あの名前
タウロンは黙ってシュタルテに歩み寄ると、腹の辺りに左手をかざし、呪文を唱えだした。周囲に張られていた結界は、すでに消えていた。
オーレスがすすり泣くのをちらっと見てから、タウロンはシュタルテの胸や頭にも手のひらを向けて、治癒術をかけてやった。
痛みが徐々に引いていくのを感じながら、シュタルテは上体を起こした。そして、土の上に涙をこぼしているオーレスに目を止めると、そちらへそろそろと這っていった。
「先生、どうして泣いてるんですか?」
四つんばいのまま、シュタルテが訊く。その顔は穏やかだった。
オーレスは顔を上げてシュタルテをじっと見てから、答えた。
「……自分がなぜこんなことをしているのか、分からなくなりました」
シュタルテは、ふふ、と笑った。
「わたしの人生、振り返ってみるとそんなことばかりです。先生もわたしも、同じくらい馬鹿だってことですね」
オーレスは一瞬、唖然とした表情になったが、ややあってから笑みを浮かべた。
「どうも、そのようです」
そして、少し考えてから、シュタルテに問うた。
「ぼくが言うのもなんですが、君は良く逃げませんでしたね」
シュタルテも、ちょっと考えるような顔をする。
「前に、タウロン様に、『相手が頑固なら、自分は柔軟であることだ』って言われたんです――先生の中で、何かが固く強張っているのを感じてました。けど、それならどう先生に接したら良いのか、分からなかったから……とにかく柔らかく、全部受け止めてみたら、何か分かるかもしれないって思ったんです」
「ふうん、面白い解釈をするものだな」
と言いながら、二人のやりとりをじっと聴いていたタウロンが、やってきた。
「確かに、そんな話をしたことがあったが」
「そういうタウロン殿は、なぜぼくのことを止めなかったのですか?」
オーレスが訊くと、タウロンも言葉を選ぶように少し間を開けた。
「そうですね……お二人が何かを乗り越えかけているのを感じたから、ですかな」
タウロンの答えを聴いて、オーレスは小さく声を立てて笑った。
「あなた方のおかげで、ひとつ、気持ちに区切りがつきました」
オーレスは愉快そうに言った。
シュタルテは不思議そうな表情を浮かべて、タウロンの顔を見た。タウロンも、何の話か分からない、という顔をする。
しかしシュタルテは、きっと良いことに違いない、と思った。
「お二人に、会っていただきたい人間がいます」
オーレスが言った。
「わたしもご一緒しても良いのですか?」
タウロンが尋ねると、オーレスは頷いた。
「ぜひ、立ち会っていただきたいと思います」
「分かりました。それでは、見届けさせていただきましょう」
というタウロンの返事を聴いてから、オーレスはふと、夕闇の中に声をかけた。
「君も一緒にどうですか」
シュタルテはぎょっとして、オーレスの視線を追った。
大きな岩の陰から、道場の仲間のヘイズンが現れた。
「……よろしいのですか?」
「まあ、下手に嗅ぎ回られるよりはマシです」
「……」
途惑うようにオーレスの顔を窺いながら、ヘイズンがやってくる。
「ちょっと、ヘイズン、いつからいたのよ!」
シュタルテが言うと、タウロンが、合点がいったという顔をした。
「誰かいるなと思っていたが、シュタルテさんの友達だったのか」
「え、タウロン様、気付いてたの!?」
「安全確認のために、たまに〈探査術〉をかけていたからね、結界術を使っていない時に。しかし、オーレスさんも気付いているようで、なおかつ無視していたから、わたしも放っておいたんだ」
「……先生も、魔法で気付いてたんですか?」とシュタルテ。
「ぼくは探査術なんて使えません。が、気配で分かります……シュタルテ君、君も、まだまだですね」
「えええ……!?」
「シュタルテ」とヘイズン。「達人というのは、時々、無茶なことをさらっと言うものなんだ。そういう時は、聞き流すに限るよ」
「ぼくが達人などとは、おこがましい。これから会ってもらう人こそ、本物の達人ですよ」
そう言って、オーレスはデンズの町から延びる街道の方へ歩きだした。他の三人もそれに続く。
しかしシュタルテは、二、三歩行ったところでよろけてしまった。タウロンの魔法で傷と痛みは大分マシになっていたが、体力気力の消耗はどうしようもない。
「……ぼくが、負ぶっていきましょう」
振り返ったオーレスは、そう言うと、地面にしゃがみこんだ。
シュタルテは少しだけためらったが、素直にオーレスの背に負ぶさった。両腕を、オーレスの胸の前に回す。
その様子をヘイズンがじっと見ているのに、オーレスは気付いた。
「ヘイズン君、負ぶえなくて悔しいかもしれませんが、小柄な君にはちょっと無理です」
「……悔しくなんかありません」
ヘイズンは低い声で言うと、先に立って行ってしまった。その後に、シュタルテを背負ったオーレスと、タウロンが続く。
(ちょっと、わたし、モテモテじゃん?)
そう思うと、思わず笑い声が漏れてしまった。
「うふふうぅ……!」
妙な笑い方をするシュタルテを、タウロンが気味悪げに見やる。
「オーレス先生、ごめんなさいねぇ」
「ぼくの責任です、気にしないでください」
「そうじゃなくてぇ」
「……何です?」
「つまんないでしょぉ、ぺったんこでぇ」
「……」
「うふふうぅ……!」
オーレスは他の三人を連れて、町に入ってしばらく行った所にある食堂〈夕焼け亭〉へ入った。シュタルテが西のドルストンから初めてこのデンズへやってきた時、昼食を取った食堂である。
「みなさん、夕食はまだでしょう。ぼくが奢りますから、ここで何か食べましょう」
オーレスが言った。
「話でもしながらね……ただし、ここではあの名前は出さないでください」
どこで誰と会うつもりなのか、オーレスは言わなかったが、三人は黙って従った。
シュタルテ、オーレス、ヘイズン、タウロンの四人は、ひとつのテーブルを囲んで食事をしながら、雑談した。ただし、共通にして最大の関心事であるはずの、〈腕斬りオレオン〉の話題には触れずに。
そこで、主にタウロンが、旅先で見聞した様々な出来事を披露することになった。
(この三人、揃いも揃って自分のことを話したがらない)
話をしながら、タウロンは心中で苦笑していた。
(いつもなら、胡散臭がられるのはわたしなのだがな。どうしてこう、何か抱えている人間ばかり集まったものか……)
シュタルテは顔をしかめながら、パンと茹でた野菜を少しだけ食べた。「まだ痛むか」とオーレスが訊くと、「痛みはしないがあまり食べる気にならない」と答えた。
気が付くと、外はとっくに真っ暗になり、店の中の客もシュタルテ達四人だけになっていた。
店の奥から、小太りの中年男、この店の主人がやってきた。
「お客さん達、そろそろ店を閉めたいんですがね」
簡潔だが愛想良く告げた店主に、オーレスが何か答えようとする。しかし、その意図を汲み取って、ヘイズンが先に言葉を返した。
「残念です、話が盛り上がってきたところなんですが」
すると、厨房の中から、男の店員がひとり、歩いてきた。いつかシュタルテがオレオンと呼んだ、背の高い左利きの男である。
「店長、良かったら、おれが店を閉めていきますよ」
「良いのか?」
「ええ、せっかくお話を楽しんでいらっしゃるようですから」
「そうか、それじゃ頼んだぞ、フィーズ」
店主はそう言うと、残っていた女の店員二人を先に帰してから、店を出ていった。
「さて、ご紹介しましょう」
店主の足音が聞こえなくなってから、オーレスが口を開いた。
「こちらがオレオンです」
予想の範囲内だったのだろう、ヘイズンは特に動揺を示さなかった。
しかし、シュタルテとタウロンは、予想の範囲内には違いなかったが、別の意味で驚いていた。
(まさかとは思ったが……)
タウロンは思った。
(本当にこの人だったとは……!)
(わたしすげえ……!)
口を開けて間抜けな顔をしているタウロンとシュタルテに、オーレスとヘイズンはちょっと訝しげな表情をした。
フィーズ
二十九歳男性。デンズの町の西にある食堂〈夕焼け亭〉で、四年前から働いている。それまで料理屋で働いたことはなかったが、包丁の扱いがうまく、近頃は料理の腕を上げてきており、店主にも気に入られている。たまに店の女の子達に、「昔はやんちゃしたもんだ」と自嘲気味に語るが、どんなやんちゃをしていたのかは話そうとしない。




