103.わたしの負け
――早朝。
まだ日が明けてからそれほど時間が経っていない頃、ハイレンヴェルクの屋敷の庭先では、金属の鳴り響く音が響いていた。
ルーテシアの護衛の少女、シュリネ・ハザクラといつものメイド服からエプロンを外したハイン・クレルダの二人が刃を交えているのだ。
互いに実力は把握している――真剣による試合形式であり、最近では毎日のように行っている。
シュリネは刀を振るい、ハインはナイフで応じる。
純粋な得物の長さで言えばシュリネの方が有利である。
しかし、二人のレベルになると、得物の長さで有利不利が生まれることはほとんどない。
特に、ハインは動きも含めて俊敏だ。
速さで勝負しているシュリネに引けを取らないほどで、手数だけで言えばハインの方が上回っている。
すでに試合を始めて十分以上――互いに額から汗が流れ始めた頃、勝負が動いた。
シュリネの振りがわずかに大きくなった際に、ハインが懐へと入り、そのまま背負って投げる形になる。
「っ」
地面に背中から叩きつけられたシュリネは、すぐに起き上がろうとするが、
「私の勝ち、ですね」
ピタリ、とハインに首元へナイフを突き立てられ、シュリネは目を瞑り小さく息を吐き出す。
「うん、わたしの負けだ」
素直に負けを認めると、ハインはナイフを懐にしまい、シュリネへ手を差し伸べる。
握り返して立ち上がると、すぐ近くで試合を見ていたクーリが駆け寄ってきた。
「はい、二人とも、タオルをどうぞ!」
「……ありがとう」
「ありがとうございます」
試合の結果、時間はクーリがメモしていた。
ちらりと、シュリネはその結果を横目で確認して、
「さて、汗もかいたし……流してこようかな」
「お先にどうぞ。私は少し休んでからにします」
「じゃ、明日もよろしくね」
ひらひらと、手を振ってシュリネは背を向ける。
そのまま、汗を流すために屋敷内にある脱衣所へと向かった。
すっかりここでの生活には慣れていて、シュリネはもう屋敷の住人と同じように振舞っている。
汗を吸った服を脱いで、シュリネは自らの左腕に視線を移す。
そこには何もない――鏡を見れば、両目は確かにあるように見えるが、実際には左目に嵌めている義眼で誤魔化しているだけだ。
広めの風呂場で一人、シュリネは頭から水を浴びる――少し俯き加減になりながら、今日の試合のことを振り返った。
「……死角を突かれた時の対応が遅い。それに、私と同じかそれ以上に速い相手と同じ土俵で戦って――いや、同じ土俵だからこそ、勝つためにはどうするか……」
ぶつぶつと、独り言のように。
最近はずっとこうだ――どれくらい時間が経ったか、脱衣所の方に気配を感じる。
「シュリネ、大丈夫?」
ハインかと思えば、そこにいたのはルーテシアだった。
大丈夫――その言葉は、シュリネを心配してわざわざやってきたのだろう。
左腕を失くして屋敷に戻って以来、彼女は随分と過保護になったような気がする。
シュリネは思わず苦笑しながら、濡れた髪の水気を少し拭って、風呂場から出る。
「わざわざ見に来たの? まだ寝てたらいいのに。今日は休みでしょ?」
「この時間にはいつも起きているわよ。朝早く、庭先から音が聞こえてくるし」
「目覚まし代わりになってるってことかな。五月蠅かったら悪いね」
「そんなことはないけれど。一先ず、こっちに来て。髪を乾かすから」
「別に、髪くらいなら放っておいても――」
「ダメよ。せっかく綺麗な髪なんだから。それに、風邪を引くかもしれないし」
「やっぱり過保護だね、ルーテシアは」
シュリネは少し呆れた表情を浮かべて、ルーテシアの指示に従う。
身体を拭いて、ルーテシアの前にある椅子に座ると、彼女がタオルで髪を拭う。
ある程度の水気を切ったら、魔力で風を作り出すようにして、ルーテシアはシュリネの髪を乾かしていく。
「今日はどうだったの?」
「どうって、試合の結果?」
「ええ」
「わたしの負け。最近は勝てないね」
「……そう。残念ね」
「まあ、仕方ないよ。むしろ、ハインには付き合ってもらって迷惑かけてるし」
「ハインも身体を動かしたいって言っていたから、大丈夫よ。最近は、クーリにも色々と教えているみたいだし」
確かに、ハインはシュリネと手合わせを終えた後は、休憩と言いつつクーリに体術などを教えているようだ。
クーリは『吸血鬼』と呼ばれる存在になり、それを健全な状態と呼ぶべきかは一先ず置いておくとして、常人よりも高い身体能力を手に入れた。
まだその力に振り回されているようだが、身につけさえすれば相当な力を手に入れることになる。
ルーテシアのためになる、と同時にクーリ自身の身を守ることもできるようにある――そういうことだろう。
そう遠くない未来、クーリはハインと並んでルーテシアを守る存在になるに違いない。
それは喜ばしいことではあるが、
「……」
シュリネは少しだけ、考え込むような仕草を見せた。
「シュリネ?」
「ん、何でもないよ。そろそろ乾いただろうし、着替えるから出てくれる?」
「まだ、完全には――」
「いいよ、ここまでしてくれたんだし。ありがとうね」
シュリネは半ば押し切る形で、ルーテシアを部屋から出す。
そうして、扉に背をつけると、滑るようにしてその場に座り込んだ。
「わたしは、どうするべきかな」
自分の置かれている状況を踏まえた上で、シュリネは考える。
――別に、楽観的でいたわけではない。
だが、護衛という立場において、シュリネが失ったものはあまりに大きかったのだ。