わった。

 一部の、若年層の、ライト層は、SNSで、彼を、KAORU、と、呼ぶように、なっていた。

 名前を、ローマ字で、書くのは——商売の、必要から、俺が、提案した、表記だった。

 業界では——カオル、と読むのか、KAORU、と読むのか、まだ、定まっていなかった。

 その曖昧さが、いまは、かえって、商品としての、魅力に、なっていた。


「KAORUの作品が——」


 客の一人が、訊いた。


「展示されているんですよね?」

「鈴愛ちゃんと、共作した」


「はい」


 俺は、にこやかに、答えた。


「奥の部屋に、展示されていますよ」


 受付には、鈴愛が、座っていた。

 その隣で——薫が、絵を、描いていた。

 彼は、客が、入ってきても、振り返らなかった。

 ただ、紙のうえに、無言で、鉛筆を、走らせていた。


「いらっしゃいませ」


 鈴愛が、にこ、と笑った。


「……あ、薫くんは——今、スケッチ中、です」


「え!」


 客が、声を、上げた。


「鈴愛ちゃん!」

「薫君⁉」

「私——二人の、ファンです」


「ありがとうございます」


 鈴愛が、頭を、下げた。


「ども……」


 薫は、ぼそり、と、言った。

 言いながら、彼は、すこし、恥ずかしそうに、紙のうえに、視線を、戻した。


 俺は、その光景を、ギャラリーの、奥の壁の前から、見ていた。


 俺の心のなかで——

 今日が、何の日であるか、を、もう一度、確認した。


 今日は——

 アーティスト、KAORUの、デビュー作の、展示日、だった。


---


## 六


 午後、二時——


 ギャラリーの、奥の部屋に、客が、集まった。

 二十人ほど。

 業界の、収集家、ライターズ、評論家、俺の祖父の、古い顧客、それから、若いライト層。

 部屋の、中央には——一枚の、巨大なキャンバスが、白い布を、被って、置かれていた。


 俺は、客たちの、前に、立った。


「それでは——」


 俺は、ゆっくり、声を、上げた。


「世界初公開と、なります」


 客たちが、沈黙した。


「KAORU作」


 俺は、続けた。


「『世界』」


 俺は、白い布の、端を、ぐっ、と、引いた。


 布が、空中に、ふわり、と、舞い、落ちた。

 その下から——絵が、現れた。


 画面のなかには——人の顔が、無数に、描かれていた。


 ひとり、ひとり、別の人、だった。

 約、二百人。

 ふだん、通りすがるだけの、コンビニの、店員。

 TVクルーの、誰か。

 オークショニアの、ライブ配信の、女性。

 深夜の繁華街で、薫を、職務質問した、二人の警官。

 画面の、いちばん下には、第一話の、前田総合イベントアシスタントの、社員——新家、鈴原、佐渡、それから、事務の、若い女の子。

 画面の、上のほうに——前田、久郎。

 画面の、左右のほうに——俺と、鈴愛。

 画面の——いちばん中央に、薫、自身が、いた。

 ただし、薫は、こちら側を、見ていなかった。

 鏡越しに、自分自身を、見ていた。


「ステイトメント、を——」


 俺は、声を、上げた。


「読み上げます」


 俺は、薫から、預かった、紙を、取り出した。

 紙には——薫の、ぎざぎざの字で、彼が、書いた、テキストが、印字されていた。


 俺は、ゆっくり、読み始めた。


---


## 七


 ——僕は、人と接するたび、その瞬間の、表情や、仕草、感情が、焼き付くように、記憶に、残ります。


 客たちが、絵に、近づいた。


 ——絵の中には、僕が、最近、出会った、約二百人の、顔を、描きました。


 絵の、いちばん、下のほう、に——前田総合イベントアシスタントの、社員たちが、いた。


 ——それぞれの、顔は、喜びや、悲しみ、驚きや、困惑を、しています。


 絵のなかの、佐渡は——なぜか、笑っていた。

 佐渡を、彼が、長く、嫌っていたのは、知っていた。

 なのに、薫は、彼を、笑顔で、描いた。

 薫は、佐渡が、心の底で、笑いたかったのを——気づいていた、らしかった。


 ——それを、観察することは、僕にとって——「世界を知る」という行為、そのものです。


 俺は、紙を、めくった。


 ——中央には、鏡越しの、自分自身を、描きました。


 絵の中央の、薫は——鏡の中の、自分を、見ていた。

 その鏡の中の、薫は——観察者では、なく、創造者の、目を、していた。


 ——これは、僕が、ただの観察者では、なく、この世界の一部であり、同時に、創造者でも、あるという、自覚を、表しています。


 絵の中の、薫は——巨大な、化け物のように、画面を、占めていた。

 その化け物のような彼を、囲んで——俺たち、知り合いの、顔が、円環状に、並んでいた。


 ——彼らの、顔を、描いている間、僕は、驚くほど、集中、できます。


 俺は、薫の、フロー状態を、思い出した。

 あの、十二時間、十八時間、続く、過集中の時間。

 あの時間の、中で、彼は——一人ひとりの、人生の一部を、自分のなかで、追体験していた、らしかった。


 ——絵の中の、一人ひとりに、向き合うことで——

 ——その人の、人生の一部を、追体験している、ような感覚さえ、ありました。


---


## 八


 俺は、続けた。


 ——タイトルの、『世界(SEKAI)』には——複数の、意味を、込めました。


 ——一つは、人と人との、繋がりが、作る——「物理的な、世界」。


 絵のなかで、人々の顔は、互いに、近接していた。

 ある人物の、頬と、別の人物の、肩が、画面のうえで、触れていた。

 俺たちは、生きている、ただ、それだけで、誰かと、皮膚の距離で、接続している。


 ——もう一つは、それぞれの、感情が、織りなす——「個人的な、世界」。


 絵のなかの、俺の顔は——なぜか、半泣きのような、表情、だった。

 俺は、薫の前で、半泣きの顔を、見せた、つもりは、なかった。

 しかし、薫は、俺の心のなかの、いちばん深いところに、ある、そういう泣き顔を、ちゃんと、捉えていた、らしかった。

 絵のなかの、鈴愛は——笑っていた。


 ——そして、それらが、互いに、響き合うことで、生まれる——「新しい視点としての、世界」です。


 絵の、中央には、薫が、いた。

 左右に、俺と、鈴愛。

 上に、前田。


 俺は、その構図を、見て、少しだけ、立ち止まった。


 俺の知らないところで——

 薫は、自分の、新しい家族を、画面のうえに、置いていた。

 血の繋がった、兄、前田。

 血の繋がっていない、商売の、相棒、俺。

 血の繋がっていない、画家の、相棒、鈴愛。

 その全員を、自分の、世界の、輪郭に、しっかりと、組み込んでいた。


 ——この作品を、通じて——


 俺は、最後の、行を、読み上げた。


 ——観る人が、それぞれの「世界」を、発見してくれることを——願っています。


 俺は、紙を、閉じた。


 部屋の中に、しばらく、沈黙が、降りた。

 誰も、最初の、拍手を、する勇気が、なかった。


 その沈黙の、いちばん奥で——

 ひとり、また、ひとり、客が、絵の前に、進み出ていた。


 俺は——

 部屋の、隅で、立ち尽くしていた。


 俺の頭のなかで——

 もう、計算機は、回って、いなかった。


 計算機は、もう、回らなくても、よかった。

 俺は、いま、商売を、見ていた、ん、じゃ、なかった。

 俺は、いま、ひとりの、画家の、世界を、見ていた。


 その画家を——

 俺は、深夜の繁華街の、ガードレールで、見つけた。

 いや。

 あの夜、俺は、彼を、見つけた、つもりだった。

 本当は——

 彼が、俺を、見つけて、くれた。

 そのことを、俺は、ようやく、認めた。


 ふっ——


 俺は、ぽつり、と、笑った。


 じいちゃん、と、俺は、心のなかで、つぶやいた。


 あの日、便器の前で、お前が、教えてくれた——「金になるからだ」、の、続きは——

 俺は、まだ、書けてない。

 だが、書きたいんだ。

 お前の、その一言と、俺が、十歳のときに、思った「なんか、良いんだもん」の、両方を、ぜんぶ、ひっくるめた、続きを——

 俺は、書きたいんだ。


 絵の前で——客の、ひとりが、息を、呑んだ。

 そのあとに、別の、誰かが、続いた。

 そして、また、別の、誰かが、続いた。


 ようやく——

 最初の、一人目が、ぽつり、と、拍手を、した。


 拍手は、ゆっくりと——部屋全体に、広がった。


 俺は、薫の方を、見た。


 彼は、いつものように、襟元のボタンを、首まで、きっちり、留めて——

 部屋の、いちばん端に、立っていた。

 拍手の音を、彼は、どこか、遠いところで、聞いていた。

 遠いところで、聞いていた、その耳の、奥に——彼は、たぶん、いま、自分の世界の、新しい音を、聞いていた。


 ガードレールの、青年は、もう、いなかった。


 代わりに——画家、KAORUが、そこに、立っていた。


【第二十九話 了】


【完結】

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