松風の災難:前編
――とある昼下がり。
遊女茶屋の萩屋下見世の一角で、魂が抜けたようにうなだれている松風が格子の前に座っていました。
格子の向こう側では遊女を買いに来た者、冷やかしにきた者などが、遊女たちの様子をうかがっています。
遊女たちはどんな客にでも愛想を振り撒き、茶屋で遊んでもらおうと男たちに声をかけていました。
そんな中で、心ここにあらずといった松風が、客から声をかけられても無反応な状態で、袖にされたと勘違いされているようでした。
やる気のない松風の態度を、若い衆たちはまずいとは思っているが、だからといって彼女を叱ることはしない。
ふだんなら容赦なく折檻されるものだが、店の者たちは松風に対して『あれでは仕方ない』と同情を寄せていた。
――それは一刻ほど前にさかのぼる。
茶屋に馴染み客が連れとともにやって来て、そのうちひとりの若い男のために良い女をあてがって欲しいと頼まれたのだ。
「部屋持ちの遊女は空いてないのか?」
「へえ。本日はご贔屓の旦那さま方が多くいらっしゃいまして、お待ちいただいてる方もあちらに……」
贔屓の遊女たちを待つ男たちが、中の間にあたる座敷でひしめき合っている。
幇間が客たちを飽きさせないように間を取り持っていた。
「ここが繁盛しているのはうれしいかぎりだが、――与作、どうするよ?」
「大部屋に押し込んで荒療治ってのもありだな、又助さん」
大部屋なら空いていると若い衆から伝えられると、度胸付けも兼ねて周りの情事が丸聞こえの部屋に入れてもいいのでは?と与作は答えた。
茶屋に連れて来られた若い男は、すでに青い顔をして黙り込んでいる。
又助はやれやれと頭をかきながら、若い衆に遊女の注文をするのだ。
「寅っ子の好みは素人娘のようなんで気の利いた優しい女がいいかと思ったが、今後のことを考えるとアキお嬢さまのようにキツイ女をあてがった方がいいかもしれんな。」
「女を怖がってるといったところでやることは出来るんだから、後は女の扱いを学ぶだけだし、まあものは試しってことで――」
おっさんふたりは、気が強く器量の良い女を若い衆に指定する。
すると若い衆は下見世で座っていた松風を呼んできた。
「下見世に落ちたとは聞いていたが、それでも松風はべっぴんだのう」
「……」
又助がしげしげと松風を見つめてる。
本当なら文句の一つでも口にしたい松風だったが、又助が直江屋の船頭で萩屋にとっては上客なことは知っているので、悪態をつくマネはしない。
水主は下品な者が多くて嫌いだが、船頭となるとそれなりの金を持っている。
高値で買ってくれるのは遊女としては有り難いことでした。
松風は表面上つんけんした態度で又助の様子を伺う。
「こうツンツンして澄まし顔の遊女がいいんだよ。オラ、寅っ子!とっとと松風を抱いて来い!!」
又助が顔色の悪い寅吉を、無理やり茶屋の内玄関に上げる。
その後ろから与作が支えるように若い衆のあとについて二階へと上っていく。
あれ?と松風は当てが外れた思いをしながらも、渋々と与作たちの後ろを歩いて行く。
一仕事終えたような顔で又助は与作たちを見送ると、待合所になっていた中の間へと足を動かしたのだった。
大広間の真ん中のふすまを若い衆が開けると、中からムッとするような女の匂いが充満していた。
与作が寅吉を乱雑に部屋に放り込むと、さっさと一階へと引き上げていく。
最後に松風が部屋へ足を踏み入れると同時に若い衆がふすまを閉めた。
敷かれた布団の上に、こちらを見ようともしない青い顔をした男が腰を下ろして震えている。
その光景に松風は小さく息を吐いた。
女を抱いたことのない若い男を、同じ仕事仲間の男たちが面白がって花街に連れてくるのはたまにあることだ。
そして初めての男を手ほどきして、自分の虜にしてしまうこともよくあること。
初心な男ほど遊女にのめり込みやすい。
上客が連れてきた男だし、それなりの出世が約束されていると思われる。
頭のそろばんを弾いて打算だろうが何だろうが、今は少しでも自分の環境をよくしていきたいと彼女は考えているのだ。
今から手なずけておけば、後々良い結果になって返ってくることに期待して松風は寅吉に近づいた。
「旦那さま、そのように怯えないでくんなまし。わっちは鬼じゃありゃしません。取って食ったりはしんせん」
そう言いながら松風は寅吉に微笑みかけた。
だが彼からの反応はなく、ひたすら石のように固まっている。
仕方ないと松風は打掛などを脱ぎ、衣桁にそれらをかけて、やや薄着になったところで寅吉にすり寄った。
さらに自分の胸元を彼の顔に近づける。
「おなごの肌は柔らかいでありんしょう?――ねえ、旦那さま」
松風は捕らえた獲物に食らいつく女豹の笑みを浮かべた。
が、寅吉はごふっとえずいたと同時に口を手で抑えて、松風をはねのけてふすまを音をたてて開け放つと、抑えた手から吐しゃ物を漏らしながら電光石火のごとくに一階へと下りて行ったのだ。
それから間を開けずに一階で何やら男たちの叫び声が聞こえてくる。
ワケも分からず呆然とする松風のところへ、案内役をしていた若い衆が静かにやって来て、大部屋には問題が起こってないことを確認すると、彼女の前に座って気まずそうに頭を下げ口を開く。
先ほどの客は体調が悪かったようで、すぐにお帰りになりました。
揚げ代もきちんと支払われるので、しばらくここで休んでもらっても構わない、このことは気にしないようにと告げられたのだった。




