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余章    野良猫

余章  野良猫 


 彼は少年の頃から、その日暮らしの傭兵であった。

 大陸の南に位置する海洋国に生まれ、荒くれ者や比較的善良な海賊たちに囲まれて育った。そんな彼が自由を求めて家を飛び出すのに、時間はかからなかった。

 過酷さは否めない。しかし幸いにも、彼には生来の勘と身軽さがあった。どこぞやの騎士のように、正義を語って敵を一刀両断することはできないが、己の身を守り、生き抜くことならば長けている。全ては生きていてこそ。誇りがなんだ、死んでどうなる。たとえ倫理に背こうと罵られようと、彼は常に強かに、生き抜くことを優先させてきた。食うに困れば、不正に加担してでも稼いできた。

 19のとき、生まれた国で大きなヘマをしでかし、命からがら北の山脈を越えて活動拠点を移した。森と湖の国と謳われる新天地は、騎士団と警備隊が僻地まで網羅し目を光らせていたため、雇われる機会も少なく、あまり仕事がしやすくなかった。美しい景色と平穏さに揺さぶられることもあったが、彼の自由な心は、まもなくその地へ見切りをつけた。さらに北へと、彼は移った。

 北の軍事大国は、彼を大いに満足させる混沌が渦巻いていた。秩序や平和もそこそこ、理不尽や不条理もそこそこ。こういった場所は、仕事に困らない。移って来てから半月、彼は早くも活動拠点とする町を決めた。居心地のよい宿屋と、荒くれ仕事の斡旋所があったからだ。斡旋所で大柄な男たちに混ざって、ちょこまかと実のいい仕事を掠め取っていく彼には、早くも『野良猫』という有難くない通り名がついていた。

 一仕事終えて斡旋所で稼ぎを受け取った日、彼は決まって、宿の一階に造られた酒場へ繰り出す。食堂兼酒場となっているそこを切り盛りしているのは、宿屋の主人の娘ジェニファーだ。もう三十に手が届くかどうかの年齢だと言うが、気の強そうな笑みと仕事をテキパキとこなす動きは、若々しく気持ちが良い。あまり化粧気はないが、もともとの顔立ちがくっきりとした小顔な分、彼女の快活な魅力を引き立てていた。

 「ジェニファー、今日も美人だね」

 「当然よ。そんな毎日毎日顔が変わるわけないでしょ!」

 彼の呼びかけに明るく笑いながら、彼女は酒で満たされた陶器のグラスを、ドンと重い音を立ててテーブルへ置いていく。まだ日が落ちて間もないというのに、この酒場はすでに賑やかだ。片手で数えるほどしかない個別席はすぐに埋まり、共同で囲む長テーブルに相席となる。ジェニファーの明るさと愛嬌、そして料理の美味さが、宿屋の食堂を町一番の人気酒場へ押し上げているのだった。

 「よう、ジェニファー。たまには触らせろよ」

 テーブルの合間を忙しく縫う彼女へ、卑猥な冗談が飛び交っても、

 「あたし、高いわよ。お尻ならひと撫ででシャンパン十本分ってところね」

 と軽くいなしてしまう。町の男たちは、さも愉快そうに大声で笑うのが常であった。

 いい女だな、と、彼は下心と敬愛の念を混ぜて、せわしなく動く彼女を眺める。いつも明るく、活力みなぎる様子の彼女であったが、ベッドの中ではどんな顔で、どんな声をあげるのだろうか。……いいや、そうではなくて。純粋に彼女の素顔に興味が沸いているのだった。こういう女がしおらしく弱音を吐く姿は、たまらなく彼の庇護心をそそる。その一夜に限って彼は、自由を捨ててその女のために生きてもいいかもしれない、と思えるものだった。あくまで、一夜に限る刹那の感情だが。

 「おい、野良猫。ジェニファーに惚れても無駄だぜ」

 相席の向かい側に座る中年男が、からかうように笑いかけてきた。同じくここに宿をとって長く傭兵をしている、言うなれば「先輩」の一人だ。

 「あの娘はもう三年も、一人の男の帰りを待ってるんだ。あんな気丈に振舞ってるけど、一途なんだよな」

 「ふーん。おじさん、その男は帰ってくる見込みはあるの?」

 「ないだろうな。あの馬鹿野郎は『俺を待つな』って、あの娘を泣かして町を出たんだから」

 「だったら、可哀想なジェニファーを慰めてあげないと」

 にっこりと厚顔に言い切った野良猫へ、中年男は呆れたように笑った。

 「あんまりあの娘を困らせるなよ!」

 かくして、いつもより五倍は遅いペースでちびちびと酒を飲んだ野良猫は、閉店間際のこの酒場で、ようやく彼女と二人きりになれた。呑みすぎて眠りこける数名の男の存在を、無視すればだが。

 「ジェニファー、ちょっと話そうよ」

 怒涛の皿洗いがひと段落したのを見て取り、彼はカウンターへ移動して口説きにかかった。

 「僕みたいな年下には、あんまり興味ないかなぁ?」

 ジェニファーは艶やかに唇を上げて、蜂蜜色の瞳で彼を一瞥した。次には、酒瓶の整理を始めながら歌うように応えた。

 「あなた、最近の常連さんよね。さては傭兵のふりをした裏稼業屋でしょう。若いのに、ずいぶん荒んだ目をしてる」

 「ウラカギョウってなんだか分からないけど、心は誰よりも真っ当なつもりでいるよ」

 「うふふ。面白い坊やね!」

 「あ。やっぱり年下には興味ない性質だ。噂で聞いたけど、ずっと待ってる男は、やっぱり年上なの?」

 彼女はちょうど、ウェーブのかかっている長い栗色の髪を揺らして、奥の調味料を整理し始めていた。彼に背を向けたまま、妙に乾いた笑い声をあげた。

 「誰が言ってるのか知らないけど、あたしにそんな色っぽい噂がたってるだなんて、嬉しいもんだわ」

 「何年くらい待ってるの? 僕の予想を言ってもいいかな」

 三年と知っていながら、持ちかける。

 「もし当たったら、その男のこと、正直に教えてほしいよ」

 「だーめ」

 美しい髪をゆるやかに振って、彼女は彼を笑顔で見据える。

 「坊やはもう、寝る時間よ」

 「はーい、ママ」

 彼は大雑把に代金を置いて、肩をすくめた。

 「でも、どうしても寂しくなったら、いつでも声かけてよね。僕なら後腐れなく、上手に慰めてあげられるよ」

 「あら。頼もしいことね!」

 いつもの明るい声に送られて、彼は直通の宿屋へ退散する。あっけなく引き下がったのは、子ども扱いされたからではない。釘をさしたときの彼女の双眸が、本物の悲哀に彩られていたからだ。

 こりゃ、勝てないや。

 ちょっとした傷を抱えて、彼は眠りについた。こうなってみて分かったが、けっこう、彼女への憧れは強かったようだ。この町は居心地がいいし、長い目で隙を窺おうかな、などと考えてみた。


 数日後のある日、財布が心もとなくなってきた彼は、斡旋所へ足を向けた。だらだらと昼まで眠りこけていたため、すでに日が傾き始めている。仕事が集中して舞い込むのは朝であり、斡旋所が賑わうのは午前のうちだ。こんな時間にはろくな仕事がないと分かりきっているが、それでも行かないよりはいいと扉をくぐった。

 そう広くもない斡旋所には、奥に小さなカウンターがある。そこにいるのは、斡旋人である壮年の男。若い頃に流れの傭兵一筋だったと自称しているだけあって、体格がいい。足を悪くしなければ、まだまだ現役だったであろうと思わせる覇気もあった。

 こんな時間だというのに、今日は先客がいた。長身の若い男だ。カウンターに片腕を置いて体重をかけている様は砕けた印象だが、身なりはここにふさわしくなく、嫌味がない程度に小奇麗だ。斡旋人と、親しげに話をしていたようだった。

 「おっと! 野良猫、ちょうどいいときに来やがったな」

 斡旋人は先客との話を中断させ、新たに店に現れた野良猫へ陽気に持ちかけた。

 「実は、いい話が残ってるんだよ。荷運びの影武者の仕事だ。かなり報酬がはずんでる」

 「ふーん。行き先は?」

 「フェレックっていう町だ。スリノアの中央部」

 「うわー。残念だけど、スリノアはもうこりごり。苦手なんだよ、あの感じ」

 すっかり興味を失った彼は、隅の斡旋台帳へと向かう。粗末なテーブルの上に置かれているこの台帳には、まだ引き受けられていない仕事が綴じられているのだった。背もたれのない固い椅子に腰掛け、運良くうまい仕事が転がっていないかを探す。しかし、まだ数ページも見ないうちに、彼の脇へ例の長身の男がやってきた。

 「おい。ちょっといいか?」

 目を向けてみれば、敵意がないのを誇示するためか、男の顔には薄く微笑が浮かんでいる。媚びるでもなく、あからさまな作り笑いでもなく。ちょうど良い加減の微笑であった。改めてよく見ると、若いと言っても三十は超えているようだ。彫りの深い、やや垂れ目の顔立ちは、女好きのしそうな甘いマスクである。着ている上着は、見る者が見れば上質と分かる革で作られた、旅人が好むものだ。

 金持ちの息子のようにも思え、しかしどこか自分と同じ臭いもする。つかみどころのないこの男を、野良猫は警戒した。

 「おまえ、スリノアに縁があるのか?」

 「まあ、少しだけね」

 面倒はごめんだとばかりに、すげなく返答する。しかし、男は嬉しそうに笑んで、向かいの椅子に腰を下ろした。

 「俺も昔、スリノアに住んでたんだ。もう、離れて五年くらいになるけど。おまえは、最近までスリノアにいたのか?」

 けちのつくばかりだった一年間を思い出してしまい、野良猫は思わず、見ず知らずの相手へ愚痴っていた。

 「まあね。二ヶ月前まで、一年間いたよ。はじめは王都にいたけど、あそこは僕みたいな存在を許さないお行儀のいい所だよね。あまりにやりづらくて、北西部の悪名高い領地に移ったのに、そこだって警備隊やら監査員やらで雁字搦めだった。世に名高い、グラム王と英雄のおかげサマサマだ。結構なことだよ」

 「へぇ。悪名高い領地って、ハイボン領か?」

 「そうだよ。おっと、そこの生まれだったなら失礼。でも、あそこの悪事もだいぶ限界みたいだったよ。これから良くなるんじゃないかな」

 男の機嫌などどうでも良かったが、事実なので伝えてやった。すると、相手の男は可笑しそうに笑っただけであった。

 「そんなことより、えーっと、野良猫? さっきそう呼ばれてたよな」

 「好きに呼んだらいいよ。ついでに言えば、僕は男の名前には全く興味ないから」

 「はいはい、そりゃ俺にとっても好都合だ。野良猫、おまえはスリノアでもこんな仕事してたんなら、お国の情勢からゴシップネタまで、情報収集には余念がなかったんだろ? 懐かしいから、有名どころだけでいい、聞かせてくれよ。もちろんタダとは言わない。もし俺の知りたい奴の情報が入ってれば」

 男は胸元から手帳を取り出し、一枚を破ってテーブルに置いた。そして、手帳に引っ掛けていたペンでサラサラと、破格の金額を書いて見せる。

 「どうだ、やってみないか? 制限時間は15分だ」

 「いいね」

 降って沸いた儲け話に心を浮き立たせつつも、野良猫は冷静に指摘する。

 「でも、始める前に、その紙に目当ての人間の名前を書いといてよね。じゃないと、せっかく当てても証拠がない」

 言われた男は、満足げに笑み、ゆったりと足を組んだ。

 「オーケー、野良猫。おまえみたいな抜け目ない奴は好きだよ。三人、名前を書いてやる。一人当たるごとにさっきの金額だ」

 全て当てれば、一ヶ月はゆうに暮らせる。本物の野良猫さながらに舌なめずりし、彼は知る限りのスリノアの人物と最新情報を語り始めた。


 すでに名君と称される、ジャスティス=グラム=スリノア王。即位当時は少年王と呼ばれていた彼の治世も10年目を迎え、もう24歳である。四年前に2人目の王子に恵まれ、公務にもますます精が出ているようだ。一方で、突然片田舎の村に出没したりと遊びにも手を抜かず、各地はいつ王が気まぐれに偵察に来るかと、期待と緊張に揺れているとのこと。一年ほど前には、とある小さな村で、近衛騎士たちと大規模なかくれんぼ兼鬼ごっこをしてみせたとの噂だ。スリノアは平和である。

 彼の隣で常に微笑を絶やさないのが、王妃のカノン=エイダ=スリノア。精巧な美しさは年を重ねるごとに更に磨かれ、少女であった婚姻当初にはなかった色香も、最近はほどよく身についているという。密かに彼女の美に憧れて王国騎士に志願する者も多いそうだ。半年前には、王への忠誠心と同じくらいに、王妃への叶わぬ恋心が動機だと公言した命知らずの若者がいた。赤面した王妃の横で、グラム王はニヤリと笑い、「それもよかろう。スリノアのために命を懸けてみせよ」と許したという。叶わぬ恋に生涯を捧げるというのも、古典的な騎士の美学と言えるのかもしれない。

 若き王を幼少の頃から支えるのが、かの有名なスリノアの英雄、ベノル=ライト。スリノア内乱時、祖国奪還軍の司令官として名を馳せた彼は、今もライト家の当主として騎士団長の位についている。彼もまた四年前に2人目の息子に恵まれており、たいへんな子煩悩ぶりだそうだ。二人の王子と二人の息子たち、歳の近い四人の子ども達へ、時間の許す限り剣や勉学の稽古をつけているというのは、有名な話だ。

 その英雄の妻は、王国の監査を束ねるマリアベル=ライト。彼女が瞬く間に再編した監査局は、王すら閉口させる融通のきかなさで、王国中の不正を明るみに引っ張り出している。彼女自らが前へ出て、王都で長年甘い汁を吸い続けてきた団体を壊滅に追いやった一大劇は、つい半年前のことだ。ベノル=ライトがスリノアの剣を象徴するならば、彼女はさながら、スリノアの知である。


 「どう? 一人くらいは当たった? 有名どころ過ぎるかなぁ?」

 「さてね」

 男は満足げな微笑のまま、微塵も表情を変えない。たいしたもんだ、と舌打ちし、野良猫は近衛騎士たち、王国騎士たちの順に早口に続ける。そして、領主たちの名前に及ぼうとしたとき、己の失態にまたも舌打ちした。この男はハイボン領に縁があるようだ。ならばその周辺から攻めるべきだった。


 ハイボン領主デレク=ハイボンは、監査局の執拗な追及を老獪さでかわし続けている。しかし、時代の流れには逆らえまいというのが周囲の見方だ。実際、網の目のように張り巡らせた黒い縁故のうち、いくつかは監査局に尻尾を捕まれている。当然のように行われる尻尾切りに悲鳴を上げる者たちの中から、断罪の槍のごとく致命的な証拠が出されるのも、時間の問題であろう。

 その領主の地位を継ぐ予定である、長男のアル=ハイボンは、なかなかに才気溢れるやり手と噂されている。しかし、さしもの彼も領地が裁判にかけられることとなれば、運命から逃れることは難しい。冷酷非道な父に比べていくらか人間味のある彼は、窮地に立たされる領地を守ろうと必死に領内を駆け回り、立て直しを図っていると聞く。その努力が報われるかどうかは、誰にもわからない。

 ハイボン家には次男のテオ=ハイボンがいたが、五年前のマリアベル=ライト連れ去り事件以降、行方をくらましている。噂では彼と彼女は幼少の頃からの仲であり、テオが一方的な恋心故に彼女をさらったとも、不謹慎極まりないがベノル=ライトをからかうために2人が共謀した茶番だったとも囁かれている。どちらにしろ、斬首にされてもおかしくはなかった彼だが、一説によると北の大国へ逃げおおせているという。


 「……あれ?」

 思わず声を上げ、目の前の男を改めて眺める。しかし、男は全く動じた様子はない。それどころか、満足げにゆったりと足を組み替え、彼を焚き付けてきた。

 「どうした? あと一分しかないぜ」

 「……ふーん」

 どおりで喰えないわけだ。納得した野良猫は、勝利の予感に高揚しながら続ける。


 スリノア北西部で最も有名な商家、ダグラス家。近年スリノアと和解したワオフとの交易ルートを抑えて、急成長したのだ。若くして妻を亡くした当主の後妻に貰われたのが、アデリシアという美女だ。三年前のこの結婚は豪華絢爛を極め、北西部では殊に有名な話である。アデリシアは、失踪中のテオ=ハイボンの元妻。今は娘に恵まれ、何不自由なく幸せに暮らしているという。

 ハイボンの隣、ノックロックの領主であるジュード=ノックロックは、婚約者であった東の領主の娘と、四年前に結婚した。姉のもたらした後ろ盾に甘んじることなく、堅実に領地運営をしているようだ。亡くなった彼の父が生まれ変わるかのように、跡継ぎにも恵まれている。まだ若いが、安定感のある青年だ。


 「そこまで」

 男は楽しそうに制して、たたんでいた紙を広げて見せた。

 「はじめにヒントを与えすぎたみたいだな。でも、満足だよ。ありがとう、野良猫」

 書かれていた名は、全て彼が挙げたものだった。差し出された報酬を奪うように受け取り、彼はニヤリとしておまけを要求した。

 「完璧だったご褒美に、噂の真相を教えてよ。テオ=ハイボンが英雄の妻を連れ去った、本当の理由」

 男は愉快そうに笑った。

 「俺が知るかよ、そんなこと」

 「じゃあ、そこに並んでる名前はどう説明するんだよ?」

 粗末なテーブルの端に投げ出されたままの紙切れ。それを指差して問い詰める野良猫へ、男は軽く目を細めて言った。

 「秘密だよ、坊や」

 「ちぇ。また『坊や』か! 僕がいくつに見えてるか知らないけど、そこらの頭からっぽなオッサンよりは、男女のことに疎くないつもりだよ」

 「へぇ。じゃあ野良猫、男女のことに詳しいおまえの意見を、ひとつ聞かせろよ」

 男はどこかバツが悪そうに、微苦笑を浮かべて問うた。

 「『帰りを待つな』って三年も放っておいた女を今更迎えに行っても、やっぱり無駄だと思うか?」

 「……げー。何だよ、この追い討ちな感じ!」

 かさぶたを剥がされた気分で、野良猫は思い切り顔をしかめる。予想外の反応に眉を寄せる男へ、うんざりだと言わんばかりに頬杖をついて、ぞんざいに問いかけた。

 「なんで三年も待たせて、なんで今更迎えに来たんだよ!」

 「いきなり何を怒ってるんだか。質問の答えは、『誇れるような定職を探しに出たから。それを見つけて安定させたから』。いくら惚れてたって、その日暮らしじゃ守れないだろ」

 「あーもう、うるさいな! いいから早く行きなよ。待ってるよ、ジェニファーは」

 野良猫の苛立ちの意味をようやく理解した男は、目を丸くした後、吹き出して爆笑した。照れくさそうに片手で赤面を覆い、詫びる。

 「そうか。悪かったよ、野良猫。けどおまえ、あの手の女が好みだと苦労するぜ!」

 席を立ち、斡旋所を出て行く背中へ、野良猫は吐き捨てる。

 「余計なお世話だ!」

 その様子を見ていた斡旋人の男が、豪快に笑った。

 「おいおい、野良猫。あいつは相当な切れ者だぞ。五年前に身ひとつでこの町に転がり込んできたとは思えないほど、今は北東のでかい町で成功してる商人だ。宿を三つも買い取って、支配人になってるんだとさ。何だか気に入られたみたいだし、そんな一時のはした金で喜んでないで、ノウハウを盗むために雇ってもらったらどうだ? おまえはなかなかに賢いんだから」

 「そんなの、ごめんだね」

 無意味にパラパラと台帳を繰りながら、野良猫はふてくされた。雇われになどなれば、想いの通う二人を嫌でも目に入れなければならないではないか。あのジェニファーが、待ち焦がれた男の傍で満たされたように微笑する様など、見たくもない。勝気な女が見せる弱さが愛しく思える理由はただひとつ、それが自分にだけ向けられているという優越感からだ。他の男へそれが向けられたとたん、温かく穏やかな情は、苛立ちや幻滅へ姿を変える。

 「僕は自由が大好きなの!」

 言い捨てて台帳を閉じたところへ、斡旋人が諭すように語った。

 「だろうな。だからおまえに『野良猫』と名づけたもんだが、ひとつ覚えておけよ。自由もいいが、それは孤独と引き換えだ。歳くいすぎてから、後悔するなよ」

 野良猫は取り合わずに肩をすくめ、斡旋所をあとにした。説教は大嫌いだ。

 外では見事な夕焼けが、彼を待っていた。腹の虫が鳴る。今夜はどこで自棄酒をしようかと考え、彼はふと立ち尽くした。家路を急ぐ人々の中で、行き場を失っている自分に気づく。

 「あーあ」

 通りの向こうに沈む夕陽へ、途方に暮れたため息なんかをついてみた。

 自由は、孤独と引き換え?

 こんなに楽しくて、手放せないものなのに?

 彼は家族を捨ててこの世界に身を投じた。憧れてやまない自由を、手にするためだ。念願叶って、悠々自適の生活。何も不服はない。自分は自分、他人は他人。通り過ぎていく他人の人生など、どうでもよいことだ。気にしていたらきりがない。

 そう考えれば、幸せそうなジェニファーに酒を注文するのだって、悪くない。一人の女に自ら進んで縛られようとする愚かな男と杯を交わすのだって、悪くない。彼は哂っていればいいのだ、僕は自由を手放すつもりはない、と。

 でも。

 最後に照れくさそうに笑ったあの男を見て、ちょっと、ちょっとだけ、羨ましく思ってしまった。

 だから、今夜は別の酒場へ行こう。

 小さく自嘲して、野良猫は軽やかに駆け出す。裏路地に、微かな斜陽は届かない。彼の身はひとまず、闇に紛れていった。


余章・終


こんばんは、12月の風です。


我慢できずに、追加投稿してしまいました。愚かな書き手です。

実は第四部の中で一番のお気に入りだった登場人物が、彼だったのでした。第五章の(2)とか、書いていてとても楽しかったんです。

彼も幸せにしてあげたくて、こうなりました。短編を書いている気分で取り組めて、けっこう満足な「余章」となりました。


しばらくは勉強の旅に出ます。次に書いてみたいことはなんとなく決まっているので、それを始めたら、またぜひ遊びに来てくださいね。


では、その日まで。本当に、ありがとうございました。(09/10/27)

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