106.いっそのこと
ルーテシアは思わず、一歩後退りをしてしまう。
シュリネはすぐに、ルーテシアの反応に気付いたようで、小さく息を吐き出すと、平静を装うように問いかける。
「護衛のことって? 契約金を下げろって言うなら、まあ……今の状態なら受け入れるけど」
「……そんなこと言わないわよ。ただ、あなたの怪我の状態を見ると、やっぱり――」
「怪我? これ以上は良くならないんだから、怪我人扱いはもうしないでよ」
「そういうつもりで言ったわけじゃ……」
「……まあ、いいや。簡潔に言ってよ」
シュリネから感じ取れるのは苛立ちだ――彼女と出会ってから、ほとんど見せたことのないもの。
ルーテシアの曖昧な態度も、きっとよくないのだろう。
彼女の言う通り、伝えるべきことははっきりとしなければならない。
「……今の貴女は、どう見ても無理をしているわ。一度、護衛の仕事から離れて、少し休んだ方がいいと私は考えているの」
「――護衛の仕事から離れる? 離れてどうするのさ」
「だから、護衛であることが貴女にとって重荷になるようなら一度、客人として迎え入れる形で――」
「それって何か意味あるの?」
「意味って……。貴女のことが心配だから、あくまで形だけの話よ」
「形だけなら、今のままでもいいでしょ。心配性なのはいいけどさ、わたしはもう大丈夫。あなたのために戦えるんだから」
シュリネは納得する様子を見せない。
分かっていたことだが、シュリネはやはりその立場に固執しているようにも見える。
彼女にとっては、ルーテシアの護衛でいることが大事なのだろう。
けれど、その考え自体が、今のように休むことない無理な稽古に繋がっていると言える。
ルーテシアは少し感情的になって、反論する。
「私のためって言うなら、少しは言うことを聞いてくれたっていいじゃない。隠れて稽古をするなんて、無理してるようにしか見えないわ」
「わたしの勝手でしょ。無理してるかどうかなんて、ルーテシアに分かるわけないし」
「っ、貴女の様子を見れば分かるわよ! ここ最近、特にハインとの手合わせが上手くいってないことだって――」
思わず、二人の試合のことを引き合いに出してしまった。
ルーテシアは咄嗟に口を閉じるが、シュリネは鋭い視線を向けて、言う。
「……ハインに勝てないのは事実だけど、それが護衛から外れる理由ってこと?」
「っ! 違う――」
「違わないでしょ。だって、わたしはもう平気だって言ってるのに、それを引き合いに出すってことは、結局わたしが弱くなったのが原因ってことだよね?」
弱くなった、とシュリネ自ら口にするとは思いもしなかった。
だが、前と同じ状態でいられるはずはなくて、シュリネはそれを理解した上で――どうにかしようと足掻いている。
「それを言い出したら、貴女がそうなったのは私に原因があって、だから護衛の話をしているのよ」
「そうやって、また自分が原因って……気にしなくていいって言ってもそれだ。ルーテシアもしつこいね」
「しつこいって何よ! 貴女だっていつも勝手で、頑固じゃない! もう少し素直に人の話を聞きなさい!」
半ば言い争いに発展しかけたところで、シュリネが大きく溜め息を吐いて、少し間を置いてから言い放つ。
「……言うこと聞くのがいいんだったら、護衛だってハインに頼めばいいでしょ。クーリだって、これからもっと強くなるだろうし」
「何よ、それ」
「だから、弱い護衛がいらないって言うなら、客人として迎えるとか面倒なこと言わないで、わたしのことをクビにしてでも――!」
シュリネはそこまで言ったところで、驚きに目を見開いた。
ルーテシアが手を振り上げ、そのまま頬を叩く――かと思えば、当たる手前で止まって、そのまま頬に手が触れる。
「……何で、避けないのよ」
「その前に、何で止めたのさ」
「私は、ただ貴女と話し合うつもりできたの。それなのに、貴女に色々言われてカッとなって叩くなんて、おかしいと思った、から」
そう言いながら、ルーテシアの頬を涙が伝う。
ゆっくりとシュリネの頬から手が離れていき、俯き加減のままに続ける。
「……ごめんなさい、今はこれ以上、冷静に話せそうにないから。いったん、この話は保留にさせてもらっていい?」
「まあ、いいけど」
シュリネの同意をもらって、ルーテシアは踵を返してその場を後にする。
振り返りはしない――シュリネが後を追ってくる様子もない。
しばし歩いたところで、ルーテシアはその場に蹲る。
(何が、『話してみる』よ。全然、上手くできないじゃない)
言い争いになって、思わず手を上げそうになって、それで今は泣いているなんて――何一つ、互いにいいことは何もなかった。
結局、シュリネに負担をかけてしまっただけなのだという事実が、ルーテシアにとって重かったのだ。
蹲ったまま動けないルーテシアから、離れたところにシュリネの姿があった。
稽古を続ける気が起きなくて戻ろうとして、今の状況に遭遇した形だ。
「……いっそのこと、叩いてくれてよかったのに」
ぽつりと、ルーテシアに聞こえない小さな声で、シュリネは呟いた。