151.さようなら
「向こうはそろそろ決着か――こちらも、終わらせるとしようか」
「……」
肩で息をしながら、ハインはキリクを睨み返した。
やはり、格闘術においてもキリクはハインの上をいく。
受けた打撃は数えきれないほどで、服の下は内出血だらけだ。
さらに、意識が遠退くような感覚が続いている――血が足りないだけではない。
(……これは――)
「毒だよ。『白蛇族』はその血に毒を宿す。解毒にはその血で作る血清が必要になる。つまり――君は僕を殺すしか生きる道はないんだ」
「……わざわざ説明いただき、ありがとうございます。では、当初の予定通りですね」
「僕を殺すと? ここまで力の差を見せても諦めない――その姿勢は美しいが、同時に醜くもある。正直、君がここまで諦めの悪い人間だとは思わなかったよ」
キリクに言われて、ハインは思わず笑みを浮かべた。
「……何かおかしなことでも言ったかな?」
「いえ、思い出しただけです」
「思い出した?」
「私は一度――全てを諦めた人間ですので」
シュリネに殺されてもいいと、首を差し出したことがあった。
その時、彼女は思い切りハインのこと殴りつけたのだ――その時のことを思い出して、ハインは何故か笑ってしまう。
「何故でしょうね――彼女のことを見ていると、私も何でもできる気がしてきます」
今は『竜種』の背に乗って、『竜種』と同化した相手と戦っている少女――シュリネはどこまでも常識外れだ。
そんな彼女の戦いに比べたら、目の前の男一人くらいなんてことはない。
ハインの視線が一瞬だけキリクから外れた。
「――向こうの戦いが気になるのかい? 随分と余裕なようだ」
その隙を突いて、キリクがハインとの距離を詰める。
ハインは拳を繰り出すが、キリクはそれをかわして掴むと――思い切りハインの肘の辺りを打った。
「……っ」
鈍い音が鳴り、あらぬ方向へと腕が曲がる。
左腕をへし折られた。
だが、ハインはキリクとの距離をさらに詰め、腰の辺りを掴んで動きを止める。
もはや苦し紛れのようで、キリクは呆れたように溜め息を吐いた。
「もはや立っているのがやっとかい? このまま――君の首筋に肘を落とせば、簡単に首もへし折れそうだ」
「……そうすればいいでしょう。あなたは、私を殺すつもりなんですから」
「最後の機会を与える。僕の下に来る気は?」
「死んでもあり得ません」
「そうか――なら死ぬがいい」
底冷えするような声で、キリクが言い放った。
ハインはキリクの服を強く掴んだままに、
「それがあなたの弱点ですよ」
「……なに?」
「どこまでも余裕ばかり見せて、油断している――だから、王都の作戦も失敗した」
「それは君が裏切ったからだろう」
「いいえ、あなたが直接作戦に加われば……状況はまた違っていたでしょう。今だって、こうして会話をしている間に私を始末すれば、あなたはそれで勝っていたはず」
「勝っていたはず? 君は何を言って――」
「お姉ちゃんから――離れろッ!」
声と同時に――キリクの背中に衝撃が走った。
声の主はクーリだ。
ハインが見たのはシュリネ達ではない――こちらの様子を窺っていたクーリだった。
ほんの一瞬、目が合っただけ。
けれど、姉妹だからこそ考えていることが分かる。
クーリは――ハインに稽古をつけてもらっていた。
ただし、一朝一夕で強くなれるほど甘い世界ではない。
重要なのは――クーリに流れる血だ。
彼女は吸血鬼になっている――かつて、ハインが倒した相手にレイエルという少女がいた。
彼女もまた、吸血鬼になったことで力を得たが、強くなるための訓練を積んでいたわけではない。
吸血鬼とは――その血の力で人間を凌駕することができる。
故にクーリもまた、常人を超えた力を得ているのだ。
だから、ハインは一つだけ――格上を倒しうる方法を教えていた。
たった一撃、全身全霊、華奢な身体に全体重と勢いを込めた――飛び蹴りだ。
大きな岩すら軽々と砕くその一撃が、キリクの背中を捉える。
「ぐ、うっ、おお……っ!?」
キリクが呻き声を上げた。
ハインが押さえていたのは、クーリの放つ一撃を最大限に生かすため――その一撃を、外さないようにするため。
だが、ハインでも押さえられないほどの威力――力に押されてハインは倒れる。
キリクは――そのままクーリの渾身の一撃を受けて、勢いよく吹き飛んだ。
近くの建物の壁を貫き、そのまま隣の建物の中までその身体が飛ばされる。
クーリは勢いのままに地面を滑るが、すぐに立ち上がってハインの下へと駆け寄る。
「お姉ちゃん! 大丈――」
「クーリ、ありがとうございます。あなたのおかげで何とかなりました。もう少しだけ、待っていてください」
ボロボロになりながらも、ハインは優しげな笑みを浮かべて、クーリの髪を撫でる。
クーリも、ハインのその姿を見て――それ以上は何も言えなかった。
役に立てるのはこの一撃だけ――隙を突いたからこそ、決まっただけだ。
もし、キリクがまだ動けるのなら、この先は足手まといになる。
だから、クーリは待つことにした。
キリクが吹き飛ばされた後を辿るようにして、ハインはゆっくりと近づく。
――足が震えて、もう限界だった。
それこそキリクの言っている通り、立っているのがやっとだ。
キリクは――口元から血を吐き出しながらも、まだ生きていた。
ただ、ボロボロになったソファに腰掛けながら、自嘲気味に言う。
「……やれやれ、油断したよ。君が妹を使うとは思わなかった――本当に、君は変わったよ」
「……否定はしません。クーリがいなければ、私は負けていましたから。でも、あなたに対する怒りは、妹も同じですから」
「だから、妹に手を下させたのかい? 最低な姉だな」
「いいえ――手を下すのは私ですよ」
ハインはそう言うと、来る途中で拾っておいた一本のナイフで、キリクの心臓部を突き刺す。
さらに一撃――深くまで突き刺さるように打撃を加えると、キリクはびくりと身体を震わせた。
「――」
大きく血を吐き出して、キリクはそのまま項垂れる。
――ハインが何より心配だったのは、クーリの一撃が、キリクを仕留めていないかどうかだった。
安堵したように、大きく息を吐き出して――ハインは踵を返す。
「さようなら、キリク・ライファ――私とクーリはもう、誰にも縛られたりしません」
限界を超えたハインは――クーリの下へ戻る途中で、力尽きてその場に倒れてしまう。
けれど、その身体を支えてくれたのもまた、クーリであった。
「……クーリ。私は、平気ですから」
「平気なわけないよ……お姉ちゃんのバカ」
「そうですね。あなたの前ですから、格好つけたくて」
「本当にバカだよ……。でも――無事でよかった」
クーリの涙を指で拭い、ハインは静かに目を瞑る。
ただ、一つだけ確認したいことがあった。
「向こうの戦いは、どうなっていますか?」
「大丈夫だよ。だって――シュリネがいるから」
その一言だけで、ハインは納得したように頷いた。
残る敵は一人――あとは、シュリネが何とかしてくれるはずだ。