110.この雰囲気だと
ルーテシアが屋敷に戻ってきたのは、日が暮れたからのことだ。
出迎えてくれたクーリの表情がどこか暗い。
「何かあったの?」
「それが……シュリネが部屋から出てこなくて。朝の稽古もしなかったんですよ」
「!」
どうやらシュリネは、ルーテシアが出かけてからずっと姿を見せていないらしい。
もちろん、王都に向かう話はしたし、彼女はついてこない選択をした。
ルーテシアはすぐにシュリネの部屋に向かう。
「シュリネ、いるわよね? 入ってもいい?」
部屋をノックして声を掛けるが、返事はない。
鍵はかかっていないようで、ルーテシアは意を決して扉を開く。
暗い部屋の中、薄めの毛布に身を包んで――ベッドの上に縮こまるように座っていた。
その姿は、いつものシュリネのイメージとはかけ離れていて、ルーテシアは思わず足を止める。
だが、すぐに拳を強く握り、シュリネの傍へと近づいていく。
「シュリネ」
「……あ、帰ってたんだ」
ノックをしたし声も掛けたが、気付いていなかったということか。
いつもの彼女なら、屋敷の外であったとしても――馬車が戻ってきたことくらいには気付くはず。
わずかにこちらに向けられた視線も、落ち込んでいるのが伝わってきた。
「体調は平気?」
まず、ルーテシアが確認すべきことだった。
身体の問題であれば、すぐに病院に連れて行く。
シュリネは自嘲気味に笑みを浮かべて、
「平気だよ。平気だから――ダメなのかもね」
そう、答えた。
シュリネはそのまま、淡々と言葉を続ける。
「わたしは今日、あなたについていかなかった。何となく気まずいからとか、気分が優れないとか、そういう理由じゃなくてさ。わたしは行かなくても平気だと思った。王都に行くだけ、別に危険はないから。でも、意図的についていかなかった事実は消えない」
「――」
その選択をしたのはシュリネだ。
ルーテシアも、無理強いすることはしなかった。
だが、シュリネにとっては自ら『ついていかなかった』ことを選んだのが、どうやら大きいらしい。
「あなたのために戦えるって、言い切った癖にさ。護衛の役割自体をわたしが放棄したんだ。かっこ悪いよね」
「そんなこと――」
「ごめん、これはわたしの問題だから。明日――そう、明日からは普通に、あなたの護衛として……」
そこまで言ったところで、シュリネの言葉が止まる。
――いつだって、彼女の強さには救われてきた。
それは純粋な戦いにおいてだけではなく、その心の持ちようも含めて、だ。
どれほどの苦難に立たされても決して折れることはなく、だからこそ――ルーテシアはここにいられる。
ハインやクーリと共にいられるのだって、彼女がいてくれたからこそだ。
シュリネは強いから大丈夫――そんな、無責任な考えは絶対に持ってはならなかった。
だって、彼女はこんなにも弱っているのだから。
「――私の護衛として、働いてもらわないと困るわよ」
「……ルーテシア?」
シュリネが少し驚いたような表情を浮かべて、視線を上げる。
きちんと視線があって、ルーテシアははっきりと言う。
「今日、王宮でフレアと話してきたの。『サヴァンズ要塞都市』へ行くわ。私は王国の外へ行った経験がほとんどないから、色んな国を渡り歩いた経験を持つ貴女がいると、心強いもの。だから、護衛としてついてきて」
「……」
護衛として――そう願いを口にしても、シュリネはすぐに答えなかった。
「……要塞都市には、『魔導義手』の技術があるって話よ」
「義手なら、この国にだって――」
「ええ、あるわ。でも、技術のレベルは間違いなく向こうの方が上だもの。それが貴女にとって左腕の代わりになるかどうか、それは分からないわ。ただ、可能性があるのなら、私は行くべきだと思う」
ルーテシアはそっと寄り添うように、シュリネの隣に座る。
そして、彼女の右手に触れた。
「私は――貴女に傍にいてほしい。護衛としてしかいられないのなら、それで構わない。だから、一緒に来て」
もはや、願いに近いものであった。
これで拒絶されてしまったら――少しだけ、手が震える。
そんなルーテシアの手を、シュリネが握り返した。
「……この雰囲気だとさ、何か告白みたいだよね」
――少しだけ笑みを浮かべて、けれど先ほどまでの暗いものではなく、冗談めかした物言いで。
思わずこみ上げてきそうになる涙をこらえて、ルーテシアは言い返す。
「ちゃ、茶化さないで。私は本気で――」
「うん、いいよ。雇い主にそこまで言われて何もできないようじゃ、それこそ護衛としては終わりだからね。私は最後まで、私の役目を果たさないと」
「! じゃあ、一緒に来てくれるの?」
「そう答えたよ。大体、ルーテシアは心配性が――!」
シュリネが言い切る前に、ルーテシアは彼女に抱き着いて、そのままベッドの上に倒れ込んだ。
きっと困惑しているだろう――けれど、ルーテシアは顔を上げることができない。
シュリネはそっと、ルーテシアの頭を撫でるように手を触れて、
「ごめん、色々心配かけて」
そう、一言だけ呟いた。
ようやく二人が素直になって、一つの可能性へと進み始める瞬間だった。