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第1話 曲がり角

同じ季節の中で ―その髪、いつ切るの―


カピバラ


第1話 曲がり角


同じ季節の中で




「ねえ、いつ切るの?」


三月の終わり、幼なじみのアコが唐突にそう言った。


下校途中の、いつもの曲がり角。


「何が」


「だから髪、中学、丸刈りじゃないの」


あっけらかんとした声。


他意はなかったと思う。


ただ知っていた。


当然のことを確認するように言った。


俺は何も答えられなかった。


「うちのお兄ちゃんも中学入る前に切ってたよ。早く髪切り行っといたら?」


それだけ言って、アコは自分の家の方へ曲がっていった。




ランドセルが揺れた。


ふり返りもしなかった。




イクト 三月


________________________________________


家に帰っても、アコの言葉が頭から離れなかった。


鏡。


さらさらの髪。


特別かっこいいわけでもないけれど、自分では気に入っていた。


でも、アコは知っていた。


中学に入ったら丸刈りだということを、当然のこととして知っていた。


お兄ちゃんの話として、なんでもないように。


俺だけが知らないふりをしていた。




翌朝、一人で床屋へ。


________________________________________


商店街の床屋。




主人が顔を上げた。


「いらっしゃい」


椅子は空いていた。


白いケープを首に巻かれた。


鏡の中に、まだ髪のある自分がいた。


「どうしますか」


主人が聞いた。


短い沈黙


「丸刈りで」


自分の声が、妙に遠くに聞こえた。


主人、頷いて、バリカンを手に。


「何mmにするの」


「え・・・」


「6mmでいいね」


耳の上から刃が入った瞬間、取り返しのつかない何かが始まった気がした。


黒い髪が床に落ちた。


鏡の中の自分が、少しずつ知らない顔になっていく。


ため息が出た。


自分が惨めなのか、バリカンの音の中でずっと考えていた。


俺は仕上がりを見て、一言も言えなかった。




短い。




本当に6mmなのか。




後頭部を見た。


青白い頭皮が見えた。知らない頭だった。




代金を払って外に出ると、三月の風が頭皮に直接、・・・ぶるっ、きゅ




こんなに風を感じたことはなかった。


帰り道、アコの家の前を通った。


二階の窓に明かりがついていた。


もし今、アコに会ったらどうしようと思った。


「切ったじゃん」と言われるのか。笑われるのか。それとも何も言わないのか。




家の前を素通りした。


________________________________________


翌朝、またいつもの曲がり角でアコと鉢合わせた。


アコは俺の頭を見て、一瞬止まる。




「切ったんだ」


「うん」


「似合うじゃん。触らせて」


返事をする間もなく、アコの手が頭に乗った。無造作に、遠慮なく。


「お兄ちゃんと同じ感じ」


それだけだった。特別でも何でもない、という顔だった。




俺は何も言えず。耳が熱かった。


アコはもうランドセルを揺らして歩き始めていた。


その背中を見ながら、ふと思った。


クラスの他の女子は、誰も触らなかった。触ろうとしなかった。




とくに、なにも。




入学式の朝、男子が全員同じ頭で並んでいるのを、女子たちは少し遠い目で見ていた。見慣れない、という顔だった。でも近づいてはこなかった。


アコだけに触られた。


それがなぜなのか、うまく言葉にできなかった。


お兄ちゃんがいるから、というだけじゃない。


ただ、アコに「お兄ちゃんと同じ感じ」と言われた瞬間、何かが終わって何かが始まったような気がした。




何が、とは言えない。でも確かに、何かが。




でも俺は、たぶんずっと覚えている。


あの曲がり角で、あっけらかんとしたあの一言を。顔も。


________________________________________


鏡を見ると、6mmだった髪が20mmを超えていた。ちくちくした硬さはなくなって、指が髪をはさむことができる。少し伸びると、もとの自分に戻った気がする。もう少しだけ、と思う。毎朝そう思う。




でも今朝、鏡を見ながら別のことを考えた。




アコがまた触ったら、どんな感触だろう。


6mmのあの日は、無造作に撫でて「お兄ちゃんと同じ感じ」と言った。今の20mmなら、何と言うだろう。


また触るだろうか。それとも、もう興味もないだろうか。




考えて、少し馬鹿らしくなった。




でも床屋へ行くことにした。


主人は俺の頭を見て何も聞かずに頷いた。もう顔を覚えられている。


それが少し誇らしく、少し悲しかった。


「6mm、3mmどっちにする」


「えっ」


息をのんだ。たしかあいつは3mmだったなと思い出していたら


「3mmでいいね。たいして変わんないよ」


「・・・はい」


言ってしまった。




バリカンの音が響いた。




イクト胃に音がたまる。




切るだけだ。すぐ伸びる。


床に髪が落ちた。前回よりかなり少ない髪が落ちるだけ。鏡の中でまた、頭が丸くなっていった。


伸ばしたかった。もう少しだけ、と思っていた。でも今、バリカンの振動が頭皮に伝わってくると、これでいい、という気持ちが静かに戻ってきた。


なぜかはわからない。




ただ、帰り道の曲がり角で、アコに会ってもいいような気がしていた。


「3mmにしたよ」


「何が違うの、この前は何mmだったの」


会えばこんな感じか。むなしくなった。


________________________________________


入学式の朝、ビバリは校門に。




ケイ中学校




男子が、全員同じ頭。


顔はわかる。でも、なんか違う。小学校の時と同じ顔が、どこか別の人みたいだった。隣のビバリと目が合って、


「結んだだけよね、私たち」と言いあうだけ。




その日から数日、ビバリはなんとなく男子に話しかけにくかった。


向こうも照れているのか、こちらも照れているのか。


廊下ですれ違うたびに、小学校の時より少し間があった。名前を呼ぶのも、なぜか一瞬ためらった。同じ顔のはずなのに。




三日目の昼休み、ショウコが言った。


「なんか男子、変わったよね」


言葉にできない、という顔だった。


ビバリにもわからなかった。ただ、小学校の時には感じなかった何かが、教室の中にあった。男子の側に、女子の側に。透明な仕切りみたいなもの。


髪を切っただけなのに、と思った。


でも、髪を切っただけじゃないのかもしれない、とも思った。




そっと前の席の男子の後頭部を見た。青白い頭皮に、短い髪が均一に並ぶ。


________________________________________


俺たちの机に白い布が置かれた。まわしである。


上級生女子が廊下に。




まわしを渡された時、クラスの男子は全員黙った。




相撲。




子ども用。大人のより薄くやや柔らかい。小学生の子ども相撲じゃないか。


みじめに感じて。




屋外の小屋。


まわしの締め方を習う。二人組になり、互いのまわしを締め合う。ズボンをはいたまま何度も繰り返した。




いよいよ裸。




足を肩幅に開き、膝をほんの少し曲げる。


胸に広げたまわしをつけ両手でおさえる。


あごを引き、端をはさむ。


へそ、股、尻と白まわしを折り曲げながら通す。


二つ折り、四つ折り...


大丈夫。


腰に細くなったまわしを押し付け、横にまわす。


へそを覆う。


横、腰...。


腰を落とし、まわしをぐうっ。引き上げ、締め終わる。


観念した。


立つと自然に股が少し開く。


うしろ褌をさわる。人差し指でツンと。


他の指が尻にあたる。ぞわっとする。




両手の場所がわからない。ブランとする。




数回折り曲げたられた縦褌が下から押し上げる。




むき出しの尻に小さな虫がとまった気がする。手で払う。空気を感じる。




脱いだものを無造作袋に入れ、並べる。まっすぐ一列に。




グラウンドが広がる。




思わず両手で尻を押さえる。




走る。もう無理だ。両手が前後に揺れる。


足の指、指の付け根に湿った泥を感じる。


春の空気が胸に張り付く。




路上の通行人。


園児の散歩。


容赦ない視線が。




頭をごしごし、


二の腕は鳥肌、脇に手を挟む。




胸、へそ。


まわしは余裕なく締まっている。


左の尻の肉をつまむ。





左右に同じ格好の同級生が並んでいた。三月までの自分たちとは、別の生き物みたいだった。


準備体操。形が違う尻がならんでいる。




柔軟体操。座る。尻に土がべったりつく。ぞわっ。




足を放り出し開く。


前屈。胸を地面に近づける。まわしが尻に食い込む。この感覚。




いつか慣れるはず。




数日間、四股ばかりだった。うまくいかない。


何度も踏んだ。太ももの内側が張る。




受け身の稽古が始まった。腰を落とし、前に進む。自分で土に向かい、転ぶ。この繰り返し。




冷たい土。どす、ごろっ。




痛い。




立つ。何度目かわからなくなった。腰を落とす、息が詰まる。でも続けるしかなかった。




________________________________________


ショウコは体育の授業が重なって、グラウンドの端から男子の相撲を見ることになった。




まわし姿の同級生が、滑稽に見えた。


でも笑えなかった。




グラウンドに丸刈り頭が並んで、裸にまわし一枚で四股を踏んでいた。女子たちは息を呑んだ。薄い壁などではなかった。男子たちが全然違う世界にいることを、見た瞬間に感じざるを得なかった。




何度も何度も土に向かう。それでも立ち上がる背中を見る。


笑う気持ちが消えた。丸刈り、裸に白いの一枚。


ありえない。


もし男に生まれていたら。


________________________________________


女子の授業は、教室だった。立ち方、座り方の練習をした。背筋を伸ばして、膝を揃えて、椅子から立ち上がる。何度もやり直しをさせられた。


次に髪の結い方を確認された。


おでこ。


制服の着こなしも注意された。


痛みはなかった。


あちらは土に叩きつけられ、こちらは形を整えられる。


痛みの代わりに、別の何かを注入されていく。


炊事、洗濯、掃除、何気ない言葉が重く感じた。


迷いはなかった、かも。


でも抗う気持ちも、不思議となかった。




何度叩きつけられても立ち上がった男子の背中が、頭から離れなかった。


________________________________________


数日後も相撲の稽古は続いた。


男子の上着が床に落ちていた。ビバリは気づいたら拾っていた。


ショウコと目が合う。ショウコは少しかがむ。遠慮する。




丁寧にたたんで静かにおいた。上着に触れた手。




その日から、当たり前になった。


誰の指示でもなかった。ただ、乱れた衣服は女子が畳み始めた。




我先に畳む。




日が経つにつれ、女子たちは変わっていった。


言葉が丁寧になった。廊下の歩き方が変わった。笑い声が小さくなった。




おしとやかね、と誰かが言った。冗談のつもりだったかもしれない。否定する子はいなかった。




ビバリは鏡を見るたびに、自分の中に知らない誰かが育っているような気がした。




ただ、あのグラウンドで何度も土に叩きつけられた男子たちも、きっと同じように、自分の中に知らない誰かが育っているのだろう。




形は全然違う。


同じ季節の中にいる。


________________________________________


男子がグラウンドで稽古をしている時間、女子は別の教室に集められた。




窓の外からのかすかな音。遠く、男子の立ち上がる風景。




ここは女子だけの空間だった。静かだった。


姿勢を正される。座る時、立つ時、歩く時。


ひとつひとつ、何度もやり直しをさせられた。


膝の角度、手の置き方、視線の落とし方。これもの稽古。




仕込まれる。




辛いを抱える。




敬語の使い方、返事の仕方、人に何かを頼む時の言い回し。


窓の外ではどんな辛抱があるのだろう。


教室の中は静かなまま。




女子には身体の痛みはない。




遠くに擦り傷、あざ。


冷たい痛み。





窓の外のかすかな音が止んだ時、ビバリも安堵した。


________________________________________


俺は相撲の稽古が終わって教室に戻った。


上着が畳んで置いてあった。


誰がやったのか、わからなかった。




女子が畳んだのだろう。たぶん。




自分では絶対こうは畳まない。




ふと、アコかもしれない、と思った。


触ったはず。




次の日の朝、曲がり角でアコと会った。


小学生のとき歩いた道。


アコの歩き方が、少し変わっていた。気のせいかもしれない。


笑い声が小さくなった。言葉が丁寧に。




「おはよう」アコが言った。


えっ、落ち着いている。


俺は? どうなった。


別々の場所で、別々の何かになりつつあった。




アコはもう曲がり角を曲がる。




ランドセルはもうない。通学鞄が揺れた。


俺は三月のことを思い出した。あの時アコは「いつ切るの?」と言った。あっけらかんと言った。


今のアコは、同じように言えるだろうか。表情は。


たぶん違う。




それが寂しいのか、それとも別の何かなのか。


あたたかい風が包む。


春の日。




________________________________________


ある日の放課後、アコと俺。


アコはなんでもない顔で言った。


「ねえ、相撲って恥ずかしくないの」


俺は少し止まる。


「あ、うん、ちょっとね。恥ずかしい」


アコは続けた。


「まわしって痛くないの。ギューッて締めるんでしょ」


「ああ、痛いよ」


「どのくらい?」


「困るな、どのくらいって言われても」


アコはようやく顔を上げた。小学校の時と同じ目だった。


あっけらかんとした、他意のない目にもどったように見えた。




「でもやるしかないよね、男なんだから」




「またね」


それだけ言って、歩いていった。


歩き方が、やっぱり少し変わっていた。


今この瞬間だけは、三月の曲がり角にいたアコと同じだった。


男なんだから、、、ずっと頭の中に残る。


________________________________________


その夜、アコは自分の部屋で一人になった。自分を恥じた。


相撲のことを聞くべきではなかった。まわしが痛いかどうか、恥ずかしくないか。


あちらにはあちらの領域がある。


土に叩きつけられて、それでも立ち上がる世界のことを、軽々しく聞いていいわけがなかった。


しかもこちらのことは何も聞かれなかった。


それが答えだった、とアコは思った。


向こうは踏み込まなかった。


あちら様、という言葉が頭に浮かんだ。大げさかもしれない。


「男なんだから」という言葉も違う。わかったような顔で言える言葉じゃなかった。




アコの手には鏡。




数か月前の自分ではなかった。髪の結い方が変わっていた。座り方が変わっていた。言葉が変わっていた。気づかないうちに、別の誰かになっていた。


大丈夫。


ただ、まだ足りない、と思った。



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