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─1─

 降りしきる雨の中、目に映る景色は古いモノクロームのフィルム。

 再生される映像はスローモーション。それは視界にある川の流れの描写、その氾濫した様子でさえゆっくりとしたものだった。

 傘も差さず、跪(ひざまず)き虚空を見つめる彼の傍らに落ちている片側だけの木履(ぼくり)。

「龍世(りゅうせい)!」

 後ろから誰かが呼ぶ声がした。


 茹だるような暑さとは言うが、日中気温三十五度を超えていればそれも当然である。

 御鏡(みかがみ)本町駅の改札口周りは駅ビルと隣接しているせい、南口と北口を繋ぐ歩行者デッキにまで冷房の風が僅かに心地よく漏れる。だがこの日陰を跨げば灼熱、その先に見える通行人がまるでRPGのアルゴリズムで徘徊するエネミーシンボルさながらだ。

「くそっ、せっかくの夏休みだってのに……」

 炎々(えんえん)たる陽射しの中、音羽龍世(おとわりゅうせい)が一人ごちる。

 夏期講習というやつ。

 勿論、大学入試に向けて追い込みをかける高校三年生も多く席を置いたが、龍世の場合は一学期末テストの追試を兼ねての出席義務を負わされていた。テストは全教科平均点以下に加えて二教科を赤点、免れる事の出来ない劣等生ぶりである。

 御鏡市立第二高等学校は地元御鏡市でも中の上、という偏差値を維持した高校だったが此処になんとか滑り込み合格したような龍世の後の学力では到底及びもよらない始末で、これがかれこれ三年続こうかというところ。いよいよ夏休みを明けると残り半年で卒業シーズンを迎えた。

 将来を考えればとても億劫だ。学力等の事もあるが家庭の事情についても龍世は悩みどころで、こと大学への進学という選択肢は今のところ彼の内ではほぼ無い。

 動画配信者や声優、漫画家やイラストレーター果ては小説家等といった『そういう方面』にばかり自然と頭がもたげる。

「はぁ……異世界転生でもしてーなぁ……」

 最近のアニメやゲームではデフォルトになりつつあったチート能力や弱スキルの応用といった設定に独り思い馳せていると、

「おっはよー、龍世!」

 ばしっと勢い良く背中を叩かれる。

 薄いYシャツ1枚だけを羽織った夏の学生服でこれには少々龍世も堪(こた)えた。

「いってぇ!…奈緒、お前もう少し優しい挨拶出来ねーのかよ!」

「龍世がしょぼくれてるから気合い入れてあげたの、寧ろ感謝してよ」

「あのな……」

 大分思い切った平手打ちをされたのであろう、ひりと背中へ痛みを覚える龍世の右隣りへ清水奈緒(しみずなお)が回り込む。

 と──

「……?」

「どうしたの龍世?」

「あ、いや……」

 これには何か違和感があった。

 奈緒が俺の右に来て……左で叩いたってことか?

 背中に感じた角度で言えば確かにそうだった。

「ちょっと、やだ龍世……朝から熱中症で頭やられちゃったんじゃない」

「そんな、大したことじゃねーけど……」

「只でさえ追試込みの講習なのに、今から大丈夫なの?」

「うっせー余計なお世話だ。だいたいお前だってそんな成績良くはないだろ」

「だからこうして夏期講習来てるんじゃない、私別に龍世みたいに追試する為に出席してるわけじゃないし」

 言われ龍世が「はいはい」と戯けた素振りをする。

 結局自分はいつでも周りに置いていかれている。駅近の繁華街を抜けた辺りから高校に向かって伸びる緩い坂道を登りながらに、憂鬱な気分はアスファルトを照る夏の熱射がより一層に演出していた。

 後半年もすれば自分も両親を追って関西へと引っ越しすることになる。家族以外の知り合いも宛も無く、向こうで只漠然とフリーターにでもなるのかもしれない。

 学科試験の無い専門学校でも進路に選んで二年ぐらい御鏡市に居座っても良さそうだが、多分それは龍世の親、特に父は決して許さないだろう。

 夏期講習の半ばに追試を受けて、それも恐らく御情(おなさ)けでのぎりぎり合格。卒業させる為の、だ。龍世のような劣等生は学校側にとってもその扱いは手に余るはずだ。

 まるで意味を見出だせない無駄な学業に気が重くなりながらも、龍世は奈緒を隣りに額に汗を滲ませながら、ようやく御鏡市立第二高等学校の正門の前にまで辿り着く。

「おはよう龍世、奈緒。君達、相変わらず仲睦まじいな」

 其処(そこ)で声をかけてきた『如何にも』な男子生徒、清廉とした佇まいに黒縁眼鏡そして左腕には風紀委員の腕章をしている。

 壬生虎太郎(みぶこたろう)はこの暑さだが制服を決して着崩さず、実直な性格が正にその身なりに表れていた。

「あー虎太、お前も夏期講習?」

「一応、お盆前までだな。まあ風紀委員の仕事も兼ねてるんだが」

「仕事?」

 奈緒が首を傾(かし)げる。

「夏期講習中の正門の開閉に、それと…」

「?」

「不純異性交友の監視」

「おいおい……」

 龍世が渋い表情をし傍らで奈緒が呆気に取られていると、壬生は「冗談だよ」と短く笑う。

「いや然しな、実際は生徒手帳にはしっかり異性交友の禁止が明記されているんだこれが」

「マジかよ……面倒くせー学校だな」

「はは、流石に風紀委員でもそこまで一生徒個人に干渉なんかしないけどな」

 品行方正な壬生に対し素行不良な龍世だが、意外にもこの二人が気の置けない友人同士となったのは些細な事だが、その名前がきっかけである。

 龍世の「龍」の字に壬生虎太郎の「虎」の字と、それはお互いを引き合わせるのに十分な意味を持つ単語だった。

「さあ、もう直ぐ正門を閉めるから君らも行ってくれ。平安(ひらやす)はとっくに教室に居るぞ」

 聞き龍世が唖然とする。

「……え?あいつの学力で夏期講習なんて出席する必要なくね?」

「静香来てるんだ!龍世、早く教室に行こうよ」

「おいっ、奈緒待てっ、押すな!」

 怪訝そうな様子の龍世も意に介さず、体重を掛けて背中を押す奈緒がこの鈍(なまく)らをあれよと昇降口まで後導(こうどう)して行く。

 けし掛けられ進むその背に夏と彼女の掌の体温をじわりと感じて、内心龍世がどきりとする。


 終始講習を聞いているのかいないのか、といった様子で今日の午前中を終わった龍世。

 窓の外に目を向けると炎天下の中、甲子園などにはお呼びもかからない我が校の野球部が来年に向けての紅白戦をしている。熱中症には気を付けろよ、と心の内で思うも御鏡第二が地区予選を勝ち抜き出来るチームになるには後何年かかることだろうか。

 夏期講習に出席する生徒の数は一クラスでも四分の一程度のもので、更にその内の一人二人が龍世のような追試組である。当然、龍世自身まともに授業に取り組むわけもなく虚無のままにこの三時間が過ぎ去っていた。

「お疲れ様、奈緒ちゃんに音羽君も」

 同級生の平安静香(ひらやすしずか)が二人に寄って来て声をかける。

 龍世は手で頭(かぶり)を振って肯定とも否定とも取れない仕草をするが、奈緒は勉強後のこの時間にあっても元気そうな調子であった。

「静香もね、でもよく夏期講習来たよね」

 奈緒が聞くと平安がふふと淑やかに笑う。

「私、図書委員だから学校に来る次いでにっていうか。夏休み中も受験生の為に図書室開放してるんだよ」

「そうなの?じゃあ私も今度そっちで勉強しようかな」

「うへぇ……お前ら物好きなのな」

 全く理解が出来ないとの龍世。

「龍世が不真面目なだけでしょ、冷房効いてるし龍世も今度一緒に図書室で勉強しよう?」

「勘弁してくれよ……今だって大して身にもなってねーのに」

 言い机に突伏する龍世。

 やれやれと憐れむ者を見る顔の奈緒に苦笑いする平安その二人の間に入り、伏せる龍世の後頭部へノートの平でぱしっと小突く者がある。

 壬生虎太郎だ。

「んだよ虎太」

「君なぁ、皆が揃ってるのも丁度良い機会じゃないか。進路ちゃんと決めてないみたいだし一念発起した方がいいぞ?」

「いーんだよ、俺はお前らみたいに出来良かねーから。どうせ関西(むこう)に行くことになるだろーし」

 ヘソを曲げる龍世ヘ「はあ…」と諦念の溜め息をつく奈緒。

「二人とも聞いてよ、龍世ホント馬鹿なんだから」

「……んだよ」

「龍世ね、朝に『異世界転生でもしてーなぁ』って」

「げぇっ、お前聞いてたのかよ……」

 これには壬生と平安も流石に唖然としている。

 思春期の妄想、そう考えれば無くもない感じだが、高校三年という一生に一度しか訪れないこの稀有(けう)な時期を鑑みれば、将来の不安からより一層現実的な答えを導き出そうとする方が思考の大半を占めるだろう。

 意外にも平安が皆より先に口を開くが、

「えっと……ほら、夏期講習だってまだ始まったばっかりだし……」

 遠回しの「勉強しましょう」だ。

 それは友人達の龍世に対する誠意の警告か、はたまた啓示か。

「ちょっとした独り言だったんだって、お前らそんなの真に受けるなよ」

「……進路も特に決めて無いのに、か?」

 親友を心配する故にか、壬生が一瞬険しい顔を覗かせる。

 これからの彼らへ待ち受ける将来という難局が示すのだろうその表情には、龍世も思わず僅か退(た)じろぐ。

「決めてる、決めてるって」

「また嘘ばっかり言う」

 取り繕っている、奈緒はそう思ったが、

「嘘じゃねーよ、俺卒業したら絵描きか小説家か作曲家になるから」

『「はぁ!?」』

 三人の声が同時にハモった。

 あまりにも突拍子無さ過ぎる龍世の発言に隣りに座る奈緒がややともしていた。

「龍世がそんなもの作ったとこなんて、私一度も見たことないよ」

「作れる、作れるんだって!今AIとか結構あるじゃん、サブスク入ってそこそこプロンプト突っ込めば出来上がるんだよ」

「き、君なぁ……」

 あちゃあと壬生が龍世を小突いたノートを自分の額に押し当てて心底参ったという仕草をする。

 平安などは正しく『ドン引き』した様子だ。

「その手のものは、もう大分『飽和(ほうわ)』してるじゃないか」

「しててもまだ需要あるんだろ?」

 奈緒が呆れ返って言う。

「……龍世、馬鹿なの?」

「なんで俺が馬鹿扱いなんだよ。やってる連中だって沢山いるはずだ」

 龍世以外の三人が顔を見合わせるが、彼に何をどう言ってやればいいのか今考えあぐねていた。

 この勝手知ったる友の中で、卒業シーズンを迎えれば間違い無く挫折し、蹴落とされ、取り残されるだろう者をその側に置き、三人共に気分も決して良いはずはなく、また何処か言い表せぬ罪悪感にすら苛まれている。

 著作権侵害なども随分騒がれたとはいえ、確かに未だその流用にはグレーゾーンが多い問題だ。

「もしも龍世、そういう方向性のもの駄目だったら……次は転売とかでお金稼ぐとか言い出すの?」

「あー、まあそれも考えたんだけど……なんで?駄目かよ?」

 流石に三人も龍世が将来、闇バイトの類に手を出すとも思わなかったが、

 然し隣りで聞いている限りその思考には内心ぞっとしている。

「出力(アウトプット)する技術や労力を用いらない方法は、人間の『創作』と表現するのに可怪しいとは思わないか?」

「創作してるだろ、AIで」

「龍世、それAIの記録で『生成』してるだけじゃない。作った人の記憶が無いものを創作って呼ぶのはやっぱり何か違うよ」

「記憶も記録も大して変わんねーだろ」

 感情や想いが込められて始めて、記憶だ。

 情報を『何によって』憶えたか。

「分かった分かった、なら龍世……君は何かAIで作られた作品に金銭を支払った事あるのか?」

「え?」

 一瞬、龍世は考えてみたが、

「い、今は…無いかもしれないけど……」

「ほらそれ、AIアレンジ曲だってAIラノベだって無料(ただ)だから観たり聴いたりするけど、お金払えってなったら龍世だって本当は嫌なんでしょ」

「いや別にそんな事はない、作品の出来が良ければ俺もAIの消費者になることは有り得る」

 腕を組み頭を捻(ひね)る龍世が何か肯定しやすい箇所を探してみる。

 何かしら思い当たるはずだ。

「アレだほら虎太、エロ系の漫画とか絵とかはどうだ?」

「あのなぁ、龍世……君は将来ずっと同人を本職にでもするつもりか?逆にとんでもない労力になるぞ。それに君は自分でプロンプト突っ込めば出来るって言ったじゃないか。同じAI使えば皆が同じように作れるんだぞ?アダルトなら余計に携帯で検索すればだな……」

 いい所を思い付いたとした龍世だったが、どこか周りの反応はいまいちで肯定的な発言に票が集まらない。

 挙句、隣りの奈緒と平安が二人に冷やかな視線を送っている。

「ふーん……まあ、二人がそういうエッチなやつを携帯で漁ってるってことは分かったけど」

「例えだよ例え!なんで僕が巻き添え食わなくちゃいけないんだよ!」

 慌てふためく壬生へ、けけっと喉を鳴らして笑っている龍世。

 まあまあと平安が皆を宥める。

「ほら奈緒ちゃん、二人とも男の子だからさ……そうゆうのもするよ」

「お前らが思ってるより虎太も大分ムッツリだからなぁ。フェチ具合で言えば虎太の方が俺より過激かもしれないぜ?」

 したり顔で龍世が女子二人を見やると──

 がんっ!と、

 机の下から奈緒が龍世に向かって思い切り脛蹴りを浴びせる。

「いってぇ!おま……DVだぞ、それ」

「静香の前で壬生君の悪口言わないの、それに龍世の方がセクハラだから」

「なんだよ、別にお前らに何もしてねーよ」

「壬生君にしてるの」

 そうかぁ?と龍世が顔を顰め壬生を見る。

「はぁ……もう僕のことはいいから、龍世も……とにかく夏期講習ぐらいは追試に備えて真面目に聞いてた方が良いぞ」

 平安が三人の痴話に挟まれ心無しか窮屈(きゅうくつ)そうに苦笑いしていた。

「夏期講習終わったら、皆で図書室で勉強しない?先生に頼めばお盆過ぎでも私なら開けられるからさ」

「三人寄ればなんとやらね、壬生君も絶対だよ。龍世引きずってでも連れてくから」

「よし、龍世も今からちゃんと取り組めば御鏡大も不可能じゃないしな。僕も自分の勉強がてら君達を手伝おう」

 なるほど良い提案だと壬生は素直に思ったが、机に伏せる渦中の龍世がどこからどう見ても嫌そうな顔をしている。


 教室を出るところで平安は図書室へ、壬生は講習で使用された各教室の空調の電源を落として回ると言ったが、少しばかり二人を奈緒がそこに留めた。

 何処か、奈緒が僅かに緊張した様子だ。

「静香も壬生君も、奈絵の一周忌……来るよね?」

 そして一瞬、ちらと龍世の顔色を覗う。

──なんだ?

 言いようのない息苦しさを感じた。

「勿論、行かせてもらうよ」

 壬生が言う。

「私も予定ちゃんと空けてあるから」

 平安が努めて明るく振る舞う。

 その二人を法事に誘うはずの奈緒だが、酷く曇った表情をしていた。龍世は、

「奈緒……あんまり思い出すな」

 そんな事を言った。

「うん」

 奈緒に気を使って?

 自分でもよく分からなかった。

 ほんの少し奈緒が息を飲み、まるで喉の奥から声を絞り出すように喋る。

「……と、当日さ、皆で待ち合わせしないかな?ちょっと近い親戚とかも来るし、親達と一緒だと居心地悪いんだ」

 墓前法要(ぼぜんほうよう)と、僧侶を頼んで短い読経をし皆で手を合わせる。言ってしまえばやる事といえばそれだけだ。

 終われば後は大人達が集(つど)って自分達の身の回りの世間話を始めるだろう。奈絵と奈緒は双子の姉妹だったから、親戚の話しの種にされ捕まるとその日一日中を彼女が束縛されかねない。

「私はいいと思う、壬生君は?」

「僕も賛成だね。お昼を建前にして奈緒と龍世を連れて皆でそのまま霊園を抜け出してしまおう」

 奈絵が居なくなってから清水の両親が急遽、御鏡市内の近場に霊園を買った。彼らでも最寄り駅から徒歩で軽く行ける程度の距離に、まだ真新しい奈絵の墓はある。 

 納骨の時には呼ばれその場所は龍世も覚えているが、火葬自体は身内だけで行われた為、奈絵の遺体そのものには龍世も当時会わなかった。

 そこ此処(ここ)で解散した四人、いや五人は高校に入学した最初の一年、皆が共に同じクラスである。

 清水奈絵(しみずなえ)──

 入学当初、彼女達は正に瓜二つで肩にかかるぐらいの髪までも一緒だった。見た目の錯誤はクラス担任をひどく困らせたが、仕草や話し方等で接すれば誰でもある程度見分けがついた為、友人間で困ることは普段それ程なかった。

 仲の良い双子の姉妹、初見の印象をそのままに如何(いか)にもかしましい女子生徒という奈緒に対し奈絵は何処か大人び、加えて勉強も運動も出来る文武両道と言う言葉のはまる優等生だった。壬生と同じく風紀委員に所属し茶道部に入る等少し古風なところがあった。文化祭等の催し物があると演劇部に借り出されて着付け等を手伝うことがある。

 高校一年の夏休みに入ろうとした直前──、丁度今から二年前の事になる。

 一学期末テストが終わり履修も半日と、学生生活の三年間の内で最もゆとりのある期間だ。

「ねえ奈絵、テスト終わったしさ。ちょっと面白い事しようよ」

「……何か嫌な予感するんだけど……」

 にししと歯を覗かせる様に奈緒が子供っぽい仕草で笑う。

「今日、学校半日だし二人で『交換』しようよ」

「流石にそれは……不味くない?」

「絶っっ対っっ、誰にもバレないって。学校終わって本町駅に着くまでね。はい、よーいドン!」

「えっ……ちょっと奈緒」

「やだ、やめてよ奈緒。何言っているの?」

 時既に遅し、奈緒が奈絵の物真似を始める。

 これには奈絵も参った。

 その日は三時間分を実のない履修で過ごす学期末の残り半日授業。教室へ入ると颯爽と奈緒が奈絵の席へ陣取りいよいよ後へと引けなくなった。

 奈絵が渋々、奈緒の席へ腰を降ろすと、

「おい、いいのか?」

 隣りの席の音羽龍世に声をかけられた。

「……あ、えっと音羽君……おはよう」

「いや、そうじゃなくて」

 龍世が一瞬、彼女への名前の呼び方を躊躇ったが、

「清水奈絵、お前の席あっちだろ?」

「え?」

 驚いた。

 入学してからの一学期末まで、龍世とは特に親しくもなかった奈絵と奈緒だったが──

 彼女達の違いが彼には分かるのだ。

「まあ、いいか……俺には、女子のやることも別に関係ねーしなぁ……」

 言ってそのまま机の上に伏せ、朝から熟睡する体勢の龍世に暫し唖然としていた奈絵だった。

 龍世を意識した最初の出来事だ。

──午前が終わり、

 終礼になる。クラスの者は部活動へ向かったりまだ教室に残り友人達と雑談したりと様々だったが、概ね夏の陽射しを恐れていきなり外へ出たくないというのが直感的にあったのかもしれない。

「なあ、清水」

「え?何?」

 この放課後に入った直後、徐(おもむ)ろにだが龍世に声をかけられ思わず焦る奈絵。

 あれから一日、特に絡んで来る様子もなかった龍世が突然声をかけてきた。

「あれ不味くないか?」

 そっと指差し示す先には、

 奈絵のフリをした奈緒が壬生虎太郎と何やら話し込んでいる。

「虎太のやつも風紀委員だったよな?奈絵(おまえ)と勘違いしてるんじゃないかアイツ?」

 あっ、と奈絵が思い出した。

 夏休みの期間に入るとお盆始めまでの間、風紀委員で午前中の校内を巡回する予定があるはずだ。

 委員会の連絡網を受けているのかもしれない。奈絵の表情を読み取って龍世が「やれやれ」と重い腰を上げる。

「おい虎太、そっち清水奈緒だぞ?」

「は?」

 壬生にしては少々間抜けな声をあげる。

 奈絵の席に座ったままの奈緒が、ぽかんと龍世の顔を見上げていた。

「音羽君、なんで……」

 分かるの?

 今日一日、奈絵の方もクラスの皆にはばれていないと思っていた。

 いや本来、両親でさえどこかで混ざれば二人の区別は付かないであろう。

 今朝から?それよりも見知ってからずっと?

「とにかく、そっちが奈緒だよ。なあ……」

 言ってから、少し馴れ馴れし過ぎたと思った。

 龍世は何処か気恥ずかしそうに皆から視線を逸らすと自分の頬を人差し指でかりかりと掻く仕草をする。

 けれども奈緒は、

「うん、名前で呼んでよ!そっちの方が分かり易いもんね!」

 ここまで目を輝かせて喋る奈緒を常にその側にいる奈絵でさえ、今まで一度も見たことが無かった。

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