146.当たり前
「あ、当たった……」
ルーテシアが投げたのは、置き去りにされた工具であった。
何かの作業中だったのだろうか――状況が状況だけに、放置していくことは誰も咎められない。
もちろん、ルーテシアだって注意を引くために投げたつもりだった。
身体能力を魔力で強化する――慣れない方法まで取って、結果的にはノルの頭部に見事的中させたのだ。
そして、ノルの視線がルーテシアに向けられる。
その巨躯がルーテシアの方へとゆっくりと動いた。
すぐに建物の中へと逃げ込もうとするが、想像以上の速さ――ルーテシアは『竜種』の前足に捕まってしまう。
「っ」
「ルーテシア・ハイレンヴェルク――アンタは盟主が気に入ってるみたいだから、本当は殺したらいけないんだけどね。アタシも『魔究同盟』を抜けることにしたからさ」
「な、にを……っ」
『竜種』の前足の握る力は相当なもので――身体の骨が軋む感じがした。
もう少し力を入れられたら、呆気なく命を落としてしまうのではないか、というほどに。
「当然だと思わない? アタシは今、生物の頂点にある――どこの組織に属する必要もない。今からそれを証明するのさ」
ルーテシアを掴んだままに、ノルはさらに高く飛んだ。
ここは地下――空はなく、天井にぶつかるギリギリの高さまで行くと、ノルは楽しそうな口調で言う。
「子供が初めて生き物に触れる時、その加減の仕方を知るようなもの。アンタを握り潰すのは簡単だけど――こっちの方が面白くなりそうだからさ」
そう言って、ノルはそのままルーテシアを手放した。
上空から高く――当然、ルーテシアは着地をする術など持ち合わせてはいない。
このまま落下すれば、確実に命を落とすだろう。
ノルがこの方法を選んだのは、おそらくはシュリネを怒らせるため。
そのためだけに、ルーテシアを落として殺すという方法を選んだのだろう。
(……っ。こんな、ところで――)
死ねない。
まだ、やるべきことが残っている――なのに結局、役立つことは何もできなかった。
この都市にきてルーテシアができたことは何かあっただろうか。
数秒後には命を落とすという状況でありながら、ルーテシアが最後に発した言葉は、
「ごめんなさい、シュリネ――」
彼女への謝罪だった。
だが、全身を襲うはずだった衝撃はない。
何かに攫われた――落下する感覚はすでになく、全身に受けるのは前から来る風だった。
「まったく、謝るくらいなら最初からやるなっての」
「――」
気付けば、目の前にいたのはシュリネだった。
彼女に抱えられるような形で、今――ルーテシアは空を飛んでいる。
シュリネは小さな『竜種』に乗ってやってきたのだ。
「シュ、シュリネ……!?」
「反応が遅いね。今は話してる場合でもないから、とりあえず後ろで掴まってなよ」
促されるがままに、ルーテシアはシュリネの後ろにつこうとする。
そこで、自身の身体を支えている『それ』に気付いた。
「! その腕……」
シュリネはすでに、右腕には刀を握っていた。
これから戦うつもりなのだから、当然だろう。
ルーテシアを救ったのは、シュリネの左腕――ディグロスとの戦いで失い、その代わりとなる義手を作るために、この都市へとやってきた。
「まだ最終調整はしてないって感じらしいけど。今のところは悪くないね。あなたのことを助けられたから」
シュリネはそう軽い口調で言った。
けれど、それはルーテシアがずっと求めていたものだ。
塞ぎ込んでしまうほどまでに追い詰められてしまったシュリネに、できることをしたくて。
ここに来てからずっと、いいことなんてろくに起こらなかった。
ずっと――追い詰められるようなことばかりで。
それがようやく、望んでいたものがそこにあって。
ルーテシアは、シュリネの身体に後ろから抱き着く。
「ちょっと、怖いのは分かるけど強く抱き着きすぎ――」
「……シュリネはいつも、私のことを助けてくれるのね」
「当たり前でしょ。護衛なんだから」
「そうね――あなたは、いつだってそうだから」
「もしかして、泣いてる?」
「っ、な、泣いてな――わっ」
ルーテシアが否定しようとしたところで、子竜――ヌーペが大きく動いた。
当然、今の状況でゆっくりしている暇などはない。
「小さい蠅が飛んでいるみたいじゃない? 目障りだから、すぐに叩き落してあげないとね!」
ノルがそう言って、こちらへと向かってくる。
「悪いけど、話は後だね。今は――あいつをどうにかしないと」
「そうみたいね……!」
感傷に浸っている余裕は与えてくれない。
地下都市での――空中戦が始まった。




