二日目の初友人
もう一年近くも、こうして廃人のように横になっている。まるで自分の身体が自分の物ではなくなったようだ。
友人との交流も、学校の行事も、部活動の大会も、ひとつ残らずふいになってしまった。
その時間を全てベットの上で無駄に費やし、今日も窓の外をぼんやり眺める。魂の抜けたような目で空を見ていると、決まって兄が心配そうに話しかけてくる。
そんな彼に、自分は心にもない言葉を吐いてしまった。
「兄さんに私の気持ちが分かるんですか!? こんな、まるで真っ白な、画家のない画用紙みたいな私の気持ちが……兄さんがそうやって、私の友人から伝言を預かって来る度、私がどれだけ苦しい思いをしているか、分からないでしょう!? 兄さんは元気ですものね。兄さんは謳歌しましたものね。私にはなくなってしまいました。そしてこれからも…………」
その時の兄の顔は、怒るでもなく、悲しむでもなく、むしろ悔やむという色の見える表情を浮かべていた。そしてどうしようもなく悲しくなって、思わずそっぽを向いて、こう漏らしてしまった。
「もう、来ないで下さい」
*
翌朝。少々霧もやの掛かった空気の中で、一人剣を地面に突き立て、ひざまづいて俯く優姫の姿があった。普段はこんなことをする習慣はないのだが、剣を扱うにはまず心を落ち着かせるべきだと友人から聞いていたので、ゲームでよく見る格好をしている次第である。結果はまあまあというべきか。
アイテム欄から引き出した回復スキルを持つ簡素なロングソードを構える。
なぜこんな早朝から寒空の下に出ているのか。それは単に、こうして朝連を行っていなければ体が自然と鈍ってしまうという理由に基づいている。
そんな優姫の姿を見つめる、小さな視線に彼女は気付いた。こんな明朝に誰かが起きて来るなんて想像もしていなかったが、どうやら最近の子供はかなり早起きらしい。バケツ一杯に汲まれた水を制止させたまま、昨日の女の子がこちらを見ていた。
「お、おはよう……」
「おはようございます」
にっこり笑顔で返すと、優姫は静かに立ち上がり、剣の柄を握って地面から刃を抜く。銀色の刀身の根元、鍔に緑色の宝石が埋め込まれており、これによって回復効果を生み出す……という設定だ。いや、ここでは設定などではなく、事実だ。
慣れた手つきでロングソードを振るう。この腕からどうやってこんな動きを叩き出しているのか、優姫自身にも分からなかった。
コテージ入り口の階段で膝の上に肘をつき、合わせた手の平に顎を乗せた少女が興味深そうに優姫の華美な剣技を眺めている。その目にはキラキラした憧れのような物が浮かんでおり、文字通り見惚れていた。
本来、優姫の剣技は両手に剣を持って完成する。しかし、残念ながら今のステータスでそれを成し得るのは不可能だ。それに、二刀流は幾分疲れてしまう。朝っぱらからお披露目するにはお勧めしない。
三十分程の時間が経過したころ。それまで流れるように、落ちる葉までも切り裂けそうな剣技を披露していた優姫の腕が止まった。ふう、と息を吐き、腰に吊るした鞘に剣を戻す。一応これは常備しておくつもりだ。この辺りのモンスターは始まりの地と言う事もあって、殆どレベル1でも倒すに困らないモノばかり。そんな相手に対して一々MPを使い回すのは馬鹿らしい。この剣<リジェネセイバー>単体の攻撃力だけでも事足りる。
うんと背伸びをし、昇り始めた朝日を浴びる。霧が晴れ始めた。
「そういえば、あなたの名前は?」
「わ、わたし?!」
「はい」
顔を赤くしながら、口をもごもごする少女。りんごのような赤い髪が風に撫でられる。
「こ、コリン……おねえちゃんは……?」
「私は……」
そこで、優姫は言葉に詰まってしまった。喉まで出かかっていた声を押し込める。自然とVWにおけるアバター名が出そうになったのだが、これから自分はここで一生を過ごすというのだから、ここは本名を告げるべきではないだろうか。
十数秒だけ迷った結果、結局彼女は本名を名乗ることにした。日本語に準じた縦文字ではなく、この世界に倣った横文字でだ。
「ユキ・ウルウシです。好きに呼んでくださいね、コリンちゃん」
「う、うん、ユキ……おねえちゃん!」
澄み切った屈託のない笑顔に同じような表情を反した後、張り切って朝の体操を始めたコリンに連れられ、眠い目を擦りながら柔軟体操を行うユキであった。
「ごちそうさま!」
「ごちそうさまでした」
朝の冷えたコテージ内に、二つの少女の声が響いた。一方は元気のよいコリンの声。もう一方は、コリンに比べて大人びた雰囲気をまとうユキの声。おそまつさまでした、という女将さんの声がそこに加わり、まるで家族のような光景がそこに広がっていた。
空になった自分とユキの皿を運び終わったコリンが、ユキの隣の椅子に座り、彼女の膝に手を置きながらお喋りを始めた。その中の良い光景を見て、女将さんがあらあらと声を上げる。
「なんだか、そうしてると姉妹みたいねー」
「凄いんだよ! ユキおねえちゃん、剣をしゅばばばーって!」
ユキの剣真似をするコリン。そんな少女の小さな足取りを見て、くすくすと笑うユキ。
「そうだ! ねえユキおねえちゃん、お昼に村へいかない?」
「村?」
うん、と頷くコリン。そう、この辺りには一つだけ小さな村が存在する。緑に覆われた、いるだけで非常に良い気分になれる自然の中の村だ。残念ながら、ショップ等で売られている武器や防具などは大した物がないので、訪れるプレイヤーは殆どいないのだが。
しかし、とりあえずこの御誘いには乗っておくべきだろう。少しでも世界、この大いなる大地<ガラーダンド>の一部を見ておきたいし、何よりもこんな笑顔を向けられたとあっては、ユキには断れなかった。
兎にも角にも、もう一日宿泊するか、今晩一杯でこのコテージを去るか決める必要がある。。どちらにせよ永住する訳にはいかない。
ここを後にしたら、北上して<水の都プランティス>へ向かう予定だ。町のギルドで依頼を受領し、金銭を溜めた後にマイホームを購入する。それが第一目標だ。もっとも、依頼掲示板がゲームのときと同じように存在していたらの話だが。
一通り今後の予定を女将さんに告げると、彼女は残念そうに頬に手を当てた。
「そうかい……コリンは寂しがるだろうけど、仕方ないわねえ……頑張るんだよ」
「はい、それでは」
外で待たせているコリンの元に向かい、歩いて近くにあるという町へ向かうことにした。普段は馬車を使うらしいが、生憎今は亭主さんがプランティスに行くために使っているらしい。出稼ぎだろうか。どちらにせよ、都に出なければならない事情があるのだろう。その辺の過程の事情については頭を突っ込むべきではない。
昨日の固い態度が嘘のようにユキの手を握って、鼻歌を歌いながら歩いているコリン。横目に見ると、ニコリと曇りのない澄み切った笑顔でこちらを向いた。ユキも、それにできるだけの笑顔で返す。しかしどこかその笑顔はぎこちなく、コリンのような純粋な表情は見せられなかった。
長い療養生活の中で欠けたものは、どうやら他人とのコミュニケーション能力だけではないらしく、女性として重要な仕草まで、あの隔離されたような白い病室はユキから奪い続けていたらしい。それを完全に失わなかったのは、やはりこの世界のおかげなのだろうか。
自問自答しても答えが出ないのでは、もう今のユキにそれを知るすべはない。
そんな考え事とコリンとの会話を繰り返しながら森の中の道を歩くこと約三十分。途中でモンスターに出くわすこともなく、なんとか村に辿りつけたユキとコリン。
コリンはごそごそとスカートのポケットを探ると、中から小さな紙切れを取り出した。それをジッと凝視するコリンの肩から、腰を折って覗き込むユキ。
「おつかい、ですか?」
「うん。ついでにって、お母さんに頼まれたの」
「じゃあ早速いきましょう。まずは野菜売りのところへ行って、タマネギとニンジンですね」
「うん!」
コリンの手を引きながら、村の中央を歩いて行く。傍から見れば普通に姉妹に見えるだろう。
しかし、コリンのことをよく知る村人たちから見れば、幾分珍しい光景となっている筈だ。何せ、いつもは母か父と共に村を訪れる彼女が、今回は名も知れぬ見知らぬ少女と共にやってきたのだから。
動物園のパンダの如く視線を浴びていることを自覚しながら、ユキはそそくさと次の店へ、次の店へとコリンの手を引きながら歩を進めるのであった。
「ここで最後ですか?」
「うん。薬草三十個くださーい!」
はいはーい、と雑貨屋の奥の方から中年男性の声が聞こえて来た。どうやら、仮想世界のときと同じで、薬草は野菜の類に含まれていないらしい。密かな確認を終えたユキは、運ばれて来た薬草の個数をコリンが確認するのと横で見ながら、店内の展示品を眺めていた。
「姉ちゃん見ない顔だなー……やっぱり旅人かい?」
「はい。ここでは、薬草以外に治療アイテムは扱ってますか?」
「治癒石なら、在庫が十個ほどあるぜ。どうだい、うちの息子の嫁になってくれねえか」
「丁重にお断りいたします」
冗談半分の提案を丁寧に断ると、確認を終えたコリンと共に店を後にした。両者両腕に膨らんだ紙袋を抱えており、もうこれ以上は買っても持てないという状態になっていた。
欠伸を袋に隠れて済ませた後、少し涙をためた状態でコリンの方に視線を向ける。
「そういえば、今日はどうしてここへ? 何か用があったんじゃ……?」
「うん。村のお友だちに、おねえちゃんのことを紹介したくって……だめ?」
「いえ、私は構いませんよ。コリンちゃんの大切なお友だちなのですから、無礼のないようにしなくちゃですね」
「い、いいよいいよ、そんなに気を使わなくても!」
慌てて首をぶんぶん左右に振るコリン。綺麗なショートヘアーがこまめに揺れ、彼女の頬を叩く。そんな彼女の慌てっぷりを見て、ユキはくすくすと紙袋で口元を隠しながら笑みを作っていた。